感想・2018年12月30日

<処女と従軍慰安婦
今、電子書籍にするために「女性論」を書いています。
主題は、女の中の処女性、そしてそれは日本文化の伝統の問題でもある。
「処女」とは、処女を守ろうとする存在であるのではない。処女にとってセックスは死にも等しいような体験なのに、それでも「やらせても上げてもいい」と思う。処女がそういう気になる存在でなければ、生物の雌雄のしくみなんか成り立たないではないか。したがって、この世でもっとも深く豊かに「処女性」をそなえている女は「娼婦」だ、ということになる。
従軍慰安婦の強制連行なんか一部ではあっただろうし、そういうことが起きるのが人の世のつねなのでしょう。「なかった」だなんて、いかにも不自然であり、人間について無知すぎる理解です。そんなことはすべての現場を検証してからいえ、という話であり、われわれにいえることはただ、人間の本性に照らしてそれはありうることだ、というだけです。
従軍慰安婦にされることはたしかに悲惨なことだけれど、そこにだって女の中の「処女性」の尊厳はある。
かんたんに「もう死んでもいい」と思ってしまう……女の中には強制連行されてしまうような「処女性」が宿っているのであり、そうやって江戸時代にはたくさんの貧しい農村の処女たちが身売りされていった。
この世の中でもっとも潔く娼婦になる決断ができるのは処女であり、戦後の荒廃した街にパンパンと呼ばれる街娼が現れてきたのは、日本列島の女の中に宿る処女性の伝統にほかならない。娼婦性とは処女性の別名なのだ。
親や周りの大人たちに諭されて従軍慰安婦になったことだって、強制されたのも同じではないか。人類の歴史は、世界中等しくそういう罪を負っている。
人類の歴史を中心で支えてきたのは神への信仰ではなく、女の中の「処女性」なのだ。
この国の戦後復興も、まずは処女性の象徴としての「女神」を祀り上げながら、人と人がときめき合い連携してゆくダイナミズムを生み出していった。それはとても原始的な文化であり、人類は、共同体=国家の上に君臨する「神」という概念を見出す前に、まず「処女の超越性」に気づいていったのです。
原始信仰とは、「処女の超越性」を祀り上げてゆくことにあった。まだ「神」などという概念を持つ前の段階です。処女とは「もう死んでもいい」という勢いの覚悟で男にセックスを「やらせてあげる」存在であり、その「超越性」を祀り上げてゆくことによって集団の連携が活性化し、やがては共同体=国家というレベルの規模にまで膨らんでゆき、そこでようやく「神」という概念が生まれてきた。人類の集団がそういう規模にまで膨らんでいったのは氷河期明けのつい最近のことだが、そうなるためにはまず見知らぬ者たちがたくさん一か所に集まってきてときめき合い連携してゆくという集団性が生まれてこなければならないわけで、そうやって盛り上がってゆく原動力は「もう死んでもいい」という勢いですべてを許す「処女の超越性」にあった。「やらせてあげてもいい」ということは「許す」ということです。
慣れ親しんだ者どうしだけでセックスをしているかぎり、集団は大きくなってゆかない。そして処女とははじめてセックスをする存在であるがゆえに、どんな見知らぬ男とでもセックスをすることができる。それは、「もう死んでもいい」という勢いの覚悟でこの世のすべてを許してゆく態度です。その「超越性」を祀り上げながら人類の集団は無際限に大きくなっていった。そうして共同体=国家の上に君臨する創造主としての「神」が祀り上げられていったわけだが、その「神」という概念が未開の原始的な集団に伝播されてゆくことによって、処女が「女神」として格上げされていった。
国家共同体は戦争と政治支配が中心の男社会だから、「女神」を祀り上げることは許せないことです。そうやってキリスト教の社会では、そこから派生してきた「マリア信仰」を否定し、処女を「魔女」として断罪していった。
僕は今、このことを考えています。この国の右翼が慰安婦問題などなかったと主張することは、心理的思想的には魔女裁判と同じです。そういうゲスで下品な思考の上に立って彼らはそう合唱している。
終戦直後は、明治以降の帝国主義思想を清算し、人類史の伝統であると同時にこの国の伝統でもある「処女の超越性」がよみがえった時代であったはずです。そしてバブル経済の崩壊や相次ぐ大震災や原発事故を経験した今、もう一度人類史普遍の無意識としての「処女の超越性」を祀り上げる気運がひそかに起きてきているのだろうし、それをつぶそうとするヒステリックな主張もいっそう声高になってきているらしい。
さてわれわれ民衆は、いったいどちらの声に流されてゆくのでしょうか・

蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』
初音ミクの日本文化論』
それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。
このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。
初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。
値段は、
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円
初音ミクの日本文化論』前編……250円
初音ミクの日本文化論』後編……250円
です。