内田樹という迷惑・国家とは幻想であるのか

国家とは幻想である、と言った人がいるが、「日本人」という名称なんてただの記号みたいなものだと僕は思っている。
「日本」という国の名が生まれたのは大化の改新のころ以後のことらしいが、僕としては「縄文時代の日本人」といったってべつだん違和感はない。日本人の歴史は、べつに律令制度からはじまっているのではない。
現代人だろうと縄文人だろうと、日本列島の住民なら「日本人」でしょう。
われわれの人格や感受性のかなりの部分は、「日本列島」の住民であることに規定されている。それは、縄文人だって同じだと思う。時代が違っただけだ。
僕にとって日本列島は、幻想ではなく、実体だ。
僕がこんなふうに考えたり思ったりするのは、日本列島の住民であることにかなりの部分を規定されているが、日本国の国民であることなどたいして関係ない。日本国の国民であるという自覚もあまりない。日本列島の歴史には興味があるが、日本国の歴史なんかどうでもいい。
日本人の歴史は、1万3千年前に日本列島が大陸から切り離されたところからはじまっている。日本人の歴史と日本国の歴史は、別のものだ。
すくなくとも江戸時代以前に、「日本国」を意識していたのは支配階級や富裕な商人たちだけで、庶民にはそんな意識などほとんどなかった。ただ、この狭い島国で暮らしているという意識は、縄文時代から誰の胸の中にもどこかしらで疼いていたにちがいない。
「日本国」なんて、ただの幻想であり、記号だ。僕はたしかに「日本列島」の住民である「日本人」であるが、僕のアイデンティティに「日本国」なんて関係ない。僕の人格もアイデンティティも、日本国の国民であることに依拠してはいない。僕にとっては、「日本列島の住民である」ということのほうがはるかに深く確かな意味がある。
ところが内田氏は、日本という国名が制定されたのは7世紀の養老律令以後のことだから、「縄文時代の日本人」という言い方はおかしいと言う。「違和感」があるのだそうです。
ずいぶん変なことを言う人だと思うが、ようするに彼のアイデンティティは「国家=制度」に依拠したところにあるらしい。
大学教授という身分だって、「国家=制度」によって保証されている。というかこの人は、そのような「制度」や「規範」という枠の中でしかものが考えられない。
たとえば、「女は何を欲望するか?」という著書の中では、男と女という「性」の問題は、「性制度」の問題としてすべて説明がつく、と語っています。
つまり彼は、「性制度」の枠内でしか男と女の問題を考えることができない、ということです。そこから逸脱して考える「想像力」がない、ということです。
「オスとメス」ではなく「男と女」という人間的な「性」は、直立二足歩行をはじめたときからすでに生まれている。その姿勢によって女は、もともと尻の下でむき出しになっていた性器が隠されてしまった。そして四足歩行のときは腹の下に隠されていた男の性器は、外に晒されてしまった。そうやって人類の「性」は、猿のレベルから逸脱し、「男と女」になった。「隠す性」としての」女」、「晒す性」としての男、この関係は、猿の性とは逆立している。人間的な性の観念は、ここからはじまっている。
それは、「性制度」などというものが生まれる何百万年も前からはじまっている問題なのです。
共同体の歴史など、たかだか1万年前後にすぎない。
「女は何を欲望するか?」の中で内田氏が批判しているイリガライやフェッタリーは、じつはこの射程で「男と女」という「性」を考えているのだ。
内田氏の思考だけが、「共同体=制度」の枠内で右往左往している。そんなちんけな思考で世界のフェミニズムを、まるで上から見下ろすような態度で批判しているのだから、とんだお笑い草です。
そりゃあ、「制度」の枠内で語れば「解答」があるのだから楽ですよ。たいていのことが、かんたんに断定してしまえる。想像力の貧困なやつの論理は明快だ。明快なように見えてしまう。答えのないところに踏み込んでゆく想像力がないのだもの、明快に決まっているさ。ようするに、それだけのことだ。
つまりそうやって制度の枠内でしか考えられないくらい彼は、国家を「実体」だと思っている、ということです。「実体」だと思っているから、「縄文時代の日本人」という言い方に違和感を覚えるのでしょう。
でも、見ててごらんなさい。そのうち誰かの受け売りをして「国家とは幻想である」なんて、きっとどこかで言い出すことでしょう。そうして、ナイーブな読者がころっと騙される。だましたやつが勝ちだ、と思っているのが「東大脳」のご立派なところです。
かっこつけて何を言おうと、この人は病的なくらい「国家」を「実体」だと思っている。病的なくらい「制度(規範)」にしがみついてものを言っている。その枠内でしかものを考えられない。その枠内でこの世界を決め付け、他人をたぶらかす。たぶらかすがわもたぶらかされるがわも、ひとまずそれで安心する。それ以上考えなくてもすむのなら、この世界に謎はない。
彼らは、この世界の「謎」を前にしておそれおののくという体験をしたがらない。
彼らは、つねに「正解」という安心を得ている。
そしておろかなわれわれは、「謎」を前にしておののきつづけている。