内田樹という迷惑・まつる

正月をはじめとする神道のお祭りは、神と出会う行事です。
「奉(たてまつ)る」とは、神に対する態度のことです。
着物の裾を縫うことを「まつる」という。それによって、着物が完成する。つまり、世界が完結する。
古代の大和朝廷は、朝廷に服しない東北の熊襲のことを「まつろわぬ者たち」と言った。世界が完結することに同意しない者たち、という意味らしい。
「まつる」とは、世界が完結すること。
「まつり」とは、神と出会って世界が完結していることを祝福する行事のことです。
人間どうしが仲良くすればそれで世界が完結しているのではない。神と出会うことによって、世界は完結するのだ。
いなくなった人を恋しがることによって世界は完結するのではない。もういない、と深く納得することによって完結するのだ。
今ここのこの世界の外には何もない、と思うことによって世界は完結する。それが、神と出会っている、という心の動きである。
この世界は、無限の何もない「空間」に包摂されてある。
西洋のように、この世界の外に神が存在すると思うことは、いなくなった人を恋しがる態度です。
それに対して日本列島では、今ここで神と出会っている、と認識する。だから、今ここの外には、何もない。
いなくなった人は、「もういない」のです。だから、恋しいと思うことすらできない。
「異邦人」の主人公ムルソーは、「ママンの死を悲しむ権利は誰にもない」と言った。
それは、西洋人として神の存在を否定する認識であると同時に、はからずも日本的な「神と出会っている」という心の動きでもある。
今ここの外にいる、となんか思っちゃいけない。今ここにいないのであれば、「いない」のだ。今ここの心の中の母を思うことと、母がこの世界の外にいると思うこととは、またべつのことだ。母がこの世界の外にいる、となんか思っちゃいけない。悲しいのは、母が今ここの外の世界にいると思うからだ。今ここのこの世界の外には、「なにもない」のだ・・・・・・とカミユは言っている。
カミユの「シジフォスの神話」は、神道的な哲学である。だから、ヨーロッパでの評価がいまいち低い。
「忘れる」という心の動きは、神と出会っている体験でもある。
何かに熱中してほかのことを忘れてしまう。それは神と出会っている体験であり、そういう体験を「祭り=遊び」という。
日本列島の住民は、忘れっぽい。