内田樹という迷惑・パズルゲームの制度性

「近傍と確からしさ」さんは、「フレーム」といった。
思考の「フレーム(枠組み)」という意味です。
自分なりのそういう「フレーム」を大切にするか、それともそんなものを持たない自由で無原則的な思考を発揮してつぎつぎにパズルを解いてゆくか。
思い出すのは、「イカフライ」氏と内田氏の対比です。「フレーム」を大切にしているのが「イカフライ」氏で、内田氏はパズルを解く能力を自慢して生きている。
たとえば「頭の体操」的な数学パズルのことを持ち出して、発想の転換がどうとかこうとかと語り出す知識人がよくいる。もちろん、内田氏もそのひとりです。
自分を知的な人間だと思っている人たちは、こういうパズルが大好きですよね。それが解けたとき、自分は普通の人間とはちょいと頭の出来が違うのだ、とうぬぼれることができる。高校生だろうと大学生だろうと社会人だろうと、世の中には、こういう俗物がうんざりするくらいたくさんいる。
内田さん、あなたなんか、その最たる存在だ。
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たとえば内田氏は、「テクストを読む」醍醐味(=本質)は、「誰とも違うオリジナルな解釈をすることができた、という達成感にある」という。そうやって「読みつつ自己のアイデンティティが形成されてゆく」のだそうです。
まったく、頭の軽い俗物が、何を気取っていやがる。
それが「オリジナル」であると、どうやって確認するのですか。そのテクストを読んだ世界中の人々に残らず聞いてまわって、はじめて確認できることです。読んだ直後にそんなことをすることは不可能に決まっているし、それをしないでそんな達成感が得られるとしたら、そういう勝手な思い込みができる軽薄さと薄汚い自己撞着のたまものでしょう。
そういう「達成感」のことを、「感動」というのだそうです。
「感動」とは、そうやって自分をまさぐることなんだってさ。
内田さん、あなたにとっての「他者」は、どこにいるのか。
ようするに「パズルを解いた」という快楽です。
インポ野郎の、いじましくもちんけな快楽です。
自分の解釈がオリジナルだと思い込むなんて、きちがい沙汰だよ。
テクストを読むことの快楽は、おそらく、自分を捨ててテクストに憑依してゆくことにある。そうやってそのテクストがこの世に存在していることのめでたさを深く思い知ることにある。そこで確認されているのは、あくまで「テクスト」の存在であって、「自分」ではないのですよ、内田さん。
何を気味悪いことをいってやがる。
パズルを解くことにうつつをぬかしているやつなんか、そのていどの読みしかできないのだ。
こんなゲス野郎を「批評家」だなんて、われわれはぜったい認めない。
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すくなくとも小林秀雄は、そんな謎解きパズルの「発想の転換」がどうとかこうとかというような軽薄で俗っぽい話題は、ぜったいに持ち出さなかった。彼は、軽々しく「発想の転換」などしていられるような薄っぺらな思考回路は持ち合わさなかった。つねに「こうしか思いようがないではないか」というところを書いていた。そういうみずからの思考の「フレーム(枠組み)」における業の深さを憂いつつ、それを手離さなかった。
しょせん、内田氏とは人種が違うのだ。
「こうしか思いようがない」というものを持たない薄っぺらなやつらが、そういうパズルゲームに打ち興じ、自分のことを知的な人間だとうぬぼれていやがる。
そんな内田氏の思考回路と、「こうしか思いようがない」という小林秀雄のそれと、どちらが知的でオリジナルだろうか。
小林秀雄は、「オリジナル」な解釈をしたのではない。「こうしか思いようがない」というところを表現しただけだ。
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カメラマンの才能とは、どのように写すかという技術にあるのではなく、どのようなモチーフをどのような「フレーム」におさめて表現できるかにある。技術なんか、誰でも身につけることができる。
たとえば、田んぼの真ん中に食事のテーブルをしつらえ、テーブルだけを「フレーム」におさめて写したら、誰だってそれはダイニングルームの光景だと思ってしまうでしょう。
絵でも写真でも、その「フレーム」ワークに沿って、「これが世界のすべてだ」と思わせる力を持っている。
そして、その作品を眺めながら「ここに世界のすべてがある」と信じてしまう愚かさによって、「感動」という体験が生まれる。
われわれは、人間の本性として、意識の本質として、そういう「愚かさ」を共有している。
しかし近代合理主義は、そういう「愚かさ」を軽んじている。人びとは、パズルゲームの好きな内田氏の薄っぺらな脳みそを「知的」であると持ち上げる。
小林秀雄は、そのような近代合理主義を侮蔑した。彼は、人間の本性としての、意識の本質としての、そういう「愚かさ」を手離さなかった。その「愚かさ」によって、「現代最高の知性」と評されるところに立ってみせた。
思考の「フレーム(枠組み)」とは、「センス」のことです。
「センス」の基礎は、よいものを見つける嗅覚にあるのではなく、つまりパズルゲームを解く能力にあるのではなく、こんな醜悪なかたちは我慢がならない、という「幻滅」の体験にある。
絵描きが、彼独自の「色」を持つ、小説家や詩人が、彼独自の「言葉」を持つ。そういう「センス」は、この「色=言葉」は違う、こんな「色=言葉」では我慢がならない、という体験を何度も繰り返してきた結果として得られる。
才能がない者は、適当な表現ですぐいい気になることができる。しかし才能豊かな者は、その程度の表現ではどうしても我慢がならない。そういう「こんなもの、私の色=言葉ではない」という幻滅の体験を重ねてゆくことによって、彼独自の「センス」にたどり着く。
こんなんじゃだめだ、と思うことができる感性のことを、「センス」という。
昨日の続きで言えば、「けなす」能力がないところで「センス」は育たないですよ。
美食家は「こんなもの食いたくない」というセンスを持っているし、おしゃれな人は、こんなもの着たくないというセンスを持っている。
ブティックに並んだ商品の中から自分にあった一着を選ぶためには、「これじゃない」「あれでもない」と判断できるセンスがなければならない。でないと、何も買えないか、あれもこれも買う羽目になってしまう。
彼らは、「発想の転換」によって「センス」を身につけるのではなく、まるでカメラマンが被写体にピントを合わせるように、より狭く明確なかたちで「フレーム」をつくってゆくのだ。
これがオリジナルだ、と思うのではない、これしか選びようがない、という場所に立たされるのだ。
パズルゲームを解くような「発想の転換」でより高度な「知性」や「センス」が得られると思っているのだとしたら、内田さん、草葉の影の小林秀雄は鼻で笑っていますよ。
それとも、苦虫を噛み潰しているのだろうか。
われわれは、内田氏の言説を、こんなもの「知性」ではない、と言い切ってしまわねばならない。言い切ることのできる地平に立たねばならない。
それは、ただたんに内田氏を批判するということ以上に、近代合理主義の誤謬を告発することなのだ、と僕は思っている。
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近代合理主義の「オリジナル」という幻想。われわれは、それを否定する。
いい女かどうかと吟味してもしょうがない、女であることそれじたいにときめくことだ、と僕が言うのも、つまりはそういうことです。
他人と見比べて「オリジナル」かどうかとまさぐってばかりいる内田氏のスケベ根性を、われわれはしんそこ軽蔑する。
「女」であるということの自然性。
「自然(しぜん・じねん)」という「フレーム」を信じるなら、「オリジナル」なんかもうどうでもいい。
僕だって、「こうしか考えようがないじゃないか」というところに立って発言したい。
解答探しのパズルゲームなんかどうでもいい。そんなものはくだらない。
自然に「解答」なんか何もない。ひたすら不思議で不可解あるだけだ。
女であることの不思議と不可解、他者であることの不思議と不可解、世界が存在することの不思議と不可解、自分が生きてあることの不思議と不可解、そんな不思議と不可解を味わい尽くすことが、「自然(しぜん・じねん)」という「フレーム」を信じるということだと思えます。
僕としては、エコロジストが叫ぶ「自然=しぜん」というよりも、道元親鸞のいう「自然=じねん」という概念の方が、どうしても気になってしまう。直立二足歩行にこだわるのも、つまりはそういうことです。あるがままの「自然=じねん」であること、それはもっともも簡単なことであると同時に、もっとも困難なことでもある。抗しがたい人間性の必然であると同時に、時代によって忘れ去られようとしている歴史のかなたでもある。
まずは、あの俗物の大学教授を侮蔑しきらねばならない。
とりあえず今、パズルゲームの解答なんかいらない。