内田樹という迷惑・規範のしがみついた物言い

内田氏なんて、しょせんは規範のしがみついた薄汚いアジテーターに過ぎない。
彼は、「武道の型」などということをよく言う。鈍くさい運動オンチは「型(基本)」を修めるのに汲々としているから、それが至芸であるかのように思いたがる。そういうことにして自分の鈍くささを正当化しようとする。それだけのことです。
「型」とは「規範=制度」です。そういう「解答」の中だけで武道の極意が語れると思っていやがる。しょせんは、「解答=規範」の中だけでしかものを考えられないし、「解答」の中だけでしか体を動かせない。
ただの鈍くさい俗物の論理です。
「型」から逸脱して「型」に叶っている・・・・・・それが達人の技芸というものでしょう。
すべて技芸というものは、子供のときからはじめなければ大成しない。能や歌舞伎しかり。アマチュアのスポーツだって、子供のときにおぼえた人と大人になってからはじめた人とでは、一目瞭然で「フォーム(型)」に違いがあらわれる。
つまり、「型=基本」などというものは、子供のときにすでに身についてしまう。言い換えれば、子供のときでなければ身につかない。なぜならそれは、「無心」になることよって身につくものだからです。大人のスケベ根性(自意識)でそれを修めようとしても、スケベ根性(自意識)そのものが習得の邪魔になってしまう。
スケベ根性(自意識)だけで武道をやっている人は、次のように言う。
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芸道において、達人の域に達することはきわめて困難である。多くの修行者はその域に及ばぬうちに生涯を終える。しかし、その至芸に達したときのおのれの体感をリアルに想像しえないものは、初心の修行にさえ、長く耐えることはできない。
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ようするに、鈍くさい運動オンチの自分が30年もその修行を続けてこられたのは、鈍くさい運動オンチでも「その至芸に達したときのおのれの体感をリアルに想像」することができていたからだ、と言いたいのでしょう。
しかし「体感をリアルに想像」している内田氏の体の動きがいつまでたっても鈍くさくて、子供は体感などわからないまま、それなりにさまになった「型」を身につけてしまう。
至芸であろうと基本だろうと、「型」とは、「体感」によって得られるものではなく、いわばそれは「空間感覚」なのです。
スケベ根性で「体感」ばかり追いかけているから、いつまでたってもぎこちないのだ。
「体感」などなくなってしまうのが、「至芸」なのだ。
そのとき達人の体は、ひとつの「空間」になっている。
そして子供は、「空間感覚」として、「型」というさまになったフォームを身につける。子供は「体感」など感じられるほど体ができてない。そのとき子供の意識は、「体を動かしている」のではなく、「空間」に遊んでいるのです。
しなやかな体の動きは、「体感」によってではなく、「空間」と関係してゆく意識から生まれる。それは、「寒い」という感覚が、体の感覚か、体のまわりの空気に対する感覚か、という問題です。子供は「空気」だけを感じているし、大人はつい体のことを気にしてしまう。その差が、「型(フォーム)」の習得の差となってあらわれる。
「ナイスショット」に「体感」などないのです。それは、「ミスショット」において、リアルに体験される。
鈍くさい体の動きをしているから「体感」があるのだ。
「体感をリアルの想像しえている」のは、鈍くさいからだの動きしかできないからだ。そして因果なことに、下手の横好きが「体感」にしがみついて長く修行を続ける例は、あきれるほど多い。
続けたけりゃ続ければいいのですけどね、しかしこれだけは言っておく。「体感」なんぞにこだわっているかぎり、おめえなんぞ永久に鈍くさい運動オンチさ、と。
たとえ「体感」なるものがあるとしても、それは体が動いたことの「結果」であって、しなやかに体が動くための「原因=契機」にはなりえない。まず、体が動くための「空間」に気づくこと、そこから体の動きが始まるのだ。「空間」を感じながら体が動いてゆくのだ。そういう「空間感覚」を身につけなければうまくなれない。
体の動きなどというものは、「体」が知っているのであって、「私」が知っているのではない。それが「至芸」というものでしょう。
プロ野球の名監督は、現役時代に二流の選手であっても、戦術眼さえ優れていればなれる。しかし、名コーチは、一流選手でなければなれない。一流選手でなければ知ることのできない感覚というものがあるからです。それは、「体感」なんかじゃない。たいていの場合、こうすれば体は勝手にうまく動いてくれる、という感覚です。たとえば、ちょっとした「視線」の持ち方を修正するだけでその選手の技術が飛躍的に向上したりする。そういうことは、一流選手しか知らない。
つまり、達人の感覚は、達人にしかわからない。そして、因果なことに「体感」にしがみつく鈍くさい運動オンチほど、達人の領域がわかっていると錯覚しやすいものだ、という現実がある。
なぜなら、鈍くさい運動オンチは、「規範=型」という「解答」だけがすべてだと思っていられる人種だからです。
しかし「達人」とは、「解答=型」から逸脱して、「解答」のない問題に分け入ったものにほかならない。