内田樹という迷惑・なげき

このごろ、内田批判の態度を変えていかなきゃ、と思い始めています。
今までは内田氏の言説に対する悲鳴のような自分の反応を中心に書いてきただけだったが、これからはもっと鮮明に内田氏とは違う自分の思想の態度を表現することを試みてゆかないといけないのではないか、と思い始めています。
いつまでも勝手にののしってばかりじゃ芸がない。
その取っ掛かりとして、内田氏が「人間の本性は<労働>することにある」というのなら、自分はそれを「遊び」に見出していこう、と決めました。
とりあえず、ここしばらくの主旋律はこのことです。
かんたんなことじゃないけど、このことさえちゃんと書ければ、内田批判を卒業できるのかもしれない。
内田氏に対抗できるページにしたい。
行きつ戻りつの書きざまになってしまうけど、まあそういう心づもりです。
山姥さんに教えてもらった「やまとことば」のことが足がかりです。山姥さん、どうかときどきはこのページを開いてみてください。
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ある雑誌の広告に、「大鬱時代」という言葉がありました。現代は、誰もが心の中に「鬱」を抱えている、ということでしょうか。
「鬱」とは、心が深く沈んで停滞してしまうこと。
人間の心はもともと動いてゆくものなのに、それが動かなくなってしまうこと。
では、動いてゆくためには楽しくなればいいかといえば、それでは処方箋にならないのではないかと思う。
楽しいことは、そのうち消えてしまう。楽しいことが続くことはない。やがては、飽きる。だから、また次の楽しさを見つけてゆかないといけない。楽しさと楽しさのあいだに「鬱」が生じる。そうしてそれがだんだん大きくなってゆく。
楽しさは、動いてゆく心にはならない。それじたい、心の動きをせき止める機能になってしまっている。
楽しさとの追っかけごっこ。それを繰り返しながら、しだいに「鬱」の闇が広く深く濃くなってゆく。
誰かが「人間なんて滅びてしまえ」と言った。そういう「嘆き」は、手離さないほうがいいと思う。そういう通奏低音こそが、心の動きなのだ。
生きるといういとなみは、腹が減るとか、息苦しくなるとか、体が疲れるとか、痛いとか痒いとか、そういう「嘆き」とともに動いていっている。そういう嘆きをそのつど消してゆくのが生きるいとなみであり、そういういとなみとともに心が動いてゆく。
「嘆き」こそが、生きるいとなみの通奏低音なのだ。
それを、やまとことばでは「もののあわれ」という。
古代人は、そういう「嘆き」とともに生きていた。そうしてわれわれ現代人はそれを否定して「楽しさ」を追いかけつづけている。追いかけつづけながら、「鬱」という心の闇が広がり濃くなってゆく。
鬱とは、楽しさの裂け目なのだ。
鬱になって、人間らしい「情感」を失ってゆく。
そうして、えげつない「クレーマー」になる。
「人間なんて滅びてしまえ」と言った人の「人間との関係を絶ってしまったイカ人間」という言葉は、ようするに、人間らしい「情感」を失ってしまっている、ということだろうと思う。
「人間なんて滅びてしまえ」という「嘆き」は、ひとつの「情感」なのだ。
泣いて泣いて泣き疲れたら、さっぱりと体が軽くなったような心地になる。
それに対して、泣けないほどに心が深く沈んで停滞してしまうことを、「鬱」という。
それは、楽しさの反復を追い求めてきたことの結果なのだ。したがって「楽しさ」は、「鬱」の処方箋にはなりえない。「楽しさ」それじたいが、「鬱」を引き起こしたのだ。
「嘆き」は、心の低いところを流れる通奏低音である。「鬱」のすぐそばで静かに絶え間なく流れている。処方箋は、あんがいそんなところにあるのかもしれない。
体の中をさらさらと清らかな水が流れている・・・・・・女のオルガスムスや泣き疲れたあとにやって来るのは、そんな心地だろうか。
女は、そんな体験をしてしまうから、男にだまされたりもするのだ。だから僕のようなつまらない男でも、(そのうち捨てられるにせよ)たまには女をつかまえることができたりもする。世の中は、うまくできている。
男には、そんな体験がない。
女がそんな体験をできるのは、毎月の「けがれ」の期間を持っているからだろう。そういう受難の代償として、清らかさの体験をする。
それが、「嘆き」という通奏低音になっている。
「嘆き=もののあわれ」・・・・・・古代の日本列島の文化は、女の感性(世界観)の上に成り立っている。神道だって、そういうところから生まれてきた。
神道は、情感の宗教なのだ、と思う。
しかしだからといって、内田氏のように親子の情愛だとか先祖をうやまうとか、そんな陳腐なことを、僕はいいたいのではない。「青い空が目にしみる」ということ、それじたいが神との出会いであり、神道通奏低音としてのコンセプトなのだ、と思う。
そういう「情感」を失ったときに、われわれは「クレーマー」になり、「鬱」になる。