内田樹という迷惑・現代人の知性

内田氏によれば、「現代の日本人は、知的であることを否定し、罪悪であるかのようにみなしている」のだそうです。だから、内田氏のような教育者のつとめは、「知的であることは悪いことじゃないんだよ」と教えてあげることにあるという。
何様のつもりでいやがる。われわれは、あなたが知性的な人間であるとは認めていない。あなたごときが教授できる「知性」など、たかが知れている。
僕は、知識もろくにないただの庶民だが、内田さん、あなたはほんとうに僕よりも知的な人間であると胸を張っていえる自信がありますか。あなたが大学教授で、たくさんの読者のいる人気作家であるということを根拠に僕よりも知的だといってきても、それはほんとうの意味での説得力にはなりませんよ。そんなことを根拠にしなければみずからの知性を立証できないなんて、みっともないですよ。そんなことを根拠にしなければならないくらい、あなたは知性的じゃないのですよ。
ほんとに知性的だったら、そういう社会的な立場やレッテルをいっさいはぎ取った、人間としての存在そのものにおいて、それを指し示すことができなければならない。あなたの、なにげないその身振りや言葉に、知性の輝きがあるか。
なあんもない。僕は、なあんも感じない。
自分は知性的な立場の知性的な人間であると自慢ばかりしているそのさもしい態度は、なんにも知性的じゃないですよ。
このブログにときどきコメントを寄せてくれる「都市に棲む山姥」というハンドルネームの人は、やまとことばに関してはあなたよりもはるかに深い知識と教養をそなえた人らしいが、やまとことばのことを考えていると「なんだか文盲になりそうです」といった。
この発言の意味が、内田さん、あなたにわかりますか、知性とは、知性を解体してゆくことなのですよ。すでに知性的である人間は、すでに知性的であるがゆえに、もはや知性的になることができない。そのとき知性は、みずからの知性を解体するというかたちでしか機能することができない。
あなたのように知性を振りかざすことのできる人間は、まだ知性的じゃないのですよ。大金持ちは、いまさら金を持っていることを自慢しないでしょう。それと同じです。あなたのように成り上がりの半端な知的人間予備軍が、そうやって知性を自慢するのですよ。
ほんものの知性的な人間とは、心の底から「自分はなんと愚かな人間であるのだろう」と思ったことのある人をいうのですよ。あなたのように「私は自分の知性に客観的な判断を下せるていどには知性的な人間です」という意図を隠し持ちながら「私はばかな人間です」とほざいているうちは、まだ知性的じゃないのですよ。
そういう意図を隠し持っている、と「女は何を欲望するか?」の中でみずから告白しているじゃないですか。そういうスケベ根性を告白しているじゃないですか。どんなかたちにせよ、自分を知的な人間であると思えることじたい、半端な知性しか持っていないことの証しなのですよ。
ほんとに清らかな人は、自分の清らかさに気づいていない。そういう人と出会うと、ああ俺はなんと不細工なんだろうと、地面に頭をこすりつけたくなる。
ほんとに知性的な人は、自分の知性に気づいていない。
地面に頭をこすりつけたくなるぶんだけ、あなたよりは僕のほうがましかもしれない。
あなたはほんとに、僕の前で僕よりも知性的だと自慢しうぬぼれることができる自信がありますか。自慢するということ、うぬぼれるということ、それじたいがただの虚勢だとしか僕は認めないですよ。
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あなたは、自分の娘に「援助交際」をしてはいけないといっていたという。いってもいいけど、それは、あなたの思想や哲学のレベルの低さを証明しているのですよ。
「未来」という時間は存在しない。「他者」は根源的に異質で不可知な存在である。こんなことは、哲学や思想の常識でしょう。あなたはこのことを知識としてわきまえているだけで、体ごとの認識にはいたっていない。だからそんなことを、何の後ろめたさもなく平然といえる。
われわれには、「悔いる」ことはできても、「悔い改める」未来の時間は与えられていない。そのことを深く思い知ったなら、そんなことはいえなくなってしまう。他者は説得不能な異質な存在であるのだから、あなたがそんなことをいっても、娘はしてしまうかもしれない。そしてそれをしてしまったら、もう取り返しがつかないのか。してはいけない、ということは、取り返しがつかないといっているのと同じなのですよ。そうやって娘を追いつめてしまう権利が、あなたにはあるのか。
それが正しいことか間違っていることかを判断する能力があると思っているそのうぬぼれが、知性的じゃないのですよ。
僕は、人間がしてしまう行為に、正しいか間違っているかを判断することはできないと思っている。それは、「悔い改める」未来という時間は存在せず、他者を説得することは不可能だと思うからです。説得しようとすることは卑しいことだと思うからです。
援助交際してもいいかどうかなんてわからない。それによってその人が何を失い、何を得るかということなど、僕にはわからない。それが不純で卑しい行為だとも思っていない。なぜなら、現にそれをしている人がいるからです。だったらもう、それは肯定するしかない。それを、取り返しのつかない悪いことにしてしまう権利は誰にもない。また当人にも、悔い改める「未来」という時間が与えられているかどうかはわからない。明日死ぬかもしれない。
いってもいいけど、哲学的思想的なレベルの低いやつが、「してはいけない」といえるのです。
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子供たちの学力が低下しているのも、巷にばかなギャルがわんさかあふれているのも、大人たちが「拝金主義」に陥っているのも、すべては、この国の現代社会は知性の解体化の過程に差し掛かっている、ということを意味するのではないだろうか。
そういう風潮を幼児化白痴化の現象であると分析するのは、思想哲学のレベルが低いからだ。そんな安直でステレオタイプな物言いですむ問題ではない。
それは、知性が「善」であるかのような思潮がはびこりすぎたことの反動であり、自分が知性的であるかのようにうぬぼれている卑しく半端な人間がうんざりするくらいはびこっている社会が引き受けるしかない十字架のようなものかもしれない。
つまり、内田氏のような半端な「プチ・インテリ」の存在こそが、そういう現象を生んでいるのだということです。
プチ・インテリは、プチ・インテリどうし共感し合うことができる。だから、内田氏の本が売れる。しかし、僕のようなおばかな人間をプチ・インテリの仲間に引きずり込むことはついにできない。うんざりして、誰がおめえみたいなくだらないやつになるものか、と思ってしまう。ばかギャルだって、内田氏をはじめとするそういう意地汚く小ざかしい大人たちたちに対して、誰がおめえみたいになるものか、と思っているはずですよ。
またこの国は、知性を解体して即自的なレベルの「感慨」から言葉を発しようとする「やまとことば」の伝統が地下水脈として流れている。
われわれの思想的な課題はそのこと、つまり知性の解体過程を問い直すことにあるのであって、内田樹とかいううぬぼれの強いプチ・インテリの大学教授から「教化」されることではない。
内田氏ごときから「教化」されることは、みずからの知的レベルを下げることだと思っている。
僕の知性は、援助交際しているばかギャルと同じレベルだが、思想も哲学も、内田氏には負けない。