死んでゆくときは・「漂泊論B」48



漂泊とは、「混沌=なりゆき」に身をまかせること。それが、縄文人の心の動きであり、原始神道の基本的なコンセプトだった。
すべての森羅万象は、何ものの作為もはたらいておらず、ただ「なる」だけである。縄文人は、その「なる」ことに驚きときめいて「かみ」といった。
彼らは、神が存在することなど信じていなかった。信じていたら、神に感謝するばかりで、「いまここ」の「なる」ということに対する感慨が希薄になってしまう。神の存在を信じることほど、人間を鈍感にすることもない。
古代以前の日本人は「神を見た」などという体験はしなかったし、この国の伝統においては、われわれはそんな体験をする民族ではないのである。
そりゃあ人間なら、たとえば光のシャワーに包まれるとか、そういう心的生理的現象というか入眠幻覚の体験はするだろう。しかしそれが「神を見た」ということとどうつながるのか、僕にはさっぱりわからない。
光のシャワー=神という制度的幻想というか合意がこの社会にはある、というだけだろう。
あらかじめ神という概念を持っているから、「神を見た」という体験ができるだけだ。
霊魂という概念が存在しなかった縄文社会では、あまりそのような入眠幻覚の体験をしなかった。
体が疲労困憊したりして危機的な状態にあれば誰だってそのような入眠幻覚を体験する可能性はあるのだろうが、それはきっとまれなことだった。
霊魂という概念に覆い尽くされた平安時代や江戸時代は、誰もがそういう体験をかんたんにしていたらしいが。
現代人もまた、たとえば、急な斜面の山道を歩いていて身の危険を感じるあまり意識が幽体離脱して上から自分の体を見下ろしている幻覚を見たりするそうである。
しかしそのとき意識は体から離れているのだから、その体をどうすることもできない。なお危険なのだ。つまりそのとき意識(観念)は、体を放り出して自分だけ生き延びようとしたのだ。
たぶん縄文人は、そのような霊魂に憑依しやすい意識は持っていなかった。上から見たって、なんの役にも立たない。体そのもので斜面を感じてゆかないといけない。そして、体が斜面に溶けて消えてゆく。それが、上手に斜面を歩くことだ。
こんなとき縄文人は、霊魂に憑依してゆくよりも、斜面そのものに憑依していった。体が斜面に馴染んでゆかないといけない。そうやって自分を捨てて自然の中に飛び込んでゆく心の動きこそ、縄文人のタッチだった。



縄文時代に戦争がなかったということは、縄文人は「死後の世界」とか「生まれ変わり」とか、それらのことを成り立たせる「霊魂」という概念を持っていなかったことを意味する。
縄文社会には、「生き延びる」というコンセプトそのものがなかった。
人は、生き延びるために戦争をするのだ。
終戦後、「戦争放棄」という憲法第9条を受け入れたのは、もしかしたら「生き延びる」というコンセプトを持たないこの国の歴史的無意識がはたらいていたからかもしれない。
「生き延びる」というコンセプトのもとに「死後の世界」や「生まれ変わり」や「霊魂」という概念が生まれてくる。
「生き延びる」というコンセプトがなければ、「自然の恵みに感謝する」という心の動きも起きてこない。
縄文人にとっては、自然の恵みも神の恵みも知ったことではなかった。
「神が人間をつくった」というのなら、神もずいぶんありがた迷惑なことをしてくれたものだ。
縄文人にとって生きてあることは「嘆き」であって、うれしいことでも神に感謝することでもなかった。
生きてあることが大切だと思うから人を殺さないのではない。大切なものなら大いに殺しがいがあるし、相手を殺さないと自分が生き延びられないと追いつめられる局面は、物理的にも精神的にもいろいろとある。
われわれ日本人は、生き延びるために戦争をしてきたのであり、相手を殺さないと生き延びられないと追いつめられてしまったからだ。そうしてそのために、「死後の世界」とか「生まれ変わり」とか「霊魂」という概念をせっせと称揚してきたのだ。
靖国神社に「英霊」などいるものか。ただ、生き残ったものたちの死者に対する思いがたくさんそこに漂っているだけだ。
まあ「英霊」などという漢語を使うこと自体、日本列島の伝統から逸脱している。
日本列島の伝統においては、英霊など存在しない。ただもう、生き残ったものたちの死者に対する思い出があるだけだ。
日本列島の歴史は、大和朝廷からはじまっているのではない。そりゃあ古代や中世の支配者たちはおおいに霊魂を当てにしたり怨霊に悩まされたりしたのだろうが、日本列島の歴史は、縄文時代からはじまっているのだ。そして縄文人は戦争などしなかったから、そんな霊魂など何も思い浮かべなかった。
われわれの中には、霊魂など思い浮かべない歴史的無意識が息づいている。
縄文人にとって死ぬことは消えてなくなることであって、霊魂が旅立ってゆくことではなかった。
われを忘れて何かに夢中になってゆくこと、すなわち自分が消えてゆく心地の祝祭を生きていれば、死ぬことだってとうぜん「消えてゆく」というイメージになる。
霊魂という概念は文明人の自我の担保としてイメージされているのであれば、自分を忘れて消えてゆく心地の祝祭を生きているものには思い浮かべようがない。
霊魂という概念は、文明人の自我が生み出した。
霊魂などというものが存在しようとするまいと、とにかく縄文人は、そんなものは知らなかった。
生き延びようとする欲望を持たないものはさっさと死んでゆこうとするかといえば、そんなことはない。そういうものこそ、「いまここ」に消えてゆく心地のカタルシスというかたちで、この生の醍醐味をより深く豊かに体験している。



天皇陛下万歳」と叫んで死んでゆく特攻隊の兵士は、霊魂や死後の世界を信じていたか?
彼らにとって天皇は、「いまここ」に存在する「神」の形代(かたしろ)である。彼らはけんめいに「いまここ」に憑依して消えてゆこうとしていたのであって、霊魂も死後の世界も信じていなかったのではないだろうか。
天皇のために死ぬ」ということがなぜあんなにも有効に機能していたのか、不思議といえば不思議である。
日本列島の住民にとって天皇は、「いまここ」の「象徴=形代」である。これが、日本列島の歴史的無意識だ。
戦時中のそのとき、誰もが天皇を神と信じていたとしても、この世でいちばん親しい存在ではなかったはずである。
「おかあさーん」といって死んでいったものも多いと聞くが、誰もが「お母さん」に憑依できるわけではない。成人した男がそこまで執着できるのは、むしろ珍しいのではないか。普通の男なら、お母さんよりは、やっぱり恋人に対する気持ちの方が熱く濃い。
生きていてほしいのは、年老いたお母さんよりは、子供や兄弟や友人や恋人の方だろう。
しかし「いまここ」の形代としてもっとも確かなのは、なんといっても「天皇陛下」だ。
そのとき兵士にとって天皇は、自分が生きた時代を覆っているイメージ存在だった。時代の「いまここ」の象徴は、誰にとっても「天皇陛下」だった。
日本列島の住民にとっての天皇は、いつの時代も「いまここ」を象徴する存在であって、死後の世界の存在ではなかった。
死んで天国に行ったら、昭和天皇と会えるか?
われわれは、天皇がそういう死後の世界の存在だというイメージをうまく結べない。
そうして日本列島の住民のほとんどが、最後の最後は、死後の世界など思い浮かべないのではないだろうか。
われわれにとって死ぬことは、「いまここ」に消えてゆくことだ。避けがたくそういうイメージがあるし、これが、神道の死生観ではないだろうか。
昭和天皇だってたぶん、「いまここ」に消えていったのだ、誰よりもきれいにたしかに。
天皇が天国だか極楽浄土にいることなんか、僕はよう思い浮かべない。
「お隠れになった」とは、「消えていった」ということだろう。これが、縄文以来の歴史的無意識としてのこの国の死生観なのではないだろうか。
天皇陛下万歳」といって死んでゆくことは、「いまここ」に消えてゆくことなのだ。それに天皇は「無私」の象徴でもあるし、自分を忘れてしまわないと、「いまここ」に消えてゆくことはできない。
自我を消去してゆくのが、日本列島の死んでゆく作法なのだ。そのとき、生き延びるための「死後の世界」や自我の形代である「霊魂」に対する意識も消えてゆく。
彼はそのとき、天国や極楽浄土を目指したのではない。自分を消して何もかもすっかり忘れてしまうために「天皇陛下万歳」と叫んだのだ。
日本人というのは、そういうふうに死んでゆく民族なのではないだろうか。縄文人だって、きっとそのように死んでいったのだ。
その兵士の霊魂は、靖国神社に帰ってきてはいない。死ぬときすでに消えてしまっている。
「英霊を祀る」ということ自体、神道から逸脱した作法なのだ。だから多くの日本人がそのことに不快感を抱くし、そのことを称揚しているものたちは、もう一度戦争をしようと企んだりする。
この国では、「霊魂」などというものは生きているものたちが執着している概念であって、死者のものではない。
この国で天皇制が長く続いてきたということは、死者の霊魂などうまくイメージできない民族である、ということなのだ。その霊魂という概念は、生きているあいだはこの社会の制度性として機能しているが、死ぬ間際の本心が露出したときには、たぶん忘れてしまう。忘れてしまわなければ死ねない民族なのだ。



多くの縄文人が山の中で暮らしていたということは、彼らは自我の薄い人たちだったということを意味する。
したがって縄文時代には、自我の形代である「霊魂」という概念もなかったことになる。
山は、人の心の自我を薄くさせる。少なくとも日本列島における山はそのように機能し、後世には山が神の形代になっていった。
日本列島の歴史は、氷河期明けに、山の暮らしをしたことのない人々が自我を投げ捨てて山の中に分け入っていったところからはじまっている。彼ら初期の縄文人は山の暮らしの歴史を持っていないのだから、決してかんたんなことではなかったはずだ。それでも彼らは、自分を投げ捨てて山の中に飛び込んでいった。
それは、死と背中合わせのような日々だったのかもしれない。しかし人間は、自然に対する無力な存在として、そういう危機を生きようとする衝動を持っている。そうやって原始人は地球の隅々まで拡散してゆき、ネアンデルタールは氷河期の極北の地に住み着いていった。
縄文人にとって山は、自我を投げ捨てなければ暮らせない場所だった。
その、山に対する感慨が、その後の歴史を通じての日本列島の住民の山に対する感慨の基礎になっている。
また、日本列島は、人の心を抱きすくめるような穏やかな姿をした山が多い。
里山、などという言葉もある。
そういう山は、すぐ近くにあっても、その稜線がこの世の果てのような心地にさせる。「いまここ」で世界は完結している、という感慨。日本列島の住民は、そういう感慨で生き、そして死んでゆく歴史を歩んできた。
山の暮らしはしんどいが、世界は「いまここ」で完結している、というカタルシスの感慨があった。
山は、人間を生きさせるのではない。もう死んでもいい、という感慨をもたらす。そしてそれこそが、人間にとっての生きてあることのカタルシスなのだ。
山は、世界の完結性をもたらす。
日本列島は「終わり」のカタルシスを汲み上げてゆく文化である。
大陸のような「永遠性」を求める文化の伝統ではない。だからわれわれは、「死後の世界」も「生まれ変わり」も「霊魂」もうまくイメージできない。
一般的には、日本列島の世界観の基礎は海との関係にあるようにいわれているのだが、じつは山との関係の上に成り立っているのだ。そういう基礎を、縄文時代の山の民がつくった。
縄文人が山の民だったということは、日本列島の住民は山に神が棲んでいるとは思っていなかったということだ。
日本列島の住民の山に対する親密さは、もっと直接的な感慨なのだ。
山を仰いで神を感じてきたのではない。何もかも忘れて「もうここで死んでもいい」と思ってしまうような親密さなのだ。特攻隊の兵士が「天皇陛下万歳」と叫んだように、因果なことにわれわれは、そういう心地を持ってしまう民族であるらしい。
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