内田樹という迷惑・あきはばら9

こういうふうに考え、こういうふうに生きるのが正しい、などということは、誰にもいえない。
なのに内田氏は、自分は正しく考え正しく生きていると吹聴しまくっている。そういう態度を見せられると、ほんとにうんざりする。口先だけで謙虚ぶって思い切り清らかぶって、そのじつ他者に問うという態度などかけらもない。自分こそが正しいという調子で、その薄気味悪い言説を傍若無人に押し付けてくる。
いろいろ知識が豊富で他人をたらしこむ物言いは上手かもしれないが、言ってることの内容など薄っぺらなだけだし、品性も下劣だ。内田樹なんて、知識人としてはただの雑魚だと僕は思っている。
「自分は間違っているかもしれない」という反省を持つのが知性の本来的なあり方である、などとかっこつけたことを言いながら、そのじつ「私こそが正しい」といわんばかりの書きざまばかりしている。「他者に問う」というふりをしながら、ちっとも問うてなどいない。
どうしてこんなグロテスクで薄気味悪い言い方をする人間がのさばってしまうのだろう。
悲しくなってしまう。
この人の言っていることが正しいのかどうかなんて、僕は頭が悪いからよくわからない。ただ、どうしようもなく下品で卑しい、と感じてしまうのだ。
とにかく、自分は正しいことをいい、正しく生きていると吹聴できるその恥知らずな口ぶりが、僕はめちゃめちゃむかつくのだ。
べつに、内田氏がそんなふうに考えそんなふうな生き方をするのは、内田氏の勝手だ。しかし、これが正しい考えだからこう考え、これが正しい生き方だからこう生きている、というような言い方をされると、ちょっと待ってくれよといいたくなる。
誰だって、そういう生き方考え方しかできないからそういう生き方考え方をしているだけでしょう。そういう生き方考え方しかできないだけなのに、これが正しいからこういう生き方考え方を俺はしているのだ、と主張してくる。
自分の生き方考え方を正当化することばかり考えていやがる。この世界の普遍的な真理は自分の生き方考え方を正当化するためにあると思っていやがる。何がなんでもそういうことにしてしまおうとたくらんでばかりいやがる。
だから、卑しいのだ。
内田さん、あなたがどのように生きようとあなたの勝手だが、あなたの生き方を正当化するための論理をこの世界の普遍的な真理であるかのように押し付けられたら、われわれとしてもたまったものじゃない。
あなただって、そのようにしか生きられないだけじゃないか。これが正しい生き方だからこのように生きているなんて、あつかましいにもほどがある。この世の中には、あなたのような生き方なんかできない、したくない、と思っている人間だってたくさんいるのですよ。そういう「他者」を、あなたは、自分を正当化するためにぜんぶ否定しているのですよ。
ちっとはそこのところに気づけよ、このあほが。
会社の社長だろうと大臣だろうと、女たらしだろうとホームレスだろうと妾だろうとフーゾク嬢だろうと、誰もがそういう生き方しかできないからそういうふうに生きているだけでしょう。それが正しい生き方だからと判断したからじゃない。そういう「結果」としての自分の生き方を、「結果」として正しい生き方だと思いたがっているだけのことだ。
いや俺は正しいことをめざして生きてきたのだ、と言いたいのなら、それは、正しいことをめざす生き方しかできなかっただけのことだ。そんなもの、正しいことをめざしただけであって、正しかったわけではない。
正しい生き方なんかないのだ。あるいは、どんな生き方もぜんぶ正しいのだ。
誰もが、自分以上の自分以外の生き方なんかできないのですよ。
だから誰の生き方が素晴らしくて誰の生き方はつまらないというような差別はできない。素晴らしい生き方とかつまらない生き方というような区別はできないのですよ。
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秋葉原事件のことを、内田氏をはじめとする知識人四人が語り合ったのだそうです。そして、この社会やわれわれおとなたちの責任を痛感しながら、ついに結論にたどり着くことはできなかったのだとか。そうして自分たちがいかに知的に誠実であるかを確認したのだそうです。
まったく、おめえの誠実さなんかどうでもいいんだよ。そんなこと確認して、何がうれしいのか。
このげす野郎が。
おめえの知的誠実さをひけらかす前に、殺した者か殺された者たちに寄り添って何か発言することはないのか。
それなりの事件であったのなら、それなりの感慨というものがあるだろう。その感慨が自分の知的誠実さを確認することだったなんて、もうぶざまとしか言いようがないではないか。
あなたにとって「他者」とはなんなのだ。そんなまるっきり他者を置き去りにしたような自己陶酔にふけって、何がうれしい。
この半月のあなたのブログなど、いそがしいいそがしいと、私生活の自慢話を垂れ流すばかりだったじゃないか。あの若者や死者たちとの対話を試みるような記事を、一日でも書いたか。
あなたのどこに「知的誠実さ」があるというのか。
せめて一日でも、いや一時間でも、自分のことをそっちのけであの若者や死者たちのことを考えるくらいのことはできるだろうが。
この期に及んでも、自分のことばかり考えていやがる。自分のことばかり語っていやがる。
始末に負えない俗物野郎だ。
この社会の問題がどうとかこうとかと分析することなどいつでもできる。あとになって事実関係がいろいろわかってきてからのほうが、もっとうまくできるにちがいない。しかし、事件に対する感慨は、日に日に薄れてゆくのだぞ。今のうちに書きしるしておきたい、あの若者や死者たちに対する感慨が、あなたにはないのか。
なにが知的誠実さか、ちゃんちゃらおかしいんだよ。
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侮蔑しつつ許す、というこの世のもっとも崇高な態度は、女のおまんこにしかできない・・・・・・と前回書きました。内田ブログでの「イカフライ」氏のコメントにも、そういう感慨があるのだろうか、とふと思いました。
「許す」とは、侮蔑するということだろうか。
「許す」とは、泣きながら侮蔑するということだろうか。
われわれは、この生を侮蔑している。そして、許して受け入れている。
この世の中には、ブスや頭の悪い人間がいっぱいいる。彼らは、親に対して「どうして俺を産んだのだ」と抗議する権利がある。なのに、ほとんどの者がその現実を受け入れ、そういう自分を生きてゆこうとしている。そういう自分を侮蔑しつつ、許しながら生きている。
この世の中には、自分を侮蔑して生きることを強いられている者がたくさんいる。
いや、この生を侮蔑することこそ人間性の基礎ではないだろうか。
息苦しいことや腹が減ることを鬱陶しい感じるのは、この生を侮蔑している態度でしょう。
そういう侮蔑の感慨を持つからこそ、息もすれば飯も食う。侮蔑しつつ許しているから、息もすれば飯も食う。
「命の大切さ」などといっちゃいけない。命を「侮蔑しつつ許す」ことが生きるいとなみなのだ。
自分を侮蔑しつつ許す、ということをしながらわれわれは生きている。
われわれは、息苦しくなったり空腹になったりするこの身体を侮蔑している。そこで息をしたり飯を食ったりすることは、身体を忘れることであって、身体を実感することではない。そうやって身体が安定すれば、身体のことなど忘れてしまう。
身体のことなど忘れているときに、われわれは「生きた心地」を実感する。
それは、身体を侮蔑することの浄化作用(カタルシス)なのだ。
われわれは、身体を侮蔑しつつ許している。
この生を侮蔑しつつ許している。
この生を侮蔑している者にこそ、浄化作用が与えられる。この生を侮蔑する者こそ、もっとも誠実に生きている。
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内田さん、「誠実な知性」を自認する人が、自慢たらしく自分のことばかり語るなよ。お里が知れるというものだ。
「自分は間違っているかもしれない」と疑うことのできる知性こそ誠実な知性である。したがって私は誠実な知性の持ち主である、てか。
あほらしい、そんなことはどうでもいいんだよ。「私は誠実な知性の持ち主である」ということそれじたいを疑うことができなければいけないんだよ。自分の知性そのものを疑うことができなければならない。そういう意味であなたなんか知性的でもなんでもないし、しょせんは三流の知識人さ。知識人というレッテルは持っているが、知性的でもなんでないんだよ。
ほんとに知性的な人間は、みずからの知性を「侮蔑」している。
だから、「私はばかな人間です」と言うのであって、あなたのように「私は自分の知的能力について適切な評価ができる程度には知的な人間です」などというようなスケベ根性で言っているのではない。秋葉原に向かったあの若者が、携帯サイトでしつこく「自分は不細工な嫌われ者だ」と言い続けたように、人はしんそこ「私はばかな人間です」と思うときがあるんだよ。
彼は、おめえみたいな三流の俗物とはわけが違うんだよ。
内田氏は、こう言う。
「私は自分のこの先の人生と死んでゆく未来を確かに想像することができる。だからこそ、現在のこの生をかぎりなくいとおしいものだと実感している」と。
ようするに未来のことばかり考えたがる自分の強迫観念という俗物根性を正当化したいために、そんな愚劣で陳腐な論理を捏造しているだけのことだ。そういう愚劣なことをいう大人がこの社会にはうようよいるから、若者が「人を殺してみたい」というところに追いつめられてしまうのだ。
「この生がいとおしい」といって清らかぶっているつもりだろうが、そんなものは、死にたくないという強迫観念にすぎない。そして自分じゃオリジナルな意見のつもりらしいが、うんざりするほどありふれた感慨にすぎない。薄汚い大人は、みんなそう思っている。俗物にはお似合いの感慨だ。
この生がいとおしいものであるためには、美人であらねばならない。頭がよければならない。セレブであらねばならない。そうしてこの生に幻滅するというもっとも人間的な感慨を捨てなければならない。
つまり、息苦しいと思う前に息をし、腹が減る前に飯を食わねばならない。こんなこと、現代人の生活そのものでしょう。そういう現代社会のありふれた強迫観念の上に、この生のいとおしさ、すなわち「命の大切さ」という手垢にまみれた考えが成り立っている。
この生を侮蔑できないということは、この生以外のもの、すなわち「世界」や「他者」に対する感動を欠いている、ということだ。
図と地、意識は二つのものを同時に認識することができない。したがって内田氏がこの生のいとおしさを噛みしめているとき、この生以外の世界や他者に対する感動を喪失している。
ようするに内田氏にとっては、秋葉原事件のことを思うよりも、「秋葉原事件を思う自分のことを思う」ことのほうが大切だし、そういう思い方しかできない俗物だ、ということです。
みんな美人になって、頭がよくなって、セレブになって、自分をいとおしみながら生きていきましょう、てか。
だから、そんなものは「インポの思想」だというのですよ。
自分をいとおしむ者は、「他者」を喪失して、インポになる。不感症になる。これが現代人の病理でしょう。
内田さん、ちんちんが勃起するということは、ひとつの感動体験なのですよ。ここに「感動」というものの根源のかたちが隠されている。われわれは、それを知りたいと思っている。
美人であることも、頭がいいことも、セレブであることも、どうでもいいのだ。
派遣社員として搾取されていることも、たいした問題じゃない。もっと惨めな境遇でも、人は生きられる。彼女さえいれば・・・・・・。
生きてゆくのに必要なものは、ほんの少しのお金と、ほんの少しのセックスアピールだ。
われわれは、この生を侮蔑しつつ許している。秋葉原に向かった彼は、そういうかたちで、誰かに許されたかったのだ。「罪と罰」の主人公のように。