内田樹という迷惑・迷信

古代人が「かみ」という言葉を生み出した体験は、宗教体験ではない。宗教が生まれてくる「契機」となる体験だったのだ。
「輪廻転生」がどうだとか「生まれ変わり」がどうだとか、そんな現代人のごときまがまがしい宗教体験とは違う。
それは、「かみ」という言葉を生み出す「遊び」だった。その結果を、のちの世の人間が「宗教」という「労働」に変えてしまった。
いったい、現代人と古代人のどちらが迷信深いのか。人間は、歴史とともに、どんどん迷信深くなってきている。
歴史上、現代人ほど迷信深い人種もいない。
「あの人は私を嫌っている」と思うとか、「あいつは俺を殺そうとしている」と思うとか、その他さまざまな強迫神経症は、ひとつの迷信のかたちにほかならない。
自分が80歳まで生きると決めてかかっているのは、いや、明日も生きてあると決めてかかっているのは、ただの迷信なのだ。そうやって生きたこともない自分の未来の時間を勘定しているなんて、ただの迷信だ。
ブラジルに行ったこともないくせに地球の裏側にブラジルがあると簡単に信じてしまっているのは、ただの迷信だ。行ったことがないのなら、あるかどうかわからないではないか。あると決め付けることなんかできない。
古代人は、経験したことしか信じなかった。
空を覆っていた雲がちぎれて、太陽がのぞく。そういう経験を何度もしているから、雲の向こうに、あるいは夜の向こうに太陽が隠れているのを信じることができる。そういう気持で、この世界の現象の本質として隠されてある「かみ」を信じていった。
「あの鳥は神である」という認識は、迷信ではない。人間にできないことができている不思議を「かみ」と呼んだまでのことだ。
「あなた」は、「私」ではない。「あなた」が存在することの不思議。この世に、不思議でないものは何もない。そういう対象の「不思議=本質」を、「かみ」と呼んだまでのことだ。
「私」が泣いてしまう。それは、「嘆きのかみ」が存在しているからだ、と思う。「私」は、ただぼんやりと生きているのではない。つねにいろんな喜怒哀楽が起きてくる。そうやって「私」は、「私」から逸脱してゆく、「日常」から逸脱してゆく。そういう「非日常」的な「私」を逸脱している現象を、「かみ」のはたらきだと思った。
やまとことばの「かみ」に、「絶対」という意味などない。ただ「噛(か)む」という言葉から転化しただけのことだ。「かむ」とは、そのものの本質をとらえる行為であり、「かみ」とは、そのものの本質、という意味があっただけのことだ。
その本質に気づいて、畏れたりおののいたりときめいたりしただけのことだ。
古代人の心の動きは直截でダイナミックだったが、現代人のような迷信など信じていなかった。
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本居宣長は、「嘆(なげ)く」とは「長息(ながいき)する」からきている、と言う。だったら、初期の縄文人などは、「なげく」といわないで「ながいきする」と言っていっていたのだろうか。
この解釈は、なんだか学者の言葉遊びのような匂いがする。
「はあ〜」と長いためいきをつく。そんな現代の鬱病患者のようなことを、縄文人がしていただろうか。
彼らは、嘆くときは、直接泣いたでしょう。
「なげく=なけく」は、そのまま「泣(な)けてくる」というような意味だったのではないだろうか。小細工なんかいらない。
「な」は、体の中が空っぽになってゆくような心地の発声。空っぽになってしまうのが、「泣く」という行為。
「け」は、体の中の空気が揺れて震えるような不安感をともなう発声。そういう不安感のことを「気(け)」という。
「く」は、たとえば「春めく」の「く」。だんだんそうなってゆく現象・行為。
だったらもう「なげく=なけく」は、「泣けてくる」気分そのものを表出した言葉であろうと思える。
縄文時代に「なげく」という言葉はなかったかもしれない。しかし「泣けてくる」とは言っていたに違いない。ともあれ古代人にとってそれは、直接的な「泣く」という行為につながった気分であったのだろうと思える。
縄文人は、よく泣いていたのだ、たぶん。
そして現代の若者たちも、男も女もよく泣くらしい。だったらそれはきっと、古代の心性がよみがえっていることの証しだろう。
泣けばいいさ。「生まれ変わり」などを信じてへらへら笑っている迷信深さより、そうやって信じることのできない立場の不安を嘆いて泣いているほうがずっと健康的である。
泣くことは、「かみと出会う」体験だ。