内田樹という迷惑・わかれうた

ネアンデルタールは、どうやら「たれ目」だったらしい。
発掘された彼らの頭蓋骨の写真を見ていると、どうしてもそう思えてくる。
目の部分の空洞が、まさしくそんなかたちになっている。
そりゃあそうだろう。極寒の地で50万年も泣き暮らして生きてくれば、たれ目になるしかない。
死が日常茶飯事だった彼らは、「なげき」を味わい尽くして生きた人びとだった。
たれ目であれば、涙がすぐ目のふちからこぼれてゆく。極寒の空の下で、涙がいつまでも目の中にとどまっていたら、目の中が凍ってしまう。
というか、涙が出てくれば目の中が温かくなるから、ときどきは泣いた方がいい。そして、凍りつく前に流してしまう。そんなことを繰り返しながら、たれ目になっていったのかもしれない。
西洋人は、おおむねたれ目である。中国人のように目がつりあがっている人はほとんどいない。
そうしてネアンデルタールは、鼻が大きかった。これは、寒空の下では口を開けて呼吸できないから、どうしても鼻で息をしてしまう、ということからきているらしい。いったん吸い込んだ空気を、鼻で温める。そのために鼻が大きかったのだとか。
また、とくに男は面長の「うまづら」が多かった。鼻が大きくて長いから、どうしてもそんな輪郭になる。
この典型がみごとに現れた顔をしているのが、イギリスのロックグループ「ザ・フー」のリーダーであるピート・タウンゼントである。彼は若いころ、その鼻に大きなコンプレックスを抱いていたらしい。
基本的にネアンデルタールの顔面骨格は現在の西洋人よりやや東洋的で、北海道のアイヌ部落を訪れた西洋の人類学者が思わず「ネアンデルタールがいる」と呟いた、という話もある。
アイヌ人の顔は、われわれより少し彫りが深い。アイスランド生まれの歌手ビョークは、アイヌ顔かもしれない。
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北国の気質、というのがある。
人恋しくて、涙もろくて、激情家で、屈折している・・・・・・そんなようなことがよく言われる。
彼らの暮らしは雪に閉じ込められる期間が長いから、どうしても自分と深く向き合ってしまう。そうして男は屈折し、女は感情の起伏が激しくなったりする。
しかし青森と北海道では、少し違うらしい。北海道のほうが大陸的で、北海道人はあんがいネアンデルタールと気質が似ているのかもしれない。
北海道生まれのシンガーソングライターである中島みゆきは、この国のポピュラー音楽界の「カリスマ」たちのなかでも、ちょっと異質な存在である。
あんなにも「なげき」の歌に徹している歌手はいない。
美人で明るくおおらかな人柄だから、その徹底した嘆きぶりも受け容れられるのかもしれない。いや、あの嘆きぶりは、徹底しつつしかもどこか空に突き抜けるようなおおらかさがある。北海道生まれだからだろうか。ただじめじめうじうじしているというのとは、ちょっと違う。
なげきぶりが、ちゃんと「カタルシス」に届いている。
その出発点になったのが、二十数年前の「わかれうた」だった。
大ヒットした。
しかし当時世の中は、高度経済成長とともに人びとがどんどん浮かれていっている時代だった。
そんな時代に、彼女は徹底的な「なげき」の歌で挑戦していった。そのあとにZARDが出てきたりして女の「なげき」歌の水脈が絶えずにすんだのは、この歌の成功があったからかもしれない。
松任谷由美などのおしゃれでポップで明るい歌が主流になってゆく状況にあって、彼女は、徹底的に開き直った。
もともとフォークシンガーだったが、この歌ではやや明るい歌謡曲調のメロディラインを加え、そこにひたすらなげき狂う歌詞をのせていった。
まず「道に倒れて誰かの名を呼びつづけたことがありますか」と歌い出す。そうして「追いかけて焦がれて泣き狂う」とつづいてゆく。
ふつうの男なら「よしてくれよ」と反応したくなる歌詞である。
それでも大ヒットした。
男たちも支持した。
その歌詞によれば、「私」を振った男がどうなるかというと「あなたは憂いを身につけて浮かれ街あたりで名を上げる」のだとか。
男は、これをどう解釈すればいいのか。
「いい気になってそんなポーズをつくりながら、また女を引っかけまくっている」ととるのか、それとも「ほんとにいい男になって自然にそんな気配がにじみ出るようになった」と解釈すればいいのか。
中島みゆきの本当の意図はどちらにあったのだろうか。
僕は、前者だと思った。そしてそれでもそんな男を許し、「追いかけて焦がれて泣き狂う」と歌っているように聞こえた。
作家の吉行淳之介は、これを「処女の歌だ」と評した。
たしかに、そうかもしれない。
当時中島みゆきは、20代のなかば頃だったろう。処女であるはずがない。それでも、どこか潔癖でひたむきな処女性が漂っている。吉行淳之介にすれば、そこまで必死に男を追いかけられるのは処女を与えた相手に対してだけだ、という思いがあっただろうし、処女でもないくせにまだそんなふうに男や世界を眺めているなんて、きみも大変だね、と言ってやりたくもあったのかもしれない。
たしかにそのころの中島みゆきは、すでにたくさん恋もしてきただろうに、その顔つきは、どこか小学校6年生の女の子のようなあどけなさや不安が漂っているように見えた。
そんな顔をして、すさまじい失恋の歌を歌って見せたのだ。
男とやりまくって生きているくせに、いつまでたっても小学校六年の処女みたいな顔つきをしている女というのは、ときどきいるものだ。
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たぶんこれは、成熟を拒否する歌なのだろうと思う。
高度成長を続ける時代の成熟を拒否し、さらに、女として人間として自分が成熟をめざすことを拒否しているのだ。
そのことを、大衆が支持した。誰もが大人になって時代と調和して生きてゆこうとしつつ、どこかで「もうひとりの自分」がそれを拒否している。
ZARDにしても、女の「なげき歌」は、成熟を拒否する歌なのだ。
中島みゆきも、美人だけど「たれ目」である。
たれ目は悲しげだから男心をそそるのか。いや、そんな単純なものではない。中島みゆきが沈んだ顔になって「わかれうた今夜も口ずさむ」と歌うとき、なんだか男をうらんでにらんでいるようなちょっとこわい表情になる。
なぜだろう。
たれ目のくせに彼女は、男をたらしこむような甘い憂いの表情を持っていない。彼女が憂いの表情になると、男は怖がる。彼女には、男に甘えてたらしこむ才能はないのだろうと思う。せいぜいばかな女のふりをして、相手に安心させてやるくらいのことしかできない。
彼女は、時代も、みずからが成熟することも拒否している。真顔になると、それがつい出てしまう。それはもう、隠せない。
成熟できる女とは、男に甘えてたらしこんでしまえる女だ。そういうかわい子ぶりっ子の女こそ、生きることは時代と調和してゆくことだという、すでに成熟した思想を持っている。彼女はもう「処女の不安」など、とっくに捨てている。悲しげに甘えて見せる表情をつくることに、迷いがない。彼女こそ、「大人」なのだ。「追いかけて焦がれて泣き狂う」というようなばかなことはけっしてしない。すぐべつの男をつかまえる。「なげき」など味わわない。そんなことは子供のすることだ。
かわい子ぶりっ子は、「なげき」を捨てることと引き換えに、「成熟」することを選ぶ。「成熟」して、男をたらしこむ手練手管を手に入れてゆく。
そして内田氏は、すべての女がそんな生き方をすることを勧奨する。まあするのは勝手だが、世の中がその通りになることはないだろう。
人間は、成熟しない生きものである。それは、「死」を知ってしまったからだ。
成熟を拒否する女たちがいる。それは、死にたくないからではない。成熟したら死ねなくなってしまうことを本能的に知っているからだ。
歳をとるのが怖いのではない。女は男よりもそれをスムーズに受け容れる。あくまでも「成熟」することを拒否するのだ。中年を過ぎてもまだ花柄の派手な服を着ている女はよくいる。女は、男よりももっと成熟を拒否する人種であるらしい。
ともあれ、「浮かれ街あたりで」いい気になっている男の「憂いを身につけ」たようなポーズは、かわい子ぶりっ子の女の悲しげな目つきと同じことだろう。それでも、そんな男が相手でも、振られればちゃんと死んでしまうところまでなげかずにいられない女がいる。
男に幻滅しつつ、男にすがりついてゆく。
彼女らは「なげき」を手離さない。
中島みゆきの「わかれうた」は、なんだかネアンデルタールの女の歌みたいだ。
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