内田樹という迷惑・遊び人と遊び心

「遊び人」というと、われわれ古い人間は、金持ちの若旦那の芸者遊びなんかをイメージしてしまう。
もちろん僕は、そんな遊びなどしたことがない。
芸者遊びは、金を捨てに行くことだ。捨ててしまう気持ちがなければ、あんな贅沢な遊びはできない。車や家を買うこととは違う。遊んだことの疲れが残るだけで、「所有」するべき何ものも受け取ることはできない。
所有欲の強い人間は、色街遊びなんかできない。家で女房を相手に晩酌をしていればいい。
会社や国の金でそんなことをしている人たちのことも、このさい除外する。それは、遊びではなく、まぎれもない労働なのだから。
ひとまず、身銭を切って遊んでいる若旦那のことだけを考えたい。
若旦那は金を捨てにゆき、芸者は芸を売ってその何分の一かの金を拾う。
若旦那と芸者は、異人種である。
哲学ではよく「異質な他者性」などというが、まさにそうした関係である。
遊ぶ人と、働く人。
では、芸者が働く人に撤すれば若旦那は満足かといえば、そうではない。働くことから逸脱させて、はじめて遊びの醍醐味を得る。芸者だって、本気で楽しんで歌い踊ってくれなくては困る。
だから若旦那だって、懸命に芸者を楽しませようとしている。けっきょくたがいに相手を楽しませようとしているのだが、それによって芸者はいくばくかの金を得るが、若旦那は失うだけである。金を払って芸者を楽しませようとするのが、芸者遊びなのだ。
だから、こちらだって、そこそこの歌や踊りは身につけていなければならない。
歌や踊りの素養をいくらか持っているから、芸者の芸のレベルもちゃんと品評できる。
しかし、それに感心してしまっておとなしくしていたら、相手は労働することから逸脱してこない。相手をただの労働者にしてしまったら、若旦那の負けだし、若旦那だって楽しくない。だから、こちらも歌い踊ってサービスする。
芸者の歌や踊りや三味線に感心しつつ、ただの座興ととして扱い、芸者の心を解放して見せなければならない。それではじめて、座が盛り上がり楽しくなる。
芸者遊びは、芸者を楽しませる遊びなのだ。そのために、「幇間(たいこもち)」というアシスタントがつく。幇間の仕事は、若旦那を楽しませることじゃない。芸者を楽しませるために呼ばれるのだ。
たがいに相手を楽しませようとしつつ、たがいに楽しませられてしまう。芸者は、自分の磨きぬいた芸をその場の座興として提供する。芸者の芸の挫折、若旦那の蕩尽。若旦那はその夜、無一文になる。夜毎、そのつど無一文になる。そうやって、たがいに挫折して敗者になることによって、座はいっそう盛り上がる。
芸者遊びは、しんどい遊びである。たがいに自分を捨てて相手と向き合う。
遊びとは、自分捨てる行為だ。
自分を捨てられるような「なげき」を抱えていなければ遊び人になれないし、遊ぶことによって「なげき」をいっそう深く知ってゆく。
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そろそろ遊びの金が尽きかけてきたあるとき、若旦那は、前々から気になっていた美人で芸達者なひとりの芸者だけを呼んで、女の得意な端唄を唄わせた。
女のほうも、若旦那のことを憎からず想っていた。
こうなったらもう、いつものお座敷騒ぎなどどうでもいい、1対1の真剣勝負である。
芸者も、本気で修行の成果を差し出してくる。
そこは、劇場の舞台と客席というようなあいまいな空間ではない。女の息づかいも体のほてりも、間近に感じられる。
その歌声や姿からは、女のつらい修行の蓄積も人生も、そして女としてのやるせなさやなげきも、生々しく伝わってくる。若旦那は、そういうことに気づくだけの経験と素養をすでに持っている。
遊びの空間では、仕事の関係と違って、生の人間性がむきだしになる。そうして、人間存在が「なげき」の上に成り立っていることを、いやでも知らされる。遊べば遊ぶほど、それを深く知らされる。
若旦那は、目を細めてぼんやり聞いているような風情をつくっているが、胸の奥では、女の熱っぽさにじりじり追いつめられている。
遊ぶことはしんどいことだと、つくづく思い知らされる。
若旦那は、自分を捨てて芸者に勝負を挑んでゆく毎日を送ってきた。だから芸者のほうも、自分を捨てて若旦那に尽くすことを厭わない。たとえ若旦那が零落しても、見捨てるようなことはしない。むしろ尽くしがいのある人になったと、いそいそと追いかけてゆく。そばにいて一緒になげいて上げたい、と思う。
西鶴晩年の名作「置土産」には、「遊び」を味わい尽くした男と女の、そういう最終局面の生きざまが描かれている。
つまり、「なげき」を知っている人間とはこういう人間のことを言うのだよ、ということがしみじみと描かれている。