内田樹という迷惑・秋葉原と八王子

内田氏がまたおかしなことを言い出して、僕はめちゃくめちゃむかつき落ち込んでいる。
先日八王子で起きた無差別殺人事件も、「コピーキャット」による模倣の衝動に過ぎないのだから、騒がないで無視するのがいちばん、無視すれば類似の事件が起きてくるということもない・・・・・・と語っていました。
人を殺そうとする衝動などなくても、「先例のように目立ちたい」というただの模倣の衝動だけでこういう事件が起きてくる、と言いたいらしい。
しかしねえ、「先例のように目立ちたいという模倣の衝動」なんか、誰でも持っているのですよ。内田さん、あなただって、村上龍養老孟司橋本治を模倣して目立ちたいと思いながら作家活動をしているじゃないか。あなただって、まぎれもなく「コピーキャット」そのものじゃないか。
人が出世をしたいと思うのも、有名なスポーツ選手や芸能人や劇画家になりたがるのも、みんな先例を模倣する「コピーキャット」の衝動でしょう。先例としての有名人がいなければ、有名人になりたいと思いようがない。きれいな彼女を持ちたいと願うことだって、「きれいな彼女」という「先例=共同幻想」を模倣する意識の上に成り立っている。
コピーキャット」の衝動で人殺しをするのではない。「人を殺してみたい」という衝動で人殺しをするのだ。そんなこと、あたりまえじゃないか。どうしてそのように端的に直接的に考えられない。
そんな持って回ったような言い方だけで「解答」を得たつもりになっている、その陳腐で凡庸な思考回路が気に食わないのだ。
この世界には、「人を殺してみたい」という衝動が充満している。それはもう、認めるしかないのだ。そのことを僕は、いいとも悪いとも思わない。いいか悪いかなんて、よくわからない。それは人間の歴史とともに持ちつづけられてきた普遍的な衝動だろうと思っている。戦時下だろうと平和な世の中だろうと、誰の心の中にも疼いている衝動なのだ。そういうことを、われわれは今、一連のそうした事件から知らされている。
誰だって「あんなやつは殺してしまいたい」と思うことはあるじゃないか。「死ね、ばか」と言ったりするじゃないか。
他者の存在を無化してしまいたいという衝動は、誰の中にもある。
人を嫌う、とは、そういう衝動でしょう。「無視する」ということだって、「人を殺してしまいたい」という衝動のバリエーションなのだ。
内田さん、あなたが「あんな事件のことは無視するのがいちばん」と言うとき、当事者の「人を殺してみたいという衝動」を無化し、当事者の存在そのものを抹殺してしまおうとする衝動が潜んでいる。その言い方は、あなたの殺意なのですよ。あなたはあほだからそのことに無自覚でいられるけど、まぎれもなくあなたの他者に対する殺意から生まれてきた言いざまなのだ。
「無視する」というのは、内田さん、あなたの中の犯人を殺してしまおうとする衝動なのですよ。
あなたがブログのコメント欄を閉鎖したとき、自分の中で整合性さえつけばイカフライ氏をはじめとする多くのブロガーがなんと思おうと関係ない、と決めつけたのも、いってみれば人を殺そうとする衝動なのですよ。人を殺そうとする衝動のバリエーションなのですよ。あなたは、自分の得にならない人間は、ことごとく無視しようとする、ばかにしようとする。それじたいが、人殺しの衝動なのですよ。
内田氏は、ひといちばい人殺しの衝動を強く抱えた人だと思う。それを上手に小出しにして生きているから、しなくてすんでいるだけだろう。
「死んだ気になってやってみろ」という。人はすぐ、生死の問題にして考えようとする。それは、自分に対しても他人に対しても「殺してしまいたい」という衝動を持っているからだ。
他者を支配して他者の自由を奪おうとすること、他人を言い負かそうとすること、それじたいすでに人殺しの衝動なのだ。
そういう衝動は、あなたも僕も、多かれ少なかれ誰もが持っている。
会社の社長や重役や部長や、学校の先生や、子供を育てている親たちは、支配者として、他者を操りながら、みずからの人殺しの衝動をうまく吐き出してしまっている。
うまく吐き出していかないと生きられないのが、人間なのだ。
人間が「他者」の存在を必要としているのは、愛するためだけじゃなく、人殺しの衝動を吐き出してしまう相手を必要としているということでもあるんだぜ。
内田さん、あなただって人殺しの衝動を抱えた人間なんだぜ。
コピーキャット」の衝動だけでは、人殺しはできない。人殺しの衝動があるから、人殺しをしてしまうのだ。
内田さん、あなたが「愛」がどうちゃらこうちゃらといい、秋葉原や八王子の事件を「コピーキャット」の衝動というだけですませてしまおうとするのも、あなたの中にひといちばい強い人殺しの衝動が渦巻いているからだ。そういう衝動を強く抱えているあなたは、人間の「人殺しの衝動」と向き合うことができない。目をそむけて、すぐ別の問題にすりかえてしまう。
すりかえて、いい子ぶる。薄汚い詐術だ。
われわれは、あなたの他者に対する残酷さを、怖いと思う。気味悪いと思う。
あなたが私生活の華やかさを臆面もなく吹聴しまくり、自分の著書が売れていると自慢するとき、それを読んだ者の「ひがみ根性」が逆撫でされるということを、あなたは考えたことがないのですか。
ひがみ根性を持つやつが悪い、というような通俗的な道徳論のことはどうでもいいのです。ひがみ根性を持つやつが少なからずいる、という事実を想像できるかいなかの問題です。ひがみ根性はせつない。そういうせつなさを他人に与えたってかまわない、とあなたは思うのですか。そうやってあなたがいい気になることと引き換えに、せつなく身をもんでいる人間がいるという事実を、あなたはなんと考えるのか。
ひがみ根性は愚かな感情なのだから、持つやつが悪い、と始末してしまっていいのですか。愚かであろうとあるまいと、ひがみ根性はせつないのです。そんな感情に浸されてしまったら、たまらないだろうな、とは思わないのですか。
あなたの自慢が正当であろうとあるまいと、そんなことはどうでもいいのです。
人の心の動きなど無視して、いいか悪いかという「意味」だけで判断する。そうやって他人のひがみ根性のことなど平然と無視できるのは、あなたの「殺意」なのですよ。そうやってあなたは、「他者」を抹殺しにかかっているのですよ。
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現代の若者の無意識の中に人殺しの衝動が渦巻いているのだとすれば、それは、自分がつねに誰かから人殺しの衝動を向けられて生きているという無意識の自覚があるからだろう。
親から、教師から、同級生から、経営者から、時代から、つねに殺意を向けられていることを感じないではいられない。
そういう「状況」が存在する。
心が傷つく、という問題は、いいか悪いかではない。たとえ「いいこと」をいっても、それで相手を傷つけてしまうこともある。
内田氏は、世のニートの若者に対して、「いいから黙って働け」という。働くことの意義や正義をどうちゃらこうちゃらとまくしたてる。彼は、自分が正しいことを言っていると思っている。正しいことは言ってもいいことだと思っている。
そういうふうに言われて相手が傷つくということなど、どうでもいい。仕事でミスをした部下を叱る。それは正しいことなのだから、叱ってもいいと思っている。君の将来のためだから、という理由で、親は、子供に「いい子になりなさい」「勉強しなさい」と言ってもいいと思っている。
いってもいいけど、それで相手が傷ついたのなら、それは相手を傷つける行為だった、という事実でもある。いいこと言おうと言うまいと、まぎれもなくそれは相手を傷つける行為だったのだ。それは、人殺しと同じ行為なんだぞ。
そのとき相手は、自分の存在を否定された、と思ったんだぞ。
とにもかくにも現代の子供たちは、そういう傷つき方を繰り返しながら生きている。
なぜ傷つけるかは、言ってることの正しいかどうかという「意味」の問題ではない。言ってる人間が、言葉の「意味」ばかりにとらわれて、傷つけることは言うまいという自覚がないからだ。
たとえ正しいことであろうと、それによって相手が傷つくのなら、もう言うわけにはいかない、という自覚がなさ過ぎるのだ。
だから、どこかのあほな大学教授は、自分のセレブな私生活や本の売上げの好調さをのうのうとまくしたてることができる。
平和な世の中だからこそ、自分の「殺意」に無自覚な大人が多すぎる。
そういう大人たちの「殺意」に追いつめられて、子供たちの無意識に「人を殺してみたい」という衝動が育ってゆく。
子供たちに「殺意」が生まれるのは、まず自分に向けられた殺意に気づく、という体験があったからだ。それなしに、勝手に殺意を紡ぐということなど、誰にもできない。J・ラカンの「鏡像段階」の説を持ち出すまでもなく、そんなことは容易に想像がつくはずだ。
彼らが「殺意」を持っているということは、まわりに「殺意」があふれているということだ。
大人たちの子供に対する殺意、彼らは、まずそれに気づくのだ。
平気で「黙って働け」といえる殺意。大学教授にもなっている者なら、それくらいのことは気づけよ、このあほが。
内田さん、あなたの思考回路なんぞは、勉強しなさいと子供の尻を叩いているいかれた主婦以上でも以下でもないのだ。
それは、殺意なんだぜ。
将来のために、働きなさい、勉強しなさい。そう言われた若者や子供は、みずからの「現在=今ここ」を抹殺された心地になる。殺意を感じる。
内田氏は、ニートの若者の「今ここ」を抹殺して未来に追い立てようとする。それは、殺意なのだ。
殺意とは、他者の「今ここ」を抹殺しようとする衝動にほかならない。そして大人たちのそういう衝動に気づいて、子供たちは傷つく。その繰り返しによって、みずからの中にも殺意が育ってゆく。
秋葉原事件の若者は、親の殺意にさんざん傷つけられながら育ってきたのです。
人間が「傷つく」ということは、相手の殺意を感じる、ということなのですよ。
内田さん、あなたは他者に対して、平気で殺意をまき散らしている。もともと大人とはそういう人種なのだが、あなたの場合、そこに何の反省もない。それが、むかつく。
平和な世の中だからこそ、小出しにされた殺意が、日常生活の中で無際限に垂れ流されてゆく。怖いことです。そういう平和の代償として、無差別殺人が起きているのであって、ただの「コピーキャット」の衝動なんかであるものか。
平和な世の中では、内田氏のようにみずからの殺意に無反省な大人がのさばりかえってくる。そういう正義づらした大人が、若者を追いつめ、若者の殺意を育てているのだ。
あなたは、内田氏の言説に何かニヒリスティックで凶悪なものを感じないですか。

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