内田樹という迷惑・滅びてしまえ

「人間など滅びてしまえ」というコメントと出会うと、どきっとしてしまう。
うん、たしかにそうかもしれないよね・・・・・・とどこかで自分がうなずいてしまっている。
そのコメントのような気分がかけらもない幸せな人やご立派な人は、われわれからすると、うらやましいし、かえって気味悪いとも思う。
「人間など滅びてしまえ」という気分。僕のように歳をとった人間の頭の中では、それは小さな嵐に過ぎないが、若い人がいったんそんな気分に浸されてしまったら、ときにすさまじい雨風が吹き荒れることにもなるのだろう。
「たまんないよ、何もかもくだらないじゃいか、不気味じゃないか、いいかげんやめてくれよ。人間の歴史なんて、そろそろもう終わりにしてもいいんじゃないの」
そういう頭の中の嵐を、あなたは否定しますか。
僕の頭の中で小さな嵐ですんでいるのは、もともと少々鈍感だからかもしれない。歳をとっていることを言い訳にしちゃいけないですよね。
「鈍感力」なんてことを言っている人もいるが、あんなものくだらない。鈍感になって生き延びようなんて、考えることがあさましすぎる。そうやって鈍感な大人たちの居直りに加担するようにして本が売れているのですかね。大人たちがそういう鈍感な自分を正当化するには、うってつけの本かもしれない。
しかしねえ、人はたぶん、今の自分以上に敏感になることも鈍感になることもできないのではないでしょうか。「鈍感力」を読んだからといって、今以上に鈍感になれるものでもない。いやなことはいやだし、腹の立つことがそう都合よく消えてくれるわけでもない。また、くだらないことに面白がってしまう他愛ない自分もなくならないでしょう。
意識とは、世界に対する反応である。
誰だって、「自分」の能力の範疇で「反応」して生きてゆくしかないのだ。
「自分」以上にも以下にもなれない。
そんなかんたんに「鈍感」になれるものか。
そんなかんたんに「敏感」になれるものか。
生き延びられないくらい敏感なのにそれでもまだ生きている人は、尊敬に値する。そういう人こそ、この生をもっとも深く豊かに味わい尽くしている。
「人間なんて滅びてしまえ」という反応によって、人間が滅びるのではない。たぶん、平気で生き延びようとする「鈍感さ」によって滅びるのだ。なぜなら、前者はそう反応してしまうほどにこの生を味わい尽くしているし、後者はそれができずにこの生をかえって愚弄してしまっている。