内田樹という迷惑・人生という主題

ともあれ誰もが、「人生」という主題を抱えて生きている。
秋葉原事件の若者だって、みずから人生になんらかの決着をつけようとしてあのような行為に走ったのでしょう。
内田氏は、人生とは「(すてきな)未来を妄想する」ことにある、という。
たとえば、すてきな恋人と出会っている未来の自分、すてきな職業に就いたりすてきな経験をしている自分を妄想すること。そういう未来のために今を生きよという。
何にしても、人生とは、自分を確認してゆくことなのだそうです。
確かに未来の自分は妄想できる。
しかし、未来において誰と出会うかは、わからない。すてきな恋人と出会っている自分を想像することはできても、その恋人が誰であるかはわからない。そのとき人生の味わいは、すてきな恋人と出会っている自分を確認するだけでいいのか。
「すてきな恋人と出会っている自分」を確認することが人生のすべてであるのなら、その恋人は、すてきでありさえすれば誰でもいいことになる。
そんなものじゃないでしょう。誰と出会うかによって、その体験の味わいもずいぶん違ってくる。そんな未来のことなんか、誰もわからない。未来において出会うであろう「あなた」、その「あなた」を今ここで体験することはけっしてできない。
そのとき人生の味わいは「あなた」を体験することであり、その体験によって自分が確認される。
すてきな恋人と出会っている自分と、「あなた」と出会っている自分は違う。すてきな恋人と出会っている自分の心の動きなどあるていど想像がつくのかもしれないが、「あなた」と出会っている自分の喜怒哀楽の細部は、出会ってみなければわからない。そして、そういう喜怒哀楽の細部こそ、人生の味わいなのではないか。具体的な喜怒哀楽は、そのつどその場でしか体験できない。
すてきな恋人と出会っている自分を確認することが人生の味わいである、という認識は、「あなた」という生身の存在を、「すてきな恋人」というただの「記号」にしてしまうことにほかならない。そういう「他者」を喪失したニヒリスティックな感受性の上に、内田氏の説く「人生」が成り立っている。
「あなた」との出会いはあくまで個人的な体験であるが、「すてきな恋人」という「記号」は、客観的な事実として社会的な承認を得られる。内田氏が他者と出会っても、関係性としての具体的な心の動きはすべて捨象され、客観的な事実を獲得しているという満足ばかりが優先されてゆく。
他者を「記号」としてしか見ないのだもの、そりゃあ女房子供に逃げられる。僕が女房子供だったら、こんな薄気味悪い男とは、一緒によう暮らせない。
「人生をこんなふう考えていたら女房子供に逃げられますよ」、というのならまだしも誠実だが、内田氏の場合は、こんなふうに考えることこそほんとうの人生の味わいなのだと脅迫しにかってくるのだから、そりゃあわれわれだって憎まれ口のひとつも叩きたくなる。
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「私の若さや美しさなんか愛さないでください。私が私であることを愛してください」とうたった女の詩人がいる。
若さや美しさなどいずれ必ず滅びる。そんな「客観的事実」に執着されたら、「愛」なんか信じられなくなってしまう、というわけです。
そこで内田氏は、いずれ滅びるからこそ現在の若さや美しさをなお貴重なものとしていとおしむことができるのだ、と居直る。
そりゃあ、いとおしむほうはそれでいいでしょうよ。しかしそんなふうに見られているがわのつらさは、どうなるのか。そんなことよりも、たがいの関係性から生まれるもっと具体的な喜怒哀楽の心の動きをどうして味わおうとしないのか。若さや美しさなどたんなる客観的事実であって、彼女にとっての「私」固有のものではない。私が私であること、そして私とあなたの関係性、それだけが固有のものだ。
そういう「固有性」に対する視点が内田氏には欠けている。
言い換えれば、あるがままの他者と向き合い肯定してゆく、という態度が取れない。つねに「客観的事実」によって「関係性」を装飾してゆこうとする。
われわれがじっさいの現場に立ったとき、自分が「すてきな恋人」と出会っているという満足などたいがい忘れてしまっている。そうして意のままにならない喜怒哀楽の心の動きに翻弄されてしまう。
しかしたぶん内田氏は、そうした客観的事実に対する満足だけで押し通そうとする。そういう満足だけに浸りきれるらしい。われわれには、そんなふてぶてしくもアクロバティックな芸当は、とてもじゃないができそうもない。
ともあれ、「すてきな恋人」じゃなければ「恋人」とはいえないのか。そういう「意味」ばかり追いかけて、今ここの具体的直接的な体験を喪失してゆく。それが、内田氏の説く「未来を妄想する」という体験なのだ。未来ばかり妄想していると、そういう直接的な体験ができない感性になってしまう。「すてきな」という飾りのついた人生でないと生きられない人間になってしまう。「すてきな」という飾り(意味)ばかりにとらわれて、直接的な体験のリアリティを汲み上げることができなくなってしまう。
「私」と「あなた」が出会うことに、「すてきな」という飾りなど必要などないのだ。まっとうな庶民であれば、たがいの存在そのものに、ときめいたり、幻滅したり、怒ったり、許したりという直接的な体験に入ってゆくしかないのだ。
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内田さん、あなたは、生きるという体験のリアリティを喪失しているのですよ。あなただけじゃない、それが現代の病理的な側面でもある。誰もが、そういうかたちで生きてゆくことを余儀なくされている。だからあなたが、そういう空々しさを正当化して見せれば、みんなが安心する。そうして、本が売れる。
あなたたちはどうせそういう空々しい生き方しかできないのだから、せいぜいそうやって肯きあっていればいいさ。
しかし、いずれは誰もがそういう直接的な体験の世界に足を踏み入れてゆくしかないという現実もあるわけですよ。
あなたは、個人的直接的な他者との関係に失敗し、社会的客観的な関係に大いなる成功をおさめた。それがなぜかということに、われわれは今、少しずつ気づき始めている。
口ではいろいろかっこつけたことをほざきながら、けっきょくあなたは、人生の甘い汁だけを吸い上げようとしている。吸い上げることに成功している。
それに対してわれわれが苦い汁も体験してしまうのは、それを引き受けようと決断しているからではない。避けがたく体験してしまった結果として、引き受けているだけです。
われわれは、あなたのいうような人生の苦い汁(=受難)を引き受けようとする「覚悟」など持っていない。「覚悟」によって引き受けようとする者は、引き受けられる範囲でしか引き受けない。それは、引き受けていないのと同じなのですよ。
女房子供に逃げられることは「受難」ではない。女房子供と一緒に暮らすことこそ、「受難」を生きることなのだ。そんなことくらい、あなただって、わかっているのでしょう?わかっているのなら、自分が人生の甘い汁をすっていることを、あまり不用意に自慢しまくることもないだろうと思うのですがね。そんなに自分の私生活を吹聴したいのなら、レヴィナス先生の教えにしたがって、その「受難」を記述して見せなさいよ。私生活の中から、「受難」を汲み上げて見せなさいよ。口先だけでかっこつけることばかりしていないでさ。
われわれは、受難を引き受ける覚悟など持っていない。そんなものいやだ。ただ、人間の心の動きは受難を受け入れてしまうようにできている、と思っているだけだ。
この世に生まれてきたということじたい、すでに受難じゃないか。親を選ぶこともできなくて生まれてきてしまったということは、受難なんだぞ。誰だって、賢くてきりょうよしの人間に生まれてきたかったさ。それでも、子供たちはその受難を無心に受け入れている。あるいは、こらえがたきをこらえて受け入れている。それはとても切なくいじらしいことだと思いませんか。
内田さん、あなたには、人生に対しても言葉に対しても、直接的な体験というものがない。フリルひらひらの意味体験をもてあそんでいるだけだ。