内田樹という迷惑・一所懸命

「一生懸命」じゃなく、ほんとうは「一所懸命」と書くのだよ、と誰かが言っていた。
たしか吉行淳之介も、エッセイの中でそんなことを言っていた。
鎌倉武士が、戦功の褒賞として主君から「土地」を賜る。その土地を命がけで守ってゆく。都なんか関係ない、ここが世界のすべてだと思い定めて守ってゆく。そこから、「一所懸命」という言葉が生まれてきた。
「一生懸命」という表現は、たぶん日清・日露戦争から大東亜戦争にいたるまでの「戦争の時代」や「天皇制」を止揚する言葉として生まれてきたのでしょう。
言葉は、時代とともに変わってゆく。「一所懸命」を「一生懸命」に変えてしまったのは、そういう「近代合理主義」の理念であるのだろう。近代合理主義なんて、本格的な知性でもなんでもない。理念とは、ただの情緒のことだ。そういう「一生懸命」という情緒的な言葉を生み出すことが、近代合理主義の「理念」だったのだ。
「人間の本性は<労働>することにある」という内田氏の言説も、たんなる近代合理主義の情緒的な理念にすぎないとは多くの人が指摘するところです。
ただ、「一所懸命」が鎌倉武士のスローガンであったとしても、そういう感性は、日本列島の歴史が始まったときからあったにちがいない、と僕は思っている。だから、現代まで残る言葉になっているのではないだろうか。
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「とこ」というやまとことばがある。
「寝床」「苗床」「家床」の「とこ」です。
「とこ」の「と」は、「とまる」の「と」。
「と」という発声とともに吐き出された息は、外に出ていかないで、出てゆく直前に消えてしまうような心地がする。そういう感じで、息が、この身体の輪郭で止まってしまう。
そういう感慨とともに、「と」と発声される。
「行き止まり」の「と」。
「こ」は、「ここ」の「こ」。身体に「気」が満ちてゆくような心地で発声される。「こ」という発声は、そのようにして「ここ」を感じる体験であるらしい。
それが、「床(とこ)」という言葉にそなわった感慨である。
「とこ」という言葉は、ここが世界のすべてだ、という感慨から生まれてきた。
日本列島の住民は、「一所」に、「ここが世界のすべてだ」という感慨を付託する。
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日本列島は、氷河期明けの1万年前に大陸から切り離されて生まれた。そのとき(縄文時代の)人びとは、海を眺めながら、われわれはもうどこにもいけない、ここが世界のすべてだ、と思い定めた。
日本列島の住民は、ある限られたスペースを「ここが世界のすべてだ」と思ってしまう習性がある。
たとえば、盆栽を育てる人は、そのミニチュアのような一本の松の姿に、ここに世界の森羅万象のすべてがつまっている、と感じている。
日本人が「小さいもの」をつくるのが得意なのは、おそらくそうやって「一所懸命」になってしまう心の動きを持っているからだろう。
縄文人は、竪穴式住居をつくりながら、柱の内側のその丸いスペースを「とこ」と呼んでいたのだろう、と僕は思う。
たぶん、「ここが世界のすべてだ」という感慨とともに発声される「とこ」という言葉は、縄文時代からあったのだ。
ここが世界のすべてだと思い定め、この世界の外にはもう何もない、と思い定める。この世界の外には、何もない世界がある。それが、古代人の描いた「黄泉(よみ)の国」という死の世界のイメージだ。
彼らは、「何もない」というかたちで「外」を意識していた。「ここが世界のすべてだ」と思うことじたいが、「外」を意識することでもある。
島国根性は、良くも悪くも「外」を意識することなのだ。
大陸の人びとは、あの地平線の向こうには異人種がいる、と意識した。
しかし縄文人は、あの海の向こうには「何もない」という感慨をもった。
折口信夫は、あの海の向こうに「常世(とこよ)のくに」という神が住む理想郷があると認識したのが日本人の神意識の原点である、と言った。
そうじゃないだろう、折口さん。
原初の日本人は、あの海の向こうは「なにもない」と思い定めて暮らしていたのだ。
だから、「とこ」や「一所懸命」という言葉が生まれてきた。
彼らにとっての「神」は、自分たち人間の原型(源流)であって、べつの存在ではなかった。べつの存在であると同時にべつの存在ではない。そういうかたちで「神」をイメージしていった。すくなくとも「古事記」には、そのように記されている。
この世界の「外」は、「なにもない」。だから古事記には、わけのわからないとんちんかんな神ばかりが登場する。わけがわからないということそれじたいが、神であることの証しなのだ。
「何もない」というところから生まれてくる神は、思い切り嘘っぽくとんちんかんにイメージされるほかない。
日本列島における「神」は、「人間の外部」ではない。人間の外部であり内部でもあるところの、人間の究極であると同時に原点でもある対象だった。
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「ここが世界のすべてである」という「一所懸命」の認識は、「無限」を包摂してもいる。
「あなた」と「私」のあいだには、「なにもない空間」が横たわっている。この事実が、神に気づく契機になる。この「なにもない空間」は、私とあなたの「内部」であると同時に、私たちの「外部」でもある。
人と人がくっつき合うようにして暮らしている日本列島の住民は、他者とのあいだの「空間」をとても大切にする。それが、「あなたのことを見つめません」という意思表示としての深くお辞儀をする作法になった。日本人の「まなざし」は弱くあいまいである。われわれは、「あなた」を見つめて話をしない。あなたと私のあいだに横たわる「空間」を見つめている。
この「空間」を見つめる態度が、「一所懸命」なのだ。
この何もない「空間」が、「神」のかたちなのだ。
何もない「外部」を深く意識しているからこそ、ここが世界のすべてだと思い定めて「一所懸命」になる。
「一所懸命」は、けっして「外部」を喪失した意識ではない。
神は、空の向こうの無限のかなたにいる存在であると同時に、今ここで出会う対象でもある。そういう矛盾を、古代の人びとはあたりまえのように受け容れていた。われわれは、すでにそういうダイナミックな心の動きを喪失している。
やおよろずの神、いわしの頭だって神になる。それは、「一所懸命」の心性だ。今ここのいわしの頭が、無限の宇宙でもある。
「今ここ」に対する信憑、それが「一所懸命」だ。今ここの「一所」の外には何もないという認識、それによって、一気に無限の宇宙が実感される。
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縄文人のほとんどは、山間地で暮らしていた。
山間地での太陽や月は、山の上から昇って反対の山の上に沈んでゆく。世界は、山に囲まれて完結している。山間地で暮らせば、自然に「一所懸命」の心性になってゆく。
日本列島の住民は、海を眺めて暮らしても、山を眺めて暮らしても、「一所懸命」になるほかなかった。
縄文人は、男と女が別々の集団をつくって暮らしていた。女たちは山間地に定住し、男たちは山野をさすらいながら、その女たちの集落を訪ね歩いていた。
山野をさすらう縄文の男たちは、鹿や猪の狩を、脂の乗った秋も深まったころにしかしなかった。
そして女たちの集落では、悪食とも言えるほどに何でも食った。
男たちも同じだ。うまい肉が食える晩秋以外の期間は、たぶんなんでも食っていたのであり、食うものなんかなんでもよかったのだ。
彼らは、食うという行為を、生きるいとなみの第一義のものだとは思っていなかった。だから、うまいときにしか食わなかったし、食えるものなら何でも食った。
彼らは、食うことを第一義の問題として、食料を安定的に確保してゆこうとする衝動をもっていなかった。食うことなんか、二の次だった。
彼らは、米の栽培を知っていたが、それを食料の安定確保のためではなく、ただ神に供える祭り=遊びのためにだけ栽培していた。彼らに食料の安定確保のための「労働」という意識はなかった。そういう「労働」をするより、とりあえず目の前にあるものを何でも食った。それは、「今ここ」に対する「一所懸命」の態度である。彼らに「人生」という時間意識はなかった。「今ここ」がすべてだった。
彼らは、「生活人」ではなかった。「日常」というものを軽蔑していた。非日常的な神との交流の儀式や男女のセックスという「祭り=遊び」を第一義として生きていた。
そんな縄文時代は、およそ8千年続いた。つまり、1万年の日本列島の歴史において、その8割の期間は「遊ぶ」ことを第一義として暮らしていた、ということだ。
西洋で本格的な農耕牧畜とともに共同体が生まれてきたのが約6千年前、人類の労働の歴史は、そこから始まっている。日本列島では、たかだか2千年のことにすぎない。
人間は、「労働」よりも、お祭りという「遊び」のほうが大事なのだ。それは、「神」という概念(=心の動き)をもってしまっているからだ。
「遊ぶ」ことは、神と出会う行為なのだ。