感想・2018年11月1日

<戦後の女神たち・敗者の場所>
女は損だ、と女は言う。その社会的地位が満たされていないということ以前に、たとえば思春期以降はずっと毎月のさわりと付き合っていかねばならないわけで、その鬱陶しさだけでもう存在そのものの敗北感を味わわされている。
生きものは、本質的に「敗者」として存在している。敗者が種の中心であることによって進化してゆく。キリンの首は、首が長くないことの「嘆き」を抱えた者たちがもっとも豊かに繁殖しながらみんなで長くなっていったのであって、長いものが勝者としてたくさん子孫を残しながら短いものを淘汰してきたのではない。これはもう、最新の生物進化論で言われていることなのだ。
どんな生きものの世界であれ、勝者が多数派である集団など存在するはずがないし、敗者が多ければ多いほど平和で活性化するのだ。


命のはたらきとは命のエネルギーを消費してゆくことだから、それはつまり「敗者になってゆく」ということだ。息苦しいとか空腹ということは、「敗者」になっている状態にほかならない。それはひとつの敗北感であり、そうなってはじめて息をするとか物を食うということが起きる。
この世界に勝者などひとりもいない。生老病死……生まれてくること自体がひとつの敗北であり、赤ん坊は体内の完結充足した世界から追い出され、母親にとっての出産も死の淵に立たされてもがき苦しむ敗北体験に違いない。
われわれはエデンの園から追い出されてきた存在であるわけだし、生きものの生きるいとなみは、敗北し続ける体験以外の何ものでもない。
生きものは、敗北を受け入れ抱きすくめながら生きてゆく。
憲法第九条は、日本人があのひどい敗戦を受け入れ抱きすくめてゆくことによって生まれてきた。アメリカから押し付けられたとかなんとかといっても、そのとき日本人はその精神を受け入れ抱きすくめていったのであり、なんのかのといっても70年間それを守ってきたのだ。日本人のメンタリティにそぐわなければ、とっくに改憲されているだろう。戦後数年でアメリカの占領から解放され、いつでもすることができたのだもの。
日本人は、このきわめてナイーブで危うい憲法の精神を、とにもかくにも70年間守り育ててきた。それはもう、動かしがたい歴史の事実であり、守らずにいられなかった日本人の心のかたちとは何だろう、と問われなければならない。
それが正義か否か、合理的か不合理か、現実的か空想的かということなど、さしあたってどうでもよい。国なんか滅びてしまってもかまわない、という覚悟で守ってきたのであり、もともと日本人は、それほどにナショナリズムなど希薄な民族なのだ。
もし戦争になったら……もし侵略されたら……憲法第九条は、そういうことに無力だともいえる。これは敗者の論理である。もしそうなったら国が滅びることを覚悟して平和的な活動に専念する、という憲法なのだ。ひとまず専守防衛はするという合意になってきているが、いまのところそれは憲法に書き込むべきことではなく、法律の範疇で保証しておけばよい、ということになっている。
国が滅びることを覚悟できなくて何が日本人か、ということ。それが、この国の文化の伝統なのだ。すなわち「無常」ということ、けっして明治維新から敗戦までの付け焼刃の安普請の国家神道など日本列島1万年の伝統ではないし、われわれは憲法第九条によってその伝統を取り戻したのだ。
それは、敗者の論理である。女神の論理である。
すべての存在する生きものが「敗者」なのだ。


この社会が勝者ばかりになることなどありない、ということをアメリカが証明している。敗者がいなければ勝者であることができないのだもの、とうぜんのことだ。敗者を作り出そうとするのは、勝者の本能である。そうやって人は、人を裁いたり、第三者を敵として排除しようとしたりする。アメリカンドリームは、アメリカが戦争をしたがること同義であり、アメリカそのものが戦場なのだ。そして、この国の右翼の多くはそんなアメリカにすっかり洗脳されてしまっていて、ネトウヨたちは排除するべき敵を探すことに躍起になっている。
勝者の数が一定数を超えれば、必ずそれに抵抗する敗者たちの群れが生まれてくる。これはもう生物進化論の基礎的な数学で、ライオンの数がシマウマの数以上に増えることはけっしてないし、ミツバチの集団は勝者がぜんぶ淘汰されてあのような生態になっている。そしてこのことは、人間も含めた生きものの集団の「王=ボス」のような存在は勝者を淘汰してゆく機能をはたしている、ということを物語っている。
人間の世界では「神の前の平等」などといわれたりするが、アメリカの勝者たちは自分たちが神に選ばれた者のつもりでいるらしいが、神は勝者など選ばない。神=自然は、生き物を「敗者」としてつくったのだ。
神=自然が選ぶのは敗者であり、それがミツバチの生態であるし、この国で親鸞の「悪人正機説」が生まれてきたのもそういうことだ。まあ天皇制はほんらい、勝者を淘汰し敗者が「人間らしく」生きるためのものでもある。とにかくこの国には、滅びゆくものとしての敗者を肯定する「無常」という世界観や生命観の伝統がある。そしてそれは、敗者が「人間らしく」生きるための文化や集団性にほかならない。
科学の問題として、すべての生き物は存在そのものにおいて「敗者」なのだ。
この国の歴史は、敗者によってつくられてきた。少なくとも民衆は、敗者としてのヤマトタケル平将門菅原道真平家物語源義経天草四郎などに、かなしいほどの親密さを寄せて語り伝えてきた。
良くも悪くもこの国の生命観や世界観の伝統は「敗者」によってリードされてきたのであり、それはすなわち、女の生来的なメンタリティにリードされてきたということであり、じつはそれこそが生きものとしての普遍的なメンタリティでもあるのだ。
『大阪の宿』の主人公は、大阪に来て底辺で働く「敗者」の女たちと出会い、「僕はここに来てはじめて人間というものを知った」といった。これはまさしく日本人の伝統的な感性であり、すなわち普遍的な人間性は生きものとしての本能・自然と通底しているということだ。であれば、この国の伝統は世界に向けて発信し世界の人々という共有してゆくことができるにちがいない。
世界共通の普遍的な人間性とは、生きものとしての本能・自然に遡行してゆくことにある。世界は今、そういう「敗者の論理」を共有してゆくことができるかと問われているのであり、人を裁く「正義・正論」が共有できるのではない。言い換えれば近代社会は、「正義・正論」という「勝者の論理」で人を裁いたり縛ったりしながら歪んでいった、ともいえる。
現在のこの国の右翼たちは、「勝者の論理」にしがみつこうとしている。勝てば官軍、勝者になれば何をしてもいい何を言ってもいいという論理。彼らはもう、病的に敗北を受け入れ抱きすくめてゆくということができない。そうやって歴史修正主義に走るわけだが、それはただの近代かぶれであり、日本列島の伝統を身体化していない、ということだ。それに比べて『大阪の宿』という映画の女たちは、女中も芸者も、そのしぐさや表情や着こなしに、日本列島の伝統を身体化していることがよくあらわれていた。つまりこの映画の監督は、彼女らを新しい時代の「女神」として描いていたのだ。
女は存在そのものにおいて敗者であり、だからこそもっとも人間的であると同時に、もっとも生きものとしての自然を宿している。
女の中に「人間」を発見するということは、「女神」と遭遇する、ということでもある。
日本列島の伝統はアマテラス・卑弥呼以来の「女神の文化」であり、その伝統が大平洋戦争の敗戦によって明治維新以来の男権主義の家父長制を屠り去り、「女神」の文化をよみがえらせた。
そうやって廃墟の都市に、「パンパン」と呼ばれる街娼が、男たちの心の荒廃を癒す「女神」として現れてきた。つまり、そのとき困窮を極める無政府状態にあったにもかかわらず、それがそれなりに安全に金を稼ぐ仕事として成り立っていたということはほとんど奇跡的なことで、それもこれも日本列島には敗北の喪失感=かなしみを受け入れ抱きすくめてゆく文化の伝統があったからではないだろうか。
それは、普通の女が娼婦になることができる潔さと、たとえ娼婦であっても女を「女神」として祀り上げようとするメンタリティの上に成り立っている。いや、底辺の娼婦だからこそ高貴なのだ。なぜなら彼女らこそもっとも深く敗者としての「喪失感=かなしみ」を受け入れ抱きすくめている存在であり、中世の世阿弥が「萎れたるこそ花なり」といったように、日本列島ではそこに「あはれ・はかなし」や「わび・さび」の美を見出してゆく文化の歴史を歩んできたのだ。
まあ『大阪の宿』においても、川崎弘子や水戸光子という戦前には一世を風靡したスター女優を底辺で働く「萎れたる花」として演技させていたわけで、そこにも監督のそういう美意識があったのかもしれない。
とにかく戦後の闇市にしろ、日本列島ではそのときからすでに活発な経済活動がはじまっていたわけで、闇市は「混乱」だったのではない、「世界の終わり」の「喪失感=かなしみ」を受け入れ抱きすくめている敗者たちがそこから生きはじめようとする「祭りの賑わい」だったのだ。
女は、生まれながらにして絶望やかなしみを深く知っている。そこから女の「輝き=花」が生まれてくる。まあ日本列島は、それを祀り上げてゆく文化なのだ。

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初音ミクの日本文化論』
それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。
このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。
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