内田樹という迷惑・単独者

「達人」とは、いわば「単独者」のことです。
「型」から逸脱して「解答」のない前人未到の地を行く者。前人未到の境地を「型」として持っている者。
内田氏は、こう言っています。「単独者とは、いつかは故郷に戻ってくる<巡歴者>ではなく、故郷を捨てた<越境者>のことである」と。
まあそんなようなことかもしれないが、しかし「規範=型=故郷」を逸脱したら何も考えることも体を動かすこともできないくせに、そう言ってそのあと私こそ「単独者」としてものを考えている人間であると自慢してくるのだから、気味悪い話です。
聖書の中に「アブラハムは<あなたの幼い息子を祭りのときの生贄として捧げなさい>という神のお告げを聞き、それに従った」という話があるそうです。つまり、そういうぎりぎりのかたちで「信仰」を試された、という話です。
で、アブラハムこそ「単独者」である、と内田氏は解説する。たとえばこんなふうに。
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「主体」というのは、理解を絶した(他者の)異語を「おのれの責任において」聴き取り、その意味を「おのれの責任において」解釈する者のことである。そのような仕方で「責任をとりうる」者だけが「主体」として立ちうるのである。
 アブラハムは「単独者」である。なぜなら「神は私の息子を播祭に捧げよと言っているように私には聞こえたのですが、そう解釈してよろしいのでしょうか?」と確認を求める相手がどこにもいない状況下で、彼は決断を下さなければならなかったからである。
・・・・・・単独者とは「私の判断の<正しさ>を客観的に査定しうる者が誰ひとりいない局面において、なお<正しい>と信じた行動を実践する」者のことである。
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神とは根源的な「他者」のことである・・・・・・こういうこけおどしの言説に、われわれはついしてやられてしまう。しかしこんなもの、知識人によるただの観念遊戯だ。
他者の他者性をどうのこうのとあげつらう必要がどこにあるのか。他者とは、「自分ではない」ということ、それだけのことさ。
他者の「異質性」がどうとかこうとかとかというが、じゃあ、自分とまったく同じ人間と出会えばその相手は「他者」ではないかといえば、やっぱり「他者」以外の何ものでもないでしょう。他者の「異質性」は、その振る舞いや言葉にあるのではない。「自分てはない」ということそれじたいが「異質」なのだ。すくなくとも「単独者」は、そのように「他者」に反応している。
この世の中には、賢く清らかな彼ら知識人のように「主体」として立ちうる者と、愚かで卑怯なわれわれ庶民のように「主体」として立てない者がいるのだそうです。
まったく、ゲス野郎が。「主体」という言葉まで差別のために使うなよ。
「主体」とは、この世界の中に立って息をしている者のことだ。それだけのことさ。
「神の言葉に聴き従う者」が「主体」であるなら、聞かない振りして逃げる者だって「主体」に決まっている。いちいち「主体」であることの「資格」なんか、おまえらに決められたくはない。
われわれは、「主体」として息を吸って生きている。「責任」がどうとかこうとか、よけいなお世話だ。責任なんか、取れるときと取れないときがあるし、取るも取らないもその人の勝手だ。妾を何人も囲いながら、女房子供に贅沢させてやっている人は、ちゃんと責任だけは取っている。それに対して女房子供を大切に思いながらもまともに養うことのできない人間は、責任が取れていない。「責任」を取れば、すべてが免罪され正当化されるのか。責任を取れなければ、さげすまれ断罪されねばならないのか。「責任」などという安っぽい言葉で人間を計量していいのか。
むかし吉本隆明という人は、ほんとにお金に困れば泥棒したっていいと思う、と言っていた。なにはともあれ、「責任を取る」なんて、頭の薄っぺらな大学教授にはお似合いの安っぽい言いざまだ。
愚かで卑怯でもいいとはいわない。しかしそれだって、この世の「因縁」の問題でもある。そういうことを考えれば、愚かで卑怯な者を人間扱いしたくない内田氏のそのいやらしい選民意識を、われわれはしんそこ軽蔑する。
そして世の中には、そういう選民意識を温存しておきたい人間がたくさんいる。セレブな人間ほど温存しておきたいし、近ごろではただの庶民でも自分がセレブの予備軍であるかのように錯覚して、内田氏のこういう愚劣でグロテスクな言説を支持したがる。
まあ、一度でも海外旅行に行ったことがあったり、内田氏の哲学ぶった本を読んだりすればもう、セレブの予備軍のつもりになれるらしい。というか、セレブの予備軍のつもりで生きていきたいのでしょう。
人びとは、自分が正しく生きているという安心を欲しがっている。そのためには、つねに共同体の規範に戻ってきて「正しい」か否かを吟味したがる「巡歴者」である内田氏がオピ二ヨンリーダーであってくれなくては困る。
「越境者」である「イカフライ」氏など、もってのほかだ。
「プチ・ブル」の「プチ・インテリ」こそこの世のもっとも正しい存在である、ということにして生きてゆきたいのだ。
そういうことが、内田ブログにおける「イカフライ」攻撃の狂騒ぶりによくあらわれている。
「プチ・ブル」とか「プチ・インテリ」とか、便利な言葉だ。年収200万の中卒だって、その気にさえなればたちまち「プチ・ブル」の「プチ・インテリ」だ。売れっ子作家の大学教授だけを指して言うのではない。たぶん、内田氏のシンパはみな「プチ・ブル」的「プチ・インテリ」的意識の持ち主なのだろう。
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卑怯で愚かな人間になることだって、「主体的な決断」によるのだ。
「主体」とか「単独者」という言葉をおめえらみたいに薄汚い俗物が占有しようなんて、あつかましいにもほどがある。
「人間」という概念を「規範=型」の枠内に限定してしか考えられない。限定して考えてしまうことの低脳ぶりと傲慢さ。怖いもんだ。
アブラハムだけが「単独者」なのではない。アフターファイブに酒飲んで与太話していれば、誰だってそのときだけは「単独者」さ。
というか、「正しいと信じる」ということじたいが、「単独者」にあらざる「共同体」的な身振りにすぎない。
「正しい」ということなど、共同体(制度)の中でしか成立しない。「単独者」は、「正しい」という判断などしない。単独者の観念の中には、「正しい」とか「間違っている」などという二項対立は存在しない。「正しい」なんて、共同体にしがみついて生きている者の判断(信仰)であり、人は、そういうことから逸脱して与太話をしているときこそ「単独者」になっているのだ。
単独者は、「責任」なんか取れない。彼を生きさせているのは、「正しい」という信憑ではなく、すでに生きてしまっている、という実存意識である。
内田氏が共同体(制度)の枠内の「正しい」という認識にしがみついて生きてゆくのは内田氏の勝手だが、彼が武道の極意を心得た「単独者」であるとは、われわれはぜったいに認めない。
「単独者」であることのできないやつほど、「単独者」というレッテルを欲しがる。それはまあ勝手なのだが、自分だけが「単独者」であるような顔をされたら、そりゃあ、はた迷惑というものだ。
「責任」などという手垢にまみれた言葉を後生大事に抱え込んで「単独者」だなんて、へそが茶を沸かす。
「単独者」とは、たとえば秋葉原に向かったあの若者のように、この世でもっとも生きにくい生き方をしている人のことであり、もしくは、誰もがこの世界の中の個体として息をして生きているということにおいてすでに「単独者」なのだ。
それだけのことさ。「責任」を取るとか「正しい」と信じるとか、そんなことは「単独者」の知ったことではない。