内田樹という迷惑・あきはばら14

日本人は、幼児化白痴化している・・・・・・そういうことはかなり前からよく言われるようになってきている。
それは、内田氏のように「自分だけは違う」「自分は知的な人間である」と思っている人がたくさんいるということを意味する。そういう人たちから見れば、幼児化白痴化している、ということになるのでしょう。そういう人たちが、そう言っているのだ。そしてそういう人たちが一群をなして内田人気を支えている。
内田氏も村上龍氏も、大衆を侮蔑するような書き方をしながら、大衆から大いに人気を博している。みんなが「自分だけは違う」と思い、その思いを両氏が代弁してくれているからでしょう。
僕は、「自分だけは違う」なんて思っていない。自分も大して違わない、と思っている。いや、みんなよりもっと幼児化白痴化した存在かもしれない、とさえ思っている。
だから、内田氏や村上氏のえらそげな書きざまは、反吐が出そうなほど気味悪い。知的に、垢抜けないなあ、とも思う。
知性は、知性そのものを解体してゆこうとするはたらきをもっている。内田氏や村上氏はそれを否定するが、僕はそれを肯定する。それこそが知性の最終的な過程だと思う。ただ現代の子供や若者たちは、解体しながら成長(構築)してゆかねばならない。そんなふうに追いつめているのは、いったい誰なのだ。内田氏や村上氏をはじめとする大人たちの、「自分だけは違う」というその態度ではないのか。
現代社会には、「自分だけは違う」と思っている人間がたくさんいて、じつはそういう大人たちがうんざりするくらい醜く見えてしまうから、若者がそこから追いつめられて幼児化白痴化してゆくのではないだろうか。
そして「自分だけは違う」と思っている大人たちもまた、「自分だけは違う」と思っているからつい自分を許して無防備になってしまう。
内田氏は、自分をゲスな人間だとは思っていないでしょう。自分だけは正しく清らかな人間だと思っている。正しく清らか人間ではありませんと言えるくらいに正しく清らかな人間であると思っている。そうしてつい無防備になって、とめどもなく自慢話を垂れ流してしまう。
まったく、内田氏の自慢話には節度というものがない。それは「自分だけは違う」と思っているからでしょう。
内田氏は、拝金主義に走る世間の大人たちと自分は「違う」と思っているらしいが、違わないって。みんな「自分だけは違う」というお墨付きを思い込みとして持っているから、節度がなくなってしまうのだ。
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三者から見ればそういう「スキ」が丸見えだから、内田氏や村上氏の大衆侮蔑の語法が受ける。現代人は、「自分だけは違う」という思い込みを許し合っている。他人の「スキ」を見逃さないことによって、「自分だけは違う」という思い込みを強くする。そして、「自分だけは違う」と思っているから、不用意に「スキ」をつくってしまう。この循環構造こそ、現代社会の病理なのだ。
内田さん、村上さん、あなたたちこそ、病原菌なのだ。
世の中の人格者といわれている人たちが、いざとなったらどんなに卑劣なことを平気でするかということを、僕だって何度も見てきた。彼らは、「自分だけは違う」というお墨付きを思い込みとして持っているから、なんだってできてしまうし、「スキ」だらけなのだ。そこに、本質がある。「自分だけは知性的である」という思い込みだって同じさ。
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内田ブログで「イカフライ」氏を攻撃していた内田シンパたちのコメントも、第三者から見れば、ほんとに気味悪いくらい卑劣で幼稚なものばかりだった。「自分だけは違う」と思っているから、そうやってみずからの卑劣さや幼稚さを晒してしまうことに無防備になってしまうのでしょう。
そういう「自分だけは違う」という自意識がことに強い人たちが内田シンパになっているらしい。
ほんとに内田氏の言説が正しく清らかであり、正しく清らかである人たちがシンパになっているのであれば、あそこまでコメント欄が荒れることもなかったでしょう。
イカフライ」氏が荒らしたというより、内田シンパの人たちの卑劣で幼稚な攻撃が荒らしてしまったのです。彼らは、「反論」する能力がないから「攻撃(罵倒)」ばかりしていた。
どうしてあんなにも無防備に自分の卑劣さや愚かさをさらけ出せるのだろう、と第三者はみな首をひねっていたに違いない。
イカフライ」氏が20行のコメントを入れてきたのなら、なぜ30行の反論をしたり問い返すということができないのか。そういうことをしていたら、もっと充実して、管理人である内田氏に閉鎖されるということもなかったにちがいない。
内田氏だって、自分のシンパの品性のなさをさらけ出すばかりなのだもの、そりゃあ閉鎖したくもなるでしょう。
けっきょく内田人気は、「自分だけは違う」という自意識の共有の上に成り立っている。
内田氏や村上龍氏の書くものは、自分だけは知性を備えた人間である、という安心を与えてくれる。
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僕のことを、社会的な地位があって幸せな家族をいとなんでいる人間だとコメントしてきた人がいる。
だからおまえなんぞに「加藤」の気持の何がわかる、というわけです。
しかし、もしかしたら僕は、新宿のホームレスかもしれないですよ。いちおうそれでもつじつまの合うような書き方はしているつもりです。
そしてそういう視点には、社会的地位のある人だろうとブルジョアのお姫さまだろうと、立てる人は立てる。身分なんか関係ない。
だから、あまりプライベートな日記は語りたくない。恥ずかしいことしかないし。
問題は、僕の書くことが、「そうだ」と思ってもらえるか「違うだろ」と思われるか、それだけです。身分や私生活なんかどうでもいい。
内田氏は、結婚して子育てをするのが人間であることの資格のような言い方をするが、いまや、若い層では、半分もそんな人はいないのですよ。そして結婚しても、3分の1が離婚してしまう。
誰だって思い通りには生きられないし、思い通りに生きられなければ、悩みもすれば苦しみもするでしょう。
「だから私が後悔しない生き方を伝授しよう」だって?笑わせるんじゃない。そんなもの、後悔を見て見ぬふりをしているだけじゃないか。思いきり後悔している人のほうが人間としてずっと誠実だし、そこからしか得られない浄化作用(カタルシス)や快楽もある。
誰にだって、心の闇や地獄はある。
たったひとつの失恋や失敗で生涯を棒に振ってしまった人はいくらでもいる。
僕は、そういう人たちが、何を見ているのだろう、といつも考えている。彼らを生きさせているカタルシスや快楽とはどんなものだろう、と気になって仕方がない。
人間を生きさせている人間性の構造とは、どんなものだろうか。
よい社会をつくるとか、幸せになる方法なんかどうでもいい。そういう闇や地獄と向き合いつつ、人生を味わい尽くしている人を僕は尊敬する。
ブルジョアのお姫さまにだって、心の闇や地獄はあるのだ。
また、若いころのたった1回の失恋で、それ以後「やらせ女」の生涯を送ってしまった人もいる。
僕は、彼女をかわいそうだとも、そういう人生が間違っているとも思わない。彼女は、清く正しく幸せなプチ・ブルである内田氏よりも、ずっとたくさんの素敵なものを持っている。彼女の人生は、内田氏の説く幸せな人生よりも、ずっと清らかで、純潔だ。たぶん、内田氏その人よりも。
若いころからおばさんばかり相手にして、とうとう結婚できないまま40歳を過ぎてしまった男もいる。
そういう人たちに寄り添って、ものを考えたい。
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誰だって、人生の心の闇や地獄を抱えている。
別の言い方をすれば、「もののあはれ」を知りたい。願わくば、知ることのできる人間になりたい。誰にだって、生きてあることのせつなさや戸惑いや幻滅はあるでしょう。そういうことを感じる心の動きを、すなわちすべてを肯定して人生を味わい尽くしてゆくことを、「もののあはれを知る」という。
もちろん「幸せ」や「愛」がどうちゃらこうちゃらとわめきつつ自分だけは正しく清らかで知的な人間であると自慢ばかりしている内田氏の書くものに、そんな情趣や感慨など何もない。読んでいて不愉快になるばかりです。こんなにひどい書きざまもない、と思う。それでも、「もののあはれ」のかけらもない駄文ばかりだからこそ、反面教師にはなる。その愚劣な書きざまが、僕を「もののあはれ」の世界に追い立てる。内田氏の言説の向こうにそびえている「近代」という巨大で独善的な神話が、僕を追い立てる。
内田氏ほど「近代合理主義」の誤謬を顕著に体現している書き手も、そうそういないと思う。
まったく不愉快なのだけれど、内田氏の著作を読みながら僕は、歴史と向き合っている。
われわれの時代が、次の世代に残せるものなど何もない。われわれには「ポストモダン」はイメージできない。われわれにできることは、地に伏してみずからを否定することだけだ。われわれがみずからの時代を屠り去ることができたとき、はじめて「ポストモダン」があらわれる。われわれのつとめは、「ポストモダン」をイメージすることではない。未来のことなど、どうでもいい。われわれの時代を屠り去ることだ。
夢は叶う、だって?冗談じゃない。未来の自分は、未来の自分に託すしかないのだ。同じように、未来の時代は未来の時代に託すしかない。先取りしてイメージしようなんて、未来の人々にとってはよけいなお世話だし、われわれにできることでもないのだ。
つまりさ、「今ここ」をせいいっぱい生きるしかないんじゃないの。「今ここ」を味わい尽くすことを「快楽」というのだ。
内田氏を批判することは、時代の誤謬を告発することだ。
ことに日本列島の住民なら、誰の中にも「ものあはれ」を感じる心の動きはあるでしょう。そういう感慨をわれわれは共有している、とどこかで僕は信じているのかもしれない。
「自分だけは違う」と思うより、秋葉原で事件を起こしたあの若者のように「自分なんか最低だ」と思っていたほうが、ずっと人間として誠実な態度だと思う。そういう嘆きこそ、「もののあはれを知る」という態度だと思う。
そしてそれは、彼だけの感慨ではない。
現代人が「鬱」になりやすいのも、自分のことを「鬱」だと言いたがる人が増えてきているのも、歴史の深みから「もののあはれを知る」という水脈が湧き出してきている現象ではないかと思えます。