内田樹という迷惑・かみ

「神(かみ)」という言葉の語源について考えてみます。
日本で最初に「かみ」と表記した「古事記」の編者太安万侶は、中国大陸の「神」という文字をそのまま使うことを避けて、「迦微(かみ)」と書いた。
中国の「神」という言葉は絶対的な尊厳や力の意味も含んでいるが、日本列島の古代人にとっての「かみ」は、あくまで「かみ」という対象を意味するだけで、そういう絶対的なまがまがしい性格の意味は含んでいなかった。性格をいうときは、「・・・・・・のかみ」というかたちで上に説明が付け加えられた。そしてその性格も、たんなるこの世界の現象を指しているだけで、異次元の絶対的な力とか尊厳とかというような意味はなかった。
イザナギイザナミ」は「誘(いざな)い」のかみで、「アマテラス」は太陽のかみ。それだけのこと。
オオクニヌシノミコト」の「おお」は「負う」、「ぬし」は「ひとりぼっちの孤独な人」という意味。つまり「国づくりの責務を負いながらひとりぼっちで途方に暮れているかみ」、という意味。そこで、「スクナビコナ」のかみがやってきて協力してくれる、という話に展開してゆくのだが、「すくなびこな」とは、「目に見えないくらい小さな」という意味。古代人にとっては、「小さな」ということ自体が、「かみ」であることの尊さになったりもしていた。彼らにとっては、この世界の現象それじたいが、不思議で畏れ多い「かみ」という対象だったのだ。
古代人の神体験を、現代人のまがまがしい宗教体験と混同するべきではない。「かみ」という言葉を知っていたから「かみ」という言葉が生まれてきたのではない。そんなことは、あたりまえだ。「かみ」という言葉を知らないところでの「かみ」という言葉が生まれてくる契機があった。古代人の神体験は、宗教というより、宗教が生まれてくる契機だった。
だから、古代の神道には、教義がなかった。教義は、のちの世の宗教として確立されてゆく過程で生まれてきた。
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「かみ」の「か」は、やまとことばでもっともクリアな響きを持った音韻。「かっ」となる、の「か」。確かさの感慨。しかし、古代人にとってのもっとも「確かさ」を感じる体験は、目の前に見えるものではなく、遠くの見えないものが確かにあると感じられるときにこそ、より深く体験される。だから「かなた」というのだし、においを「かぐ」ともいう。「香(か)」は、たんなる「かおり」であるであるがゆえに、より深い確かさの感慨でもあった。
たとえば、茶碗にふたをしてこの中には金魚が入っている、といわれれば、「そんなはずないだろう、茶碗に入っているのはご飯に決まっている」と言って、ふたを開けようとする。
しかし、もしそのふたがどうしても開けられないものだったら、だんだんほんとうに金魚が入っているような気がしてくる。そうしてしまいには、ほんとうに入っていると信じてしまう。
まあ、そんなようなことだ。
「気配」というものの確かな信憑性。それが、古代人にとっての「かみ」だった。
空を飛ぶ鳥を眺めながら、あの鳥の中には「かみ」が入っている、と思う。だから空を飛べるのだ、と。
鳥も獣も草も木も、すべては「かみ」の入れものである・・・・・・古代人は、そう認識していた。それは、鳥や獣や草や木が存在することに対するダイナミックな感動から生まれてくる認識である。そのような「気配」というものに対する信憑性を感じ取ることのできる心の動きのダイナミズムを、われわれ現代人はすでに失ってしまっている。
それは、科学という客観性の学問が発達したからだろうか。いや、それだけではない。「生き延びるための常識を持て」とか「成熟せよ」とか、くだらないことをほざく大人がのさばっている世の中だからだ、ということもある。
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古代人の「神(かみ)」は、そのようにしてより深く確かに感じられる対象であった。見えないから、「確か」なのだ。
「み」は、動詞の体言。「かなしむ」の体言は「かなしみ」。
「かむ」という動詞がある。文字通り、「噛む」。「かむ」の体言だから「かみ」。
牛肉の本当の味は、舐めたってわからない。噛んでみて、はじめてわかる。「かむ」とは、そのものの本質をとらえる行為のこと。本質というとなんだか陳腐だが、世界が存在することの事実を確認すること、すなわち見えないものの存在をより確かに認識する行為を「かむ」という。
「かみ」とは、世界が存在するという事実そのもののこと。古代の日本列島の住民は、そういうかたちで「かみ」を認識した。
「かみ」は、「かむ」の体言なのだ。
「む」・「うむ」・「うん」と言ってうなずく。「む」は、完了・確認の語意。したがって「かみ」とは、ここで世界が完結しているという感慨にほかならない。
あの鳥は神だ、と言うとき、あの鳥自体で世界が完結しているという感慨がある。つまり、その鳥の姿にすっかり心を奪われてしまう。その瞬間だけは、その鳥において世界は完結している。あの鳥はかみだ、という認識は、そういう体験にほかならない。
この世界のすべての現象は、それ自体において完結している神である、という感慨を古代人は抱いた。すべてのものは、神の入れものである。神そのものは、見えないからこそより確かに感じられる対象であり、言い換えれば、心の目には、はっきり見える対象だったのだ。
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「あなた」と「私」がここにいる。世界は、ここにおいて完結している。「あなた」は、「私」の「外部」であると同時に、この世界の「果て」である。「あなた」の向こうにはもう何もない。ここにおいて、世界は完結している・・・・・・日本列島におけるそういう人と人の関係のタッチが、すでに日本列島的な「かみ」のイメージにほかならない。
世界は、「私」の外部である。「私ではない」ということの不思議。世界は、存在そのものにおいて不思議である。
「私」のかなしみと「あなた」のかなしみは同じではない。「私」は「あなた」のかなしみを体験することができない。「あなた」のかなしみは、「かみ」である。そう気づいたとき、私たちは、ともに「かなしみというかみ」に抱かれている。
「かみ」とは「かむ」の体言。「よろこび(かなしみ)をかみしめる」という。それが、「かみ」と出会うという体験にほかならない。世界が存在するという事実を深く認識すること、そこから「かみ」という言葉が生まれてきた。
世界が存在することの不思議におそれおののくこと、不思議をかみしめること、そうした対象はすべて「かみ」だった。あなたの悲しみも、道端の小さな花も、意識がその存在(=事実)の不思議に深くとらわれてしまったとき、それは「かみ」になる。
「かみ」との出会いを体験するとは、「かみしめる」ことだ。
それは、現代人がイメージするようなまがまがしい観念体験のことではない。
古代の神道に教義などない。古代人の心の動きが教義だった。われわれは、後世の者たちがこねくり上げた、そんなややこしい観念遊戯を知りたいとも思わない。ただ、古代人の「かみ」という言葉がほころび出る瞬間を追体験してみたいだけである。
追体験できるのだ。われわれの胸の中にも、古代の心性は息づいている。
空の青さが目にしみるとき、われわれは古代の心性を体験している。しかしそれは、簡単なようで簡単な体験ではない。たとえば病気になるとか、失恋するとか、そういう「なげき」を抱えている人によってこそより深く体験されている。
「あなた」や、この「世界」の存在や、みずからの生をより深く味わい尽くすこと、それが「かみと出会う」という体験になる。
それは、けっして「生き延びる」という体験ではない。世界は、この生は、「今ここ」において完結している、と立ち尽くす体験なのだ。