内田樹という迷惑・返信とネアンデルタールのこと

ビヨークはネアンデルタールの末裔であるだなんて、言われてみれば、まったくそうだなあと思ってしまいます。
氷河期の北ヨーロッパを生きたネアンデルタールの女は、たぶんあんな顔をしていたはずです。
ダンサー・イン・ザ・ダーク」という映画のビヨークが演じた主人公が絞首台に向かうときに思いきり怖がった態度と、断頭台に上るマリー・アントワネットが付き添う役人の足を踏んでしまって平然と「ごめんあそばせ」と言った態度との対比を考えたことがあります。
世間の人は、その後者の態度を「王女の誇りと優雅さ」などというが、あんなもの、ただ恐怖のあまり半分気絶してしまっていただけのことだ、と僕は思う。恐怖そのものを味わい尽くすだけの感性を持っていなかっただけのことだ。
現代人だって、多くの人びとがマリー・アントワネットに負けないくらいの優雅で快適な暮らしをするようになって、そういう「嘆き」を味わい尽くす感性が麻痺してしまっている。
だから森山直太朗は、いっそ小さく死んでしまってそういう感性を取り戻そうよ、と歌っている。
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僕の中の「脳内女性」とは、どんな女性なのでしょうかね。
たしかに、彼女らとは何かを共有しているのかもしれない。
そう多くないだろうけど、ふと、僕のブログの前で立ち止まる人がいる。
僕の主旋律は、ひとつしかない。それを繰り返し繰り返し語っているだけだ。
だから、その問題は私の中ではもう終わった、と感じた人は、立ち去ってくれればいい。
僕だって、そんなことを繰り返して生きてきた。
僕のブログの前で立ち止まる人がつぎつぎに現れて、つぎつぎに立ち去ってゆく。そんなふうになれればいい、と願っています。
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現代ヨーロッパ人の金髪と青い目は、ネアンデルタールの50万年の歴史によってつくられた。
4万年前のアフリカの「ホモ・サピエンス」がヨーロッパに乗り込んでいっていきなりそんなふうになれるような形質ではないのだ。
現在のネアンデルタール研究の権威である赤澤威先生は、「私はネアンデルタールの<心>を研究している」と言う。で、どんなことを言うのかといえば、こうです。
5万年前のネアンデルタールは、アフリカのホモ・サピエンスのように川魚を取って食べるということを知らなかった。だから、ホモ・サピエンスよりも知能が劣っていた、と。
氷河期の北ヨーロッパネアンデルタールが、脂肪分の少ない川魚なんか食って生き延びられると思いますか。彼らは、そんなものは見向きもしなかった。ひたすら、たっぷり脂の乗った大型草食獣の狩に熱中していた。その狩で死んだり骨折したりすることは日常茶飯事だったが、それでも粗末な石の銛や槍だけで果敢に挑んでいった。それぐらい、ファイティングスピリットがすごく、それなりのチームワークを発達させていた。
そのネアンデルタールが、川魚や小動物をちまちま捕って暮らしていた個人主義的なアフリカのホモ・サピエンスにむざむざと滅ぼされるわけがないじゃないですか。
そうして女たちは、極寒の季節のもとでつぎつぎに自分の産んだ子が死んでいっても、それ以上に産みつづけていった。そういう「嘆き」と「熱情」から、埋葬の文化が生まれ、ヨーロッパ女特有のヒステリー気質が育ってきた。
「心」というのなら、そういう問題でしょう。
「知能」がどうとかこうとかで「心」を語ろうなんて、まったくあほじゃないかと思う。
5万年前のネアンデルタールがすでに現代人と同じかそれ以上の脳容量を持っていて、知能的にも劣っていたわけではないというのは、人類学の常識のはずだけど、ネアンデルタールは滅んでしまったと考える人類学者は、何とかこじつけて知能が劣っていたことにしようと言い立ててくる。
だいいち、「知能の発達」というパラダイムだけで人間の歴史や「心」を語ろうなんて、そんな分析は、中学校の昼休みの雑談レベルなのですよ、赤澤先生。
彼らがネアンデルタールは滅んだ、という根拠は、現代のヨーロッパ人の「ミトコンドリア遺伝子」がすべてホモ・サピエンスのものだということにあります。
ミトコンドリア遺伝子は、母親からしか伝わらない。だから、ホモ・サピエンスネアンデルタールが混血すれば、必ずホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子のキャリアになる。
だから、現代のヨーロッパ人がすべてホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子のキャリアだからといって、彼らがはじめからアフリカのホモ・サピエンスだったとはいえないのです。
じゃあ、アフリカのホモサピエンスがヨーロッパに乗り込んでいったネアンデルタールと混血していったのかといえば、それもたぶん違う。
人間は、どんなところにも住み着いてしまう生き物です。人類の地球規模の拡散は、そういうパラドックスの上に成り立っている。住みよい土地を求めてすぐ移動してゆくような生き物だったら、現在のシベリアにもアイスランドにも人間なんかいるものか。
人間にとっては、食い物が潤沢に手にはいるとか住みよいとか、そんなことよりもっとべつのことに心がとらわれてしまうのです。
その取っ掛かりとして、僕は今、「遊び」とか「祭り」とか「セックス」とか「神」という概念とか、そんなことを考えている。
アフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパに乗り込んでいったのではない。
そのときすでに、アフリカからヨーロッパの北の端まで人類の生息域は広がっていた。であれば、すべての集落が、まわりの集落と婚姻関係(血の交換)を結ぶという習俗をもっていれば、その遺伝子は一万年もしないうちに地球の端から端まで伝わってしまうのです。
ホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子は「ネオテニー幼形成熟)」といって、成長は遅いが長生きすることができる性質を持っている。
それに対してネアンデルタールミトコンドリア遺伝子は、極寒の季節を生き抜くために早く成長し、早く衰えてゆく。
人類の文化・文明が発達して少々寒くてもホモ・サピエンスの遺伝子で成長できるようになれば、そういう個体ばかりが長生きして残ってゆくことになる。
逆に文化・文明が未発達で地球が氷河期に覆われれば、寿命が短くても早く成長できるネアンデルタールの遺伝子がどんどん広がってゆく。
五十万年前から数万年ごとに繰り返される温暖期と氷河期によって、そうした遺伝子の勢力関係が北に上がったり南に下がったりしてきたのです。
そうして、3万年前には、ホモ・サピエンスの遺伝子ばかりになってしまった。
氷河期の4万年前にはアフリカの北まで広がっていたネアンデルタールの遺伝子のキャリア集団が、そこで、ホモ・サピエンスの遺伝子を拾ってしまったのですね。そうしてそのとき間氷期になって一時的に気候が温暖になったことや文化・文明が発達したこともあって、一気にその遺伝子が北ヨーロッパまで伝播してゆき、ついにネアンデルタールミトコンドリア遺伝子は地上から消えてしまった。それだけのことです。
ネアンデルタール人がいなくなったわけではない。ネアンデルタールホモサピエンスミトコンドリア遺伝子のキャリアになってしまっただけです。
現代のヨーロッパ人のミトコンドリア遺伝子を二つの成分に分けると、ひとつは現代のアフリカ人と一致し、他のひとつはネアンデルタールと合致する。そういうデータもあるのです。現代ヨーロッパ人の血の中にはネアンデルタールの痕跡は確かに残っているのであり、また、アフリカの原始人がヨーロッパまで移動していったなんて、そんな突拍子もないことがあるわけないじゃないですか。
それは、彼ら人類学者の妄想の中だけで成り立っているのだ。
隣の村に嫁にゆくとか、生意気な若者が村を飛び出してゆくとか、追い払われるとか、そんなことは、猿の時代からやっていたことだし、その習性と何がなんでも住み着こうとする人類特有の習性があいまって、地球規模の拡散が実現していったのだ。
食い物を安定的に確保すること、すなわち「労働」することが人間の本性であるのではない。そんなことは二の次の生き物になったから、地球の隅々まで住み着いていったのだ。