内田樹という迷惑・「外部経済」て何?

「近傍と確からしさ」というハンドルネームの人が、「外部経済」といっていた。
僕は教養がないから、この言葉をはじめて聞いた。
で、「外部経済」てなんだろう、と考えた。
共同体の外部の経済、ということだろうか。
柄谷行人氏は。「利潤は、共同体と共同体の間(=外部)で発生する」といっていたが、たぶんそういうことではない。「利潤」ということそれじたいが「内部的」なものだ。
とすれば、「利潤」の発生しない経済、ということだろうか。
違うのだろうが、ひとまずそういうことにして考えてみます。
経済とは、「交換」することでしょう。
外部経済においては、利潤を目的として交換しない。
では、何が交換に向かわせるのか。
「あなた」の服と「私」の服を交換する。べつにたがいに相手の服が魅力的に見えたからではない。それは、「利潤」が目的なのではない。ただもう、「交換する」という行為がしたかったからだ・・・・・・人は、ときどきそのようなことをする。
サッカー選手が試合後にユニフォームを交換し合う。まあ、そんなようなこと。
その服は、たんなる交換の「道具」であって、「価値」ではない。価値は、交換することそれじたいにある。
人がセックスをするのは、たがいの体に「価値」を認めるからではなく、抱きしめあう(交換する)ことにそれを認めるからだ。
いい女(男)だからとか愛しているからというのは、共同体的な「内部経済」なのだ。「外部経済」においては、たがいの身体は、たんなる「道具」にすぎない。「抱きしめ合う」ための「道具」にすぎない。
僕の知り合いにセックスのポテンシャルの減退に悩む五十代の男がいて、あるとき魅力的な体を持った若い娘とセックスする機会を得て、張り切ってホテルにしけこんだ。しかし、ついにペニスの勃起は果たせなかった。いくらきれいな体だといっても、相手がその気になってくれなくてこちらもこわごわ抱いているだけじゃ、ペニスは勃起しないのです。
美女であろうとあるまいと、そんなことは関係ない。抱きしめあうことそれじたいに熱中できれば、ペニスは勃起する。身体は、抱きしめ合うためのたんなる「道具」に過ぎない。
セックスは、「外部経済」なのだ。
「外部経済」においては、「交換」することそれじたいが目的であり、「利潤」になる。
人は、なぜ「交換」したがるのだろう。
原始人がはじめて海の魚と山の木の実を交換したとき、相手のものが魅力的だったからか。そうじゃない。魚を食ったことのないものが、魚を食いたいと思うはずがない。原始人の行動を、現代人の「内部経済」の物差しで計っちゃいけない。彼らは、「交換」したかったのだ。
そのとき、魚や木の実は「商品」だったのではない。「交換」のための「道具」だった。
抱きしめ合ってセックスするように、「交換」したかったのだ。
人間性の基礎として、たぶんそういう衝動がある。
抱きしめ合うということなど、人間しかしない。
それは、二本の足で立ち上がって、胸や腹や性器などの急所を相手に晒してしまっているからだ。そうなればもう、抱きしめ合うことによってしか、相手から急所を隠すすべはない。
直立二足歩行する人間は、「急所を晒してしまっている」という不安を抱えて存在している。そのいたたまれなさが、抱きしめ合うこと、すなわち「交換」に向かわせる。
「近傍と確からしさ」さんが言ったように、たしかに交換には「道具」が必要なのだ。
身体という道具、そして商品もまた、ほんらい交換のための道具だったのだ。
原始人が海の魚と山の木の実を交換したのは、たがいに相手の持っているそれが欲しかったのではない。仲良くするための「道具」としてそれらを交換したのだ。あるいは、敵意がない(殺そうとする意志がない)ことの表現として、たがいに相手の前にそれらを差し出した。
交換するとは、抱きしめ合うことだ。
二本の足で立ち上がって急所を晒している人間は、かんたんに相手を殺してしまうことができる。それは、殺してしまおうとする衝動が生まれやすい姿勢であるし、殺してくれと言っているような姿勢でもあるのだ。
だからこそ、そんな相手を許し、抱きしめ合おうともする。許したいと思うし、許されたいとも思う。それが、「交換」という行為だ。
無防備に急所を晒しやがって、と相手を侮蔑しつつ、みずからもまた侮蔑されるほかない存在であると自覚するなら、もうたがいに許すしかない、たがいに許しを乞うしかない。それが、「交換」という行為だ。
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内田氏は、すぐ相手を見くびったようなものの言い方をする。もともと人間は「急所=弱み」を晒して存在しているのだから、そのように相手を見てしまいがちな生きものです。しかしそれは、自分が「急所=弱み」を晒していないという前提に立っての話です。自分を正当化しているものだけが、そういう見方をできる。
自分が「急所=弱み」を晒していることを自覚するなら、もう見くびることなんかできない。
許しを乞うしかない。
内田氏によれば、現代の塾通いをする子供たちによるすぐ授業を妨害してしまうような落ち着きのない態度は、妨害して仲間の偏差値を下げようとする衝動なのだそうです。
まったく、何をくだらないことをほざいていやがる。すべての子供が、そんなすれっからしの大人みたいなたくらみだけで生きているはずがないじゃないか。
子供とはどういう人種か、ということを本気で考えたことがないから、そういうゲスなことが言えるのだ。
この人は、自分を正当化することばかりに夢中で、他者のことを本気で考えたことがない。大人になるとは「人間になる」ことで、子供はまだ「人間になりきれていない」人種なのだそうです。くだらない。人間であることの条件は、人間であることそれだけさ。子供だろうと、寝たきりの植物人間であろうと、「人間」に決まっているじゃないか。
人間であることまで差別なんかするなよ。そんな卑しいものの考え方するなよ。何を焦っているのか知らないが、すぐそうやって自分だけがまともな人間であるかのようなことをいいたがる。
彼は、つねに子供や若者を否定している。そして、私のようにこうなりなさいと脅迫ばかりしている。
つまり、直立二足歩行をする存在として、「急所=弱み」を晒して存在しているという自覚がない。他人の「急所=弱み」ばかりあげつらっている。だから、あなたは鈍くさい運動オンチなのですよ。そしてもしセックスのポテンシャルが弱いとしたら、それもまた、そういう愚劣で鈍重な思考のセンスからきている。
他者と「交換」しようとする衝動がないのだ。「内部経済」で「贈与」だの「返礼」だのという損得勘定ばかりしているから、ちんちんが立たなくなり、体の動きが鈍くさくなってしまうのだ。
それに対して秋葉原に向かった若者が、携帯サイトでしつこく「自分は不細工な嫌われ者だ」と訴えたのは、二本の足で立って「急所=弱み」を晒しているという自覚を持った者の態度です。彼は、みずからの「急所=弱み」を差し出したのだ。そうして「許し」を「交換」しようと願った。
それはたぶん「外部経済」なのだ。
また、もし彼がみずからの「死刑」と「交換」に人を殺したのだとすれば、「死刑」というのはよくない制度かもしれない、という気もしないではない。
人間の「交換」しようとする衝動、商品は交換のための「道具」でしかないこと。「近傍と確からしさ」さんには、考えるヒントを与えていただいて感謝しています。
この程度では、まだまだ考えたうちに入っていないのだけれど。