内田樹という迷惑・愛の思想家だってさ

この人は、自分がいかに「愛」に溢れた清らかな人間であるかと自慢ばかりしている。そんなことを平気で自慢できるなんて、人間として幼稚だし、愚劣だと思う。
それに、思想家としてのセンスの問題でもある。
われわれからすれば、「愛」なんてよくわからないし、興味もないのですけどね。
内田氏は、自分のブログで、自分を語りつづけている。もともとブログとはそういうものであるのかもしれないが、「愛の思想家」を自認する人であるなら、他者についての感想を語りつづけるのが筋でしょう。他者を語ろうが何を語ろうが、そう語る自分についての感想ばかりが透けて見えてしまう。
「ジャリタレ」のブログじゃないんだから、誰と会っておいしいワインを飲んだとか、そんなことどうでもいいだろう、と言いたくなってしまう。成り上がり根性というか、プチ・ブル根性というか、垢抜けないじゃないですか。
そういう「生活」の自慢だけは、抜け目なくしている。
「生活者の思想」なんてくだらない。われわれはろくでもない「生活」をしているから、自分の「生活」にうんざりしている。「生活」なんてくだらないと思っている。生きてあることは、「生活」することではなく、「息をする」ことだと思っている。自分がいま息をして生きてあるということに、おそれおののいている。
「幸せ」になりたい、という人の気持がよくわからない。そんなものが人間の本性であると決められたくはない。そんなもの、ただの強迫観念でしょう。幸せになりたがるくらいしんどいものを何か抱えているからでしょう。僕は鈍感で頭が悪いから、そんなものに気づくことができない。
この生が幸せであらねばならないわけとは、いったいなんなのですか?
われわれはこの生から逸脱してゆくとき、もっとも誠実にこの生と向き合っている。この生を装飾するのではなく、この生から逸脱してゆくこと、それがわれわれの願いなのだ。
したがって「生活」なんかどうでもいい。生活を侮蔑することによって、われわれは根源的な存在になる。
それは、セレブな金持ちになることではない。セレブな金持ちだって、セレブな金持ちの「生活」に耽溺している。彼らこそ、もっとも「生活」を侮蔑する能力を持たない者たちなのだ。
名もない庶民こそ、生活を侮蔑しながら生きている。生活を侮蔑しながら生活している。
この世のもっとも貧しい者こそ、もっとも生活を侮蔑している。生きてあることそのものを侮蔑しながら生きている。
彼(彼女)は、この生を侮蔑しつつ、この生を受け入れている。彼(彼女)にとって「生活」などどうでもいいが、生きてあることそれじたいに対して、侮蔑しつつそれでいて、ある抗しがたい誘惑を感じている。
生きてあることなどどうでもいいから、生きてあることをすぐ忘れてしまう。意識は、他者(世界)に気づくとき、自分に対する意識、すなわちこの生(=生活)にたいする意識を喪失している。人間は、他の動物以上にこの生を侮蔑しているから、他者(世界)に気づくという心の動きがダイナミックにはたらくのだ。
庶民は、「自分=生活」になんか興味がない。つねに他者(世界)に気づかされながら生きている。
「人間とは自己意識である」などとほざきまくっている内田樹とかいうお偉い学者先生にはわからない生のかたちであろうが。
おめえなんか脳みそが薄っぺらだから、そこまで思考が届かないのだ。
生活者、なんて言い方はくだらない。というか、生活を侮蔑しているのが、生活者なのだ。
生活者である女は、家事なんかうんざりしている。こんな100グラム200円の輸入肉ではなく、一流レストランのような松坂牛を使ってみたい、とうんざりしている。家事なんか、いやだけどしょうがなくやっているだけのことだ。それでも、まな板の上のねぎをきざんでいるうちに、いつの間にかその、ねぎがとんとんときざまれてゆくようすにに心を奪われて自分(=生活)を忘れてしまう。家事を女中にやらせるブルジョアと違って庶民は、生活を侮蔑しているこのタッチを持っているから家事を続けられるのだ。これが、庶民の生活のタッチなのだ。
べつに「生活」することに無上の価値を感じているのではないし、感じたとたんその行為は挫折してしまうだろう。感じたら挫折するほかない暮らしをしているのが、庶民(大衆)なのだ。わかりますか、内田先生?
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こんな愚劣な言説ばかりを垂れ流すやつがオピニオンリーダーとしてのさばっているなんて、いやな世の中だ。腹も立つし、悲しいとも思う。
それは、われわれの精神の何かが麻痺しているからだろうか。
内田氏のブログのコメント欄に叛旗をひるがえした「イカフライ」氏が登場してきたことは、現代の世相を象徴的に示しているのかもしれない、と思ったりします。
内田氏のような共同体の規範にしがみついた物言いばかりしている人間がオピ二オンリーダーになってしまうような保守化の状況が進めば、かならずそれに対するカウンターカルチャーもあらわれてくる。そうやって「イカフライ」氏が登場し、秋葉原事件の若者が称揚されたりしているのではないだろうか。
保守的な層がそういうムーブメントから自分たちの身を守るすべは何かといえば、カウンターカルチャーの言い分をぜんぶ自分たちのものにして世の中に定着させてしまうことです。
たとえば内田氏が、すべてのことを共同体の規範に収斂させてすっきりとわかったようなことをいいつつ、誠実な知性とは「わからない」と考えることにあると言ったり、「単独者」とは「イカフライ」氏のような与太者ではなく私のように正しいと信じたことに責任を取っている人間である、というような言いざまをしてみせるのは、まさにこの態度であるのでしょう。
「わからない」という認識と、「正しいと信じたことに責任を取る」という態度は、矛盾した両極です。わからないと認識すれば、正しいと信じることも責任を取ることもできない。にもかかわらずその矛盾した両方が自分たちのがわだけにある、と居直ってゆくのが内田氏の戦略らしい。というか、そういう人格のお方らしい。
必死に共同体の規範にしがみついているくせに、そうやってカウンターカルチャーにエールを送りつつ、自分も同じ人種だと認めえてもらおうなんてさもしいことも平気でする。まったく、美しくご立派な態度であらせられる。