内田樹という迷惑・足利義満の美意識

足利幕府の義政と義満。かたや高度な美意識をそなえた教養人として銀閣寺をつくって「わび」「さび」の極致を表現し、一方は、無教養丸出しにただ俗悪なだけの金閣を建てて喜んでいた・・・・・・一般的な歴史認識においては、ひとまずそういう図式で語られている。
しかし「近傍と確からしさ」さんは、高校生のときに、じつは義満こそ天才ではないのかという気がした、という。
義満は、南北朝時代の内乱を終息させた将軍です。つまり、そういう「二項対立」を超えてゆくヴィジョン(思想)を持っていた人物なのではないか、だから終息させることができたのではないか、と、ある若者が直感した。
南北朝のそれぞれのリーダーたちが、彼のそういうビジョン(思想)に、何か抗しがたいものを感じてしまった。そういう情況が歴史の流れになっていったのではないのか。
これはもう、人間としての「格」の問題です。天皇だろうと公家だろうと、彼の人間としての「格」に抵抗できなくなってしまった。だから若者は、彼のことを「天才ではないのか」と思った。
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内田氏は「文明(=知)とは、デジタルな二項対立の擬制である」と言っています。それが、自信満々の彼の持論です。しかしこんな認識など、二項対立の枠の中でしかものを考えられない自分を正当化するために捏造された、たんなる居直りに過ぎない。そういうふてぶてしさ丸出しの理論です。
あたりまえに考えて、「文明(=知)」は、アナログな連続性を見つけ出してゆくことにある。原初の人類は、ただの石ころを、動物の骨や硬い木の実を砕く道具として連想していった。これが、文明の起源です。「いけるかも・・・・・・」と発想すること、そうやってアナログな連続性を見つけ出してゆくことこそ、現代にも通じている「文明(=知)」の本質でしょう。ただの草やただの食い物でしかなかったはずの果実を、染料になるかもしれないと発想することが文明でしょう。そしてアインシュタインは、相対性理論を「いけるかも・・・・・・」と発想したのです。医療とは、病人と健康人とのあいだにアナログな連続性を見つけ出してゆく行為にほかならない。そんな例は、数え上げたらきりがない。だって実際問題として、すべての本格的な「文明(=知)」が「アナログな連続性を見つけ出してゆくこと」の上に成り立っているのだもの。
「デジタルな二項対立の擬制」など、スケベったらしいだけの知とはいえない知の上にのみ成り立っているのだ。
「知」は、品性を欠いてくると、「デジタルな二項対立の擬制」にすべりこんでゆく。南北朝の内乱も、内田氏のふてぶてしい自慢たらしさも、まあ同じことです。それは、「文明(=知)」というはたらきの退廃であり、残りかすのようなものだ。
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そのとき義満は、南朝より北朝のほうが正統である、と断を下したのではない。弱り果てている南朝を叩き潰すくらいわけない情況だったのに、全部OKだ、と言ったのです。どちらも正統だ、と言ったのです。それで、南朝側の抵抗の意思も、北朝側の優越感も、すべて霧散してしまった。つまり義満は、その「二項対立の擬制」から「アナログな連続性を見つけ出していった」のであり、そういう根源的なかたちを持った思想の「格」に、どちらの公家たちもねじ伏せられてしまったのです。
「近傍と確からしさ」さん流に言えば、今ここに「世界」を下ろしてみせたのです。
「今ここ」が世界のすべてだ、と誰よりも率直に確かに信じる態度を示してみせたのです。
これこそ、武家文化の極致です。むやみに京都の公家文化をうらやましがっていたら、東国の武士の暮らしなどやってられるものじゃない。東国の武士は、東国の武士としての武家文化を追求していった。そのひとつの達成が、義満の、「今ここ」が世界のすべてだ、という認識だったのでしょう。その認識は、中世になってから起きてきた禅の世界観や、さらには一遍や親鸞日蓮などの民間信仰とともに育ってきた思想の上に成り立っている。教養のひとつもなきゃ示せる態度ではない。
なんと言っても義満は、三代目です。建武の中興の祖である尊氏は、この孫に、教養(=思想)で公家を凌駕してみせることを託したはずです。京都育ちの義満が無教養であるはずがないし、苦労を知らない三代目のお坊ちゃんだから、政治的な駆け引きも、二代目ほど持っているはずがない。彼は、南朝側を力でねじ伏せたのでもなければ、自尊心を残しておいてやる、という駆け引きをしたのでもない。南朝北朝のどちらに対しても、新しくより高度な「知=思想」のかたちを示してみせたのだ。
初代の尊氏が武力で京都の公家たちを凌駕していったとしたら、二代目の義詮は政治力で、そして三代将軍の義満は、「思想の格」で君臨してみせた。
「思想の格」を示されることによって、はじめて南朝の公家も北朝の公家たちもおとなしくなった。それが、義満によって果たされた南北朝時代の終息であろうと思えます。
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義満は、中国文化の教養をひけらかす公家たちの世界観を侮蔑していた。われわれは、唐天竺や理想郷などというものを信じない。今ここが世界のすべてだ・・・・・だから、いつでも死んでみせる・・・・・・・時代とともに色濃くなってきたいわばそういう「無常観」を包み込んだ思想で、東国の武士たちは京都の公家社会を凌駕していったのです。
あのけばけばしい「金閣」こそ、時代の「無常観」をもっとも鮮明に表現している。
光り輝く理想郷が唐天竺にある、という公家たちの知識教養など何ほどのものか。今ここの目の前に見える世界だけが世界のすべてだ・・・・・・あの金閣によって義満は、公家たちの、唐天竺コンプレックスに浸された、そうしたいじましい「二項対立」的な「日本辺境論」を侮蔑してみせたのだ。
彼は、唐天竺を否定したのではない。武家らしい圧倒的な率直さの無常観で、「今ここ」をどこまでも肯定して見せたのだ。
それに比べれば義政の銀閣など、公家と唐天竺文化と二重にコンプレックスを負ったいじましいだけの作品だとも言える。まあ、公家よりも金があったから、そのぶんいろいろと凝ることはできた、というだけの話かもしれない。
銀閣寺の庭の、砂を盛ったあの「銀沙灘(ぎんさだん)」は、「大海」を象徴しているという。しかし、京都の盆地にいて、どうして「大海」なんぞに憧れねばならないのか。
義満は、水面に金閣の姿を浮かべる「池」しかつくらなかった。あの池にはそれだけの機能しかないし、それが池を池として充実させることでもあった。
彼の美意識は、今ここが世界のすべてだと認識することにあった。そういう実もふたもない認識の向こうに、より自由で充実した想像力がはたらいていた。