真夜中の道端でやんきいの若者の男女が座り込み、しんみりと語り合っていた。
二人は、まるでこの世で最も不幸なものどうしのようにして何ごとかをなげきあっていた。
男は顔を伏せて泣いていた。
その向かいがわの女は、男の肩に手を置いたり頭を撫でたりしていた。
何について語り合っているのかは、聞いてはいけないような気がして僕はそのままゆっくり通り過ぎた。
話の内容はわからなかったけれど、なにか人生のことについてなげきあっているような気配だった。
聞かなくてよかった、と思う。聞かなかったから、その光景がより美しいものとして僕の胸に残った。
若者がふざけてはしゃぎあっている景色なんか、うるさいだけだ。
そういうことばかりやっていて、いざ友人が窮地に陥ったときになると、とたんに逃げ腰になる人間もいる。
一緒になげいてやる・・・・・・彼女のその心意気と態度は、立派だ。
たぶん、それだけがそばにいるものがしてやれることのすべてだ・・・・・・といえるようなときが、生きていればたしかにある。
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ただふざけてはしゃぎあうだけが「遊び心」でもなかろう。
がんばってはしゃぎあうなんて、ただの「労働」じゃないか、ともいえる。
本格的な「遊び心」は、たぶんもっとべつのところにある。
遊び心を持っている上司は部下に慕われる、という。
部下がミスをしたときに怒鳴りまくって叱るのは論外だ。
では、この次はミスをしないように励ましみちびいてやるのが遊び心かというと、それもちょっと違う。
「たいしたことないさ、仕事はみんなで助け合ってするものだ。この次は君が誰かを助けてあげればいい」といえるなら、たいしたものだ。
しかしそれが取り返しのつかないミスで、本人が辞職しなければならないとき、どういう態度が取れるか。
酒場にでも連れて行ってひたすら一緒になってなげいてやることができるか、本心から別れを惜しむ気持になれるかどうか、たぶんそこにおいて「遊び心」が試される。
そんなときに、かっこつけて人生論なんかたれてもしょうがない。聞かされるほうは、なおみじめになるばかりだ。
上司としてではなく、同じ人間として友人として別れを惜しむことができるか、それが「遊び心」なのではないだろうか。
彼のなげきを自分のなげきとすることができるか。ほんとの「遊び人」は、「なげき」を知っている。そういう人は、めったにいない。
もちろん僕とは何の関係もない話だけれど、そういう人の何人かを知らないわけではない。
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