感想2018年10月29日

<戦後の女神たち・大阪の宿>
近ごろはYouTubeというインターネットの便利なサイトがあって、昔の映画がいくらでも見ることができ、それによって戦後の世相の移り変わりを再検証することができる。個人的には、自分の若かりし頃の60年代から70年代頃の映画は、鬱陶しい記憶がよみがえってあまり懐かしくもない。懐かしいのはむしろ、何も知らなかった子供時代のことで、「ああそうだったのか」とあらためて気づかされることにある。
1954年といえば、戦後復興がようやく軌道に乗りはじめた時代で、そのころの『大阪の宿(監督・五所平之助)』という映画を見ると、現在の経済優先の風潮がすでにこのころからはじまっていることに気づかされ、ちょっと複雑な思いにさせられる。平和な世の中になればけっきょくいつの時代もそのように動いてゆく、ということだろうか。
この映画の舞台は大阪だから、いっそう経済優先の世相が浮かび上がるということで、そこにこの監督の狙いがあったらしい。
五所平之助といえば、新藤兼人と並んで左翼的な思想の監督だということになっているが、主人公の30代半ばくらいの独身のエリートサラリーマンが重役を殴ってしまったために東京から大阪に左遷されてきて、経済社会に翻弄されている底辺の働く女たちと出会って交流しながら左翼思想に目覚めてゆくというのがテーマで、ストーリーは夏目漱石の『坊っちゃん』をそのまま踏襲した流れになっている。
主人公は、佐野周二。死んだ祖父が会社の創立メンバーの一人だから首になる心配はないが、正義感が強すぎるために大阪の支社に来ても上役から煙たがられ、ねちねちといびられている。
マドンナは、音羽信子。売れっ子の芸者で、気風(きっぷ)がよく大酒のみという役どころ。唄も三味線もしぐさも、華やかで歯切れのよい演技を見せている。
主人公が下宿する旅館に住み込みで働いている三人の女中は、戦争未亡人で実家に預けた子供に仕送りしている川崎弘子、別居している失業中のコックの亭主に金をせびられている水戸光子、金目当てですぐ客と寝る左幸子。彼女らは、強欲な女将に安い給料でこき使われている。
まあ、今でいえばブラック企業ということになるのだろうか。経済優先の社会なら、どうしてもそういう立場の労働者を生み出してしまう。そして、川崎弘子と水戸光子はやがて主人公と親しくなってゆくが、経済優先の論理で生きている左幸子は離れてゆく。
そうして、赤シャツ、野太鼓、うらなり、狸等々に相当する人物も芸達者な俳優をそろえて登場してくる。
まあこのころは、『青い山脈』をはじめとして『坊っちゃん』の物語を下敷きにした映画がたくさんつくられている。それらはまあ、どれも保守的な地域の権力者たちと戦って新しい時代を獲得してゆくという設定だが、この映画だけは、逆に経済中心でモラルが崩壊してゆく新しい時代をうまく泳いで出世している者たちが敵役になっている。
しかしもともとの『坊っちゃん』そのものが、薄っぺらな文明開化の風潮に染まりながらのさばっている者たちと戦う物語で、最後は主人公の側が全員敗者になるという設定になっているわけで、であればこの『大阪の宿』こそがもっとも原作のテーマに忠実な筋立てであるといえる。
この映画でも、最後に主人公の仲間たちがすき焼き屋の二階に集まってお別れ会をするのだが、このとき主人公がこう語っている。
「僕たちはみんな敗者だ。でも今は自分たちの不幸を笑うことができる」と。
このセリフは、泣かせる。そしてじっさいに、誰もが泣きながら炭坑節をやけくそのように合唱するというシーンになってゆく。
けっきょく明治の文明開化も戦後の高度経済長も同じようなもので、人間を社会制度の家畜にしてしまうムーブメントだったのだ。
五所平之助の左翼思想がどんなものか僕にはわからないが、映画の端々で語られる「人間を取り戻す」とか「人間として生きる」というようなニュアンスのセリフは、そのまま現在の社会システムの家畜にされてしまっているわれわれが抱えている喫緊の課題と通底しているように思われる。
正義・正論などというものは百人百様で、どんな悪人だって持っているのであり、そんなものを振りかざすのではなく、ときめき合うことこそ「人間らしく生きる」ことなのだ。
人類が共有できるのは「正義」ではなく「ときめき」なのだ、と『大阪の宿』は語っている。
坊っちゃん』が抵抗したのは「新しい社会」であり、『大阪の宿』の主人公が目指したのは「新しい社会よりももっと新しい社会」であり、それが「ときめき合う社会」だった。
人間は本質的に「敗者」であるほかない存在であり、「敗者」こそが「より新しい社会」を切りひらくことができる。そうやって進化発展してきた。
勝者は「より新しい社会」など目指さない。つまり、「より新しい社会」はだれもが「敗者」である社会であり、そこにおいて社会はもっとも活性化する。
誰もが幸せな社会が活性化しているのではない。幸せだと思った瞬間から、人の心は停滞してゆく。
ひとまず経済のことをわきに置いて考えるなら、だれもが不幸だと思っている社会のほうが、より豊かにときめき合い活性化してゆく。『大阪の宿』における主人公のまわりには、主人公も含めて経済的には困っていないものも加わっていたのだが、それでもだれもが「敗者=不幸」だと思っていたし、既存の勝者の勢力に抵抗していた。
敗者が勝者に代わるのではなく、敗者が抵抗するというそのことが社会を活性化させる。
だれもが勝者になびいてゆくことによって、社会は停滞し澱んでゆく。
アメリカであれヨーロッパであれこの国であれ、近代の競争社会においては、だれもが勝者になることを目指して競争しながら繁栄し、やがて停滞し病んできている。繁栄した瞬間から、病みはじめていった。
敗者が勝者になることを目指すのではなく、敗者どうしが敗者としての「嘆き」を共有しながらときめき合う関係を組織してゆくことによって「より新しい社会」が切りひらかれてゆく。
日本列島は国民の幸福度が低いといわれている。それは経済の問題だけでは説明がつかない。生きてあることの「嘆き」を共有してゆく文化の伝統の問題でもあり、幸福度が低いということこそ希望なのだ。
人間らしく生きようとするなら、勝者になろうとしてはならない。勝者に抵抗しなければならない。たとえ勝者であっても、勝者に抵抗しなければならない。人間は、その存在の本質において敗者なのだ。そういうことを『大阪の宿』が教えてくれた。

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