進取の気性・「時代は変わる」11


日本人が外来文化にすぐ飛びついてゆくのは、内田樹先生が語るように「辺境意識の文化的劣等感で世界標準にキャッチアップしようとしている」とか、そんないじましい目的意識=上昇志向によるのではない。
ただもう、新しくめずらしいものに対する興味を抑えられないからだ。それだけのこと、そういう無邪気な好奇心というか進取の気性が旺盛な民族なのだ。べつに、世界標準という欧米のものだけに興味があるのではない。現在の日本では世界中のエスニック料理が食べられるし、世界中のめずらしいものに飛びついてしまうのだ。
飛鳥時代に遣隋使を派遣したのは、世界標準にキャッチアップしようとしたからではなく、ただもうめずらしい異国の文物に触れたかっただけだろう。そういう無邪気な遠い憧れが日本人の進取の気性という思考や行動の源泉になっている。
日本人は、もともと水平線の向こうに「世界」などというものがあることを知らなかった民族なのである。水平線の向こうは「何もない」と思って縄文時代1万年の歴史を歩んできた。知らないからこそ、それと出会ったときのときめきが、最初から地平線の向こうにほかの世界があると知って警戒したりしてきた歴史の大陸の人々よりも豊かに起きてくるのだ。
「世界標準にキャッチアップしょう」なんて、どうして日本人の伝統をそんないじましいスケベ根性で語らねばならないのか。内田先生は、「こうなったらとことん辺境意識でいこう」とアピールするのだが、そういって内田先生自身のそうしたスケベ根性を正当化しているだけのことではないのか。
日本人に世界標準にキャッチアップしようという伝統意識があるのなら、日本語(やまとことば)などさっさと捨てて、今ごろは中国語になっていることだろう。漢字を崩してひらがなに変えてしまうというようなことはしていない。
韓国はずいぶん長いあいだ漢字だけの社会だったが、今はもう自国だけのハングル文字になっている。
そもそも世界標準などというものがあるのかどうか知らないが、どの民族も、けっきょくは自分たちが歴史によって身体化しているみずからの伝統に沿って生きてゆこうとしている。サモア人はタロイモが好きだし、ドイツ人はライ麦パンが好きだし、日本人は米の飯が好きだ。
言葉とか食い物とか、自分たちの生の基盤を「世界標準にキャッチアップしよう」としている民族など、世界中のどこにもいない。
「世界標準にキャッチアップしよう」なんていじましいスケベ根性は戦後世代のただの病理的な意識にすぎない。戦争に負けた戦後社会は、そういういじましいスケベ根性が旺盛な人間を大量に生みだし、その余韻はいまだに続いている。
内田先生のいうそのメンタリティは、戦後という時代の病理であって、日本列島の住民が身体化している伝統的な意識ではけっしてない。



グローバリズム」などといって、経済をはじめとしていろんなことが一国だけで完結できなくなってきている時代らしい。だから「世界標準」ということが気になるのだろうか。
世界標準のルールというのはあるのだろうが、それは受け入れるものであって、追いかけるものではない。そりゃあ、そういうルールは受け入れるしかないだろう。
しかし、それでも世界中の誰もが、みずからの国の歴史とともに身体化している伝統文化の上にこの生を成り立たせている。
ライフスタイルというのか、言葉とか食い物のようなこの生の基盤は、世界標準にキャッチアップしてゆくことはできないし、そもそもその点において世界標準などというものはない。
そしてこのことは、人の心の「時代」との関係の問題でもある。
日本人の生の基盤は、「時代=世間」を嘆くというかたちで成り立っている。そういう「憂き世」という伝統的な心模様がある。
「憂き世」だから否定するのではない。「憂き世」を嘆きつつ受け入れる。嘆きつつ生きることのカタルシスがある。また、「憂き世」という感慨を持っているからこそ、無邪気に外来文化に飛びついてゆく進取の気性が生まれてくる。
心の中に嘆くということを持っていなければ、ときめきこともない。人は先験的なときめきとか愛というようなものを持っているのではない。嘆きを生きる存在だからこそ、ときめく心を持ったのだ。嘆きの代償作用としてそのような心の動きが生まれてくる。つまり、どんなに頑張ってご立派な愛の思想とやらを積み上げても、心の底に深い嘆きを抱えているほど豊かにときめくことができるわけではない、ということだ。
人間の能動性など、たかが知れている。戦後社会は、人と人が豊かにときめき合う社会をつくることができただろうか。人々は、知性や感性の豊かさを獲得しただろうか。
いつの時代にも、豊かな知性や感性の持ち主は、時代や世界標準とキャッチアップしていないところから生まれてくる。
時代や世界標準は受け入れないと生きられないが、時代や世界標準に踊らされたところからは豊かな知性も感性も育ってこない。



われわれは、時代や世間のなりゆきに合わせて生きている。しかし、この生の基盤は何かということとはまた別の問題だろう。時代が変わっても、誰もがすでに身体化している変わらない歴史の伝統がある。
「時代を受け入れる」ことと「時代にキャッチアップしてゆく」こととは同じではない。
この国の戦後社会は、誰もが身体化しているはずの歴史の伝統を振り捨てて、時代とキャッチアップしてゆこうとした。つまり、自分の中に身体化しているものにしたがって生きるのではなく、能動的に時代にキャッチアップしてゆくことが善だとされた。能動的に生きるということ、そういう「上昇志向=作為性」を善とする思想が社会を覆っていった。
「能動性」とか「主体性」というような言葉が世界標準として人間を語る上でのキーワードだともてはやされていた。戦後世代にとっての「自分=主体」は、能動的につくってゆくものであって、身体化された伝統として「すでにある」ものではなかった。
伝統を身体化することは、能動的なことでも主体的なことでもない。最初から身体にまとわりついていることであり、むしろ受動的非主体的に身についているのだ。
言いかえれば、能動性や主体性では伝統は身に付かない。それはむしろ、能動性や主体性を忘れたところで「すでにある」と気づかされることである。
能動性という上昇志向と、主体性という自意識、戦後は、それが人間性を豊かにし人間を幸せにする、と信じられていた。戦後世代は、そうやって上昇志向をかき立てながら伝統を振り捨てていった。
つまり、内田先生のいう「世界標準(=時代)にキャッチアップしようとする」態度であり、それは、かんたんに時代に踊らされている態度でもある。
自分、すなわち能動性=主体性を持っていないからかんたんに時代に踊らされてしまうのではない。逆なのだ。その「自分」という能動性=主体性に執着しているから踊らされてしまうのであり、そうやって主体的能動的に生きてきたということ自体が、時代に踊らされて生きてきた、ということなのだ。
団塊世代ほど主体的能動的で時代に踊らされやすい人たちもいない。またそれは、バブル期に青春時代を送った現在の40代の傾向でもある。彼らは、「世界標準にキャッチアップしようとする」上昇志向がとても強い。



現在は、上昇志向を持とうとしても、なかなか先が見えにくくなっている時代であるらしい。もう、上昇志向をたぎらせて生きることができたバブルの時代のようなわけにはいかない。なまじそんなバブルの時代を体験したからこそ、現在の閉塞感が募ってくる。
しかし、もともと日本人は、上昇志向が強い民族ではない。どんな社会どんな時代にもそういう人の一定数はいるものだが、それが日本列島の伝統的なメンタリティというわけではない。日本人がかんたんに外来文化に飛びついてゆく好奇心というか進取の気性は、上昇志向とはちょっと違う。そういう主体性能動性を持っていないからこそ、新しく珍しいものにときめいてゆく。日本列島の住民は、世界標準にキャッチアップして生き延びようとしてきたのではなく、生き延びようとすることなど忘れた「今ここ」しか知らない心で、無邪気に無防備に遠いものにあこがれていっただけである。そこのところは、同じようで同じではない。これは、人の心はどのように活性化するか、どのように知性や感性は活性化するかという問題でもある。
敵がいるから、生き延びようとする。しかし海に囲まれた日本列島の歴史のはじめにおいては、敵などというものの存在を知らないというか思わなかった。したがって、生き延びようとすることも世界標準にキャッチアップしようとすることも発想しないまま歴史を歩んできた。しかしだからこそ、新しいものや珍しいものに対する進取の気性が豊かに起きてくるのだ。
上昇志向をたぎらせていることが知性や感性が活性化していることなのか。他者や世界に豊かに反応することは、他者や世界を知らない心において起きる。すでに知っていてキャッチアップしてゆこうというのは、何も反応していないのと同じである。知らないからこそ、その出会いにときめくのだ。
日本列島の歴史は、世界標準にキャッチアップしようとしながら流れてきたのではない。まず、海に囲まれた孤島での世界標準などというものを知らない縄文時代という歴史が1万年続き、そこにおいて現在まで続く日本人のメンタリティの基礎がつくられた。



林真理子の『野心のすすめ』という本が売れているらしい。
それは、もう死ぬまで主体的能動的な上昇志向で頑張って生きてゆくしかない、と追い詰められている人たちがたくさんいて、そういうとくに40代のバブル世代の女たちがもうひと頑張りするためのバイブルになっている、ということだろうか。
いったん身にしみついてしまった人の性根というのは、そうかんたんにぬぐえるものではない。主体的能動的などといっても、その性向は、時代や生まれ育った環境によって植え付けられてしまったものである。人の性根というのは、主体的能動的にどうこうできるものではない。自分でつくったものではないし、自分で変更することもできない。自分は自分でしかない。自分は、最初からあるものであって、あとから主体的能動的つくることができるものではない。
自分なんか、上昇志向で主体的能動的につくりあげられるものではない。あれこれどんなに気取って見せても、その人の性根は透けてしまっている。
とにかく、戦後という時代とともに上昇志向を紡いで生きてきた人たちはもう、上昇志向で生きることが困難な時代になっても、いまさらその生き方をやめることはできない。そういう時代の生きる手引きとして、『野心のすすめ』という安直な上昇志向賛歌の本が売れているのかもしれない。
上昇志向で生きたバブル期の狂騒やルンルン気分が忘れられない人たちがまだまだたくさんいる。『あまちゃん』というNHKのドラマは、現在のそういう気分とうまくキャッチアップしたのだろうか。『野心のすすめ』のコンセプトと同じである。
バブルの時代が終わって今はもう野放図に上昇志向をたぎらせながらルンルン気分で生きることが困難になってきている。そんな気分で生きていられるのは、ほんの一握りの人たちだけだろう。多くの人が、その上昇志向の向け先を見失っている。そういう「閉塞感」が蔓延しているらしい。『野心のすすめ』や『あまちゃん』は、そういう「閉塞感」をいっとき解放してくれた。
なんのかのといっても、じつは多くの人がバブル時代を懐かしがっているということが『野心のすすめ』や『あまちゃん』によって浮かび上がった。



人間は、上昇志向を持たないと生きられないのだろうか。上昇志向こそが人間の人間たるゆえんだろうか。それによって文化や文明が発達してきたのだろうか。
上昇志向や能動性や主体性が人の知性や感性を活性化させるのだろうか。
たぶん、そういうことではないのだ。知性や感性は、自分の中のすでに身体化してあるものよって活性化する。そしてそれは、残念なことに決して平等ではない。残念だが、しょうがないのだ。
みんなが「すでに身体化してあるもの」を忘れて上昇志向だけで競い合えるのなら「平等」であるのかもしれない。そのようなところでは、上昇志向の強さが勝敗の分かれ目になる。それはきっとわかりやすい競争だろう。
しかし、学問や芸術や芸能・スポーツの世界では、すでに身体化してある「才能」というもので差がつく。残酷だが、才能がないものがどんなに頑張っても駄目なのだ。
同様に、その人が魅力的な人間かどうかということだって、その人がすでに身体化してあるものがあらわれたところで評価されている。ここでも、けっして平等ではない。頑張れば魅力的なれるというものではないし、頑張っているから魅力的だというわけでもない。
頑張っているだけで魅力的だと評価してもらえる時代は、すでに終わりつつある。すでに終わりつつあるから、その流れを押し戻そうとする動きも起きてくる。
むやみに頑張るなんてあさましい、そういう騒々しさはごめんだ……と思っている人たちも今やたくさんいる。
現在は、ルンルン気分でもうひと騒ぎしたい人もいれば、たがいの身体化してあるものに気づき合いまったりとときめき合って生きてゆこうとしている人たちもいる。それが、東京に行くより地元でまったりしていたほうがいいという「ジモピー」と呼ばれる人たちの気分だろう。ユニクロやコンビニ弁当でけっこうという若者たちも、まあそのようにして人間の中にすでに身体化してあるものに気づきはじめているのだろう。
しかし、そんな人たちばかりになれば世の中は停滞してしまうのだろうか。たぶんそうではない。より高度な知性や感性はそこから生まれ育ってくるのであり、より豊かな人と人の関係もそこにおいて見直されてくる。
人間はもともとじっとしていられない存在であり、そこにおいて新しい活力や才能が生まれてくるというだけのことだろう。
遣隋使や明治維新の進取の気性は、必ずしも「世界標準にキャッチアップしよう」とする上昇志向ではなかった。そこに、やみがたい「未知」に対する好奇心探究心があった。そのとき人々は、何もわからないままその「未知の世界」に飛び込んでいったのであって、世界標準だとわかっていたのではない。
世界標準だと思えば、それをそのまま模倣する。しかしいつだってこの国では、それを、みずからの「すでに身体化してある知性や感性」=「伝統」で濾過していった。そうやって濾過してゆく能力を持っていたから、なんでもかんでも受け入れ吸収してゆくことができた。
その能力において日本列島の伝統は、中国や朝鮮半島よりも一歩先んじているし、おそらく欧米と互角に渡り合うことができる。世界標準とキャッチアップしようとしたり世界標準をつくろうとする上昇志向で中国や朝鮮半島ユダヤ人と争っても、おそらくわれわれは勝てない。
知性や感性や人間としての魅力をどのていど身体化しているかということはもう、人によって差がある。それはもうしょうがないことだ。しかしそれはまた、山の手には山の手の知性や感性や人間としての魅力があり、下町には下町の知性や感性や人間としての魅力がある、ということでもあるのだろう。
まあ、人それぞれに、すでに身体化している知性や感性や人間としての魅力があるということだろう。そしてそれを能動的に自覚してゆくことはかんたんではないが、たがいに他者としてそれに気づき合っていれば、人と人の関係も活性化してゆくことだろう。
誰も自分に気づくことなんかできないが、自分のことに気づいてくれる他者がいる。そうやって人間の社会が成り立っているのだろう。
自分をプレゼンテーションしないと誰も自分気づいてくれないなんて、あまり健全な人間社会だとは思えない。もともと人間は、他者の存在に豊かに気づいてゆく存在なのだ。
誰もが豊かに他者の存在に気づき合っているのなら、上昇志向などかき立てなくても社会は活性化する。
この国の現在が、自分をプレゼンテーションしながら上昇志向をかき立てないと生きてゆけない社会であるとすれば、それは他者の存在に気づくという知性や感性が鈍磨してしまっている社会であることを意味する。
まあ時代がそういうことであるのならそれはそれでしょうがないのだが、それが人間の本性でもこの国の伝統でもないということはいえそうな気がする。
そういう時代の様相から外れた彼らがまったりしているからといって、まったりしていられるということはそれだけ豊かに他者の存在に気づき合っているということなのだ。そしてそういうところから次の時代の新しい文化が生まれてくる可能性がないとはいえない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。
人気ブログランキングへ