内田樹という迷惑・命のはたらきと遊び心

命のはたらきとは「一生懸命」のことである、と誰かが言っていた。あほらしい、われわれはもう、そんな低俗で制度的な物語にはだまされない。
命のはたらきは、「労働」ではないのだ。
命のはたらきのことを、「ホメオスタシス」というらしい。
体の中に異物が入ってくれば、それを排除する。けがをして血を流せば、血をかたまらせて止めようとする。まあ、そんなような身体反応のことです。
たとえば牛の体に害になる液体を大量に注射しても、それは全部おしっこになって外に出てゆく。
こういう身体反応を、生きようとする「志向性」である、といっている哲学者もいます。そうやって「一生懸命」になる。内田氏だって、生き延びようとするのが生きものの本性である、という。どいつもこいつも、口を揃えてそんな気味の悪いことばかりほざいていやがる。
そんなものは、ただの制度的近代合理主義的な「物語」にすぎない。もう、うんざりだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
生きものは、「未来に向かう」のではない。「現在から逸脱してゆく」のだ。未来なんかめざしているわけではないが、現在に異変を感じればそれを嘆くようにできている。それは「拒絶反応」であって、未来に向かう「志向性」などではない。
いやなものは、いやでしょう。
われわれは、空腹の嘆きの分だけ飯を食ってうまいと思うのであって、飯を食いたいという衝動の分だけうまいと思うのではない。言い換えれば、空腹の嘆きがなかったら、飯を食いたいという衝動なんか生まれてこない。12時になったら飯を食いたくなるのは社会的な習慣であって、命のはたらきではない。命のはたらきのレベルにおいては、空腹の嘆きの上にしか飯を食いたいという衝動は成り立たない。
拒食症とは、空腹の嘆きを失った病でしょう。先験的な飯を食おうとする衝動なんか誰も持っていないから、そういうことが起きてくる。空腹の嘆き(=拒絶反応)があるからこそ、飯を食おうとする。そうやって現在から逸脱してゆこうとする反応を「ホメオスタシス」という。
生きものは「結果」として未来と出会うのであって、未来を目指そうとする衝動など持っていない。生きものは、未来という時間を知らない。
未来という時間は、いま目の前に存在している対象ではない。
生き物の「命のはたらき」に、未来などという対象は存在しない。生き物は、未来など目指していない。
「命のはたらき」は、「一生懸命」とか「生き延びる」などという「労働」ではない。「拒絶反応」によって現在から逸脱しようとする「遊び」なのだ。
生きていれば、いつも身体の変調に対する「拒絶反応」という「嘆き」が起きてくる。命は、「拒絶反応」という「嘆き」とともにはたらいており、その結果として、われわれは未来と出会いつづけている。それだけのことだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そこにコップが存在する、と認識することは、ひとつの「嘆き」である。
そのコップは、私の身体ではないところの「異物」である。意識は、「異物」としてコップを認識する。認識するとは、そういう「嘆き=違和感」としての心のはたらきにほかならない。
認識するとは、嘆くことだ。
この世界に存在するものはすべて、私の身体ではないところの「異物」である。
われわれの心の中には、「嘆き」が流れている。そこから、「美しい」という感動やときめきが生まれてくる。
心は、流れようとして流れているのではない。「拒絶反応=嘆き」にうながされて流れてゆくのだ。
「嘆き」を整えようとする心の動き、それが芸術にも恋にもなる。いや、生きるいとなみそのものが、そういう心の動きの上に成り立っている。
「嘆き」がないのなら、誰も人と仲良くしようとなんかしない。人と仲良くせずにいられない「嘆き」を、われわれはかかえているのだ。
「遊び」とは、嘆きを整えようとする行為である。
そのコップを認識することの嘆きを整えることによって、コップが親しいものになる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生きものは、空腹の嘆きを整えるためにものを食う。
しかし人間は、生き延びるために食う。それは、労働である。
人間だってもともとは嘆きを整えるために食っていたのに、いつの間にか生き延びるための労働として食うようになった。
原初の人類は、食えるものなら何でもいいという生き物だった。そうやって、サルと別れた。数百万年前のある時代においては、木の根ばかりかじっていた人種もいた。そんなに食い物がないのならほかのところに移動すればいいのに、しなかった。食い物など、食えればなんでもよかったからだ。サルでは、こうはいかない。
彼らは、空腹の嘆きを整えるだけのために食っていた。
250万年前に森の暮らしを捨ててサバンナに進出することができたのも、食えるものならなんでもよかったからだ。それまで木の実や木の根を食っていたものたちが、肉食動物が食い散らかした草食動物の死体の残りかすを食って暮らすようになったのである。
生きものにとって食うことは、生き延びるための「労働」ではない。空腹の嘆きを整えるための「遊び」にすぎない。
どんな生きものにとっても、生きることは、本質的には「遊び」である。「労働」ではない。
そして、徹底的に「遊び」にしてしまったのが人間なのだ。
生きものは、生き延びようとするのではない。現在を逸脱してゆこうとするのだ。
「嘆き」にうながされて逸脱してゆくのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
内田氏は、こういう。
「常識」は真理でも正義でもないが、われわれが生き延びるための知恵のようなものである、と。
彼にとって人間が生き延びようとすることは、自明のことであるらしい。真理でも正義でもないが、人間の本性である、と思っておられる。
われわれは、それを疑う。
こういうガツガツして生き延びることばかり考えている人間には、「遊び」の醍醐味はわからない。
生きていることなんか、ただの遊びさ。
生きることが生き延びる労働であるのなら、生き延びられない人間は死んでゆくしかない。
生き延びるための「常識」を持たない人間は、生きていてはいけないのか。
しかしねえ、生き延びるための「常識」を持たない人間でも生きてゆけるのが人間の社会でしょう。
生き延びるための「常識」を持っている人間しか生きていけない世の中なんて、ひどい世の中だと思う。
誰だって、遊び呆けて生きていきたいでしょう。
でも、遊び呆けて生きてゆくためには、金があるだけではすまない。
そのための力量というものがある。生きてあることの「嘆き」と和解してゆくことのできる感性をそなえていなければならない。
本気で遊びつづけていけば、どんどんしんどくなってゆく。金だって、そのうちなくなってしまう。あなたは、そこまで遊びつづけることができるか。ときに人はそういうことをしてしまうのであり、そういう人間が生きていてはいけないということもなかろう。そういう人間と一緒に生きていることが、われわれのよろこびになったりもする。
ばかでぐうたらな男をつかまえて苦労している女は、今でもいる。たいていの女がそういう男はさっさと捨ててしまっているのだとしても、「遊び」と「嘆き」を知っている男と一緒に生きることのよろこびはたしかにあるのだ。
かたちだけ遊んでいても、ほんとの「遊び」も「嘆き」も知らないから、女によろこびを与えられないのだ。問題は、むしろそこにある。世の中の動きが何もかも「労働」になってしまって、本格的な「遊び心」や「嘆き」を持った人間が少なくなっているのかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
世の中が内田氏のような「生き延びるための常識」を振りかざす人間ばかりになるなんて、とんでもないことだし、そんな世の中がいつかやってくるとも思えない。
「生き延びるための常識」を振りかざす人間と一緒に生きるよろこびがどこにあるのか、僕にはさっぱりわからない。
若者に対して平気で「成熟せよ」と迫ってゆく無神経な大人と一緒に暮らすよろこびがどこにあるのか、僕にはさっぱりわからない。
子供を成熟させるのがよい社会で、成熟させてやるのが大人のつとめなんだってさ。
若者から「青春」を奪って成熟させることは、そんなに立派なことなのか。未熟な愚かさで傷ついたり嘆いたりしている青春は、奪ってしまわねばならないのか。
傷ついたり嘆いたりする未熟さを持っていない人間は、そんなに魅力的なのか。
誰もがそういう「嘆き」や「未熟さ」をかかえているではないか。そういう「嘆き」や「未熟さ」をかかえながら生きてゆくことを願ったらいけないのか。
そういう「嘆き」や「未熟さ」を「遊び」によってカタルシスに変えてゆくことのできる「遊び人」という人間をわれわれは憧れ尊敬するわけで、「常識」をそなえた大人の「成熟」というインポテンツな鈍感さで「解決」することのどこが素晴らしいのか。
人間なんて、成熟しない生きものなんだぞ。
「成熟せよ」だなんて、内田さん、あなたの言うことは「幼稚」で「未熟」で「鈍感」なのですよ。