「身がわり」の文化・「漂泊論B」47



死を怖れない生き方、というと何か勇猛果敢という感じがするが、そういうことではなく、縄文人は、ごく素直にわれを忘れて自然の中に飛び込んでいった。
それは、信念でも信仰でもなく、ひとつの「祝祭」だった。
彼らにとって自然=山は、けっして恵み豊かなやさしい対象ではなく、立ちはだかる壁であることの方が多かった。それでも、自分を打ち捨ててその中に飛び込んでいった。そういう祝祭だった。
この、何もかもすっかり忘れて「いまここ」に消えてゆくのが原始神道のコンセプトである。
べつに呪術や超能力のことではない。
ただもう、無邪気で無力な子供のよう心地。
原始人や縄文人は、自然に対する「無力性」そのものを生きようとしていたのであって、超能力を欲しがっていたのではない。
無力性を生きるところでこそ命はいきいきとはたらくのであり、深いカタルシス(浄化作用)が体験される。
彼らはしんどい生を嘆きながら暮らしていたが、人間の知性や感性は、そこでこそいきいきとはたらく。
超能力を獲得してこの生の問題を解決してしまったら、知性も感性も停滞してしまう。
人間は、けっして「嘆き」を手放さなさない。この生を嘆きつつ、この生とは何かと問い続けている存在である。
それは、哲学者だけの仕事ではない。みんな、そのようにして生きているのだ。
人がなぜ社会の事件やスキャンダルに関心を持つかといえば、自分が抱いている社会に対する嘆きに根拠を与えたいからだ。そうやって自己憐憫の感慨を宥めているのだ。
誰もが心のどこかしらで、他人はのんきに生きている、と思っている。それが、他人に対する優越感と劣等感の発信源だ。そうして、自分の中の「嘆き」を、懐に抱いた子猫のようにいとおしみ不憫がっている。
とくに日本人にはそういう傾向がつよい。いまどきのおじさんおばさんは、うじうじしたド演歌が好きだ。
誰だって、心の底では自分を不憫がって生きている。
人間は、この生を嘆いている。それはつまり、人間は根源的には自然に対する無力性を生きている存在である、ということだ。他人に優越する力を欲しがり生き延びようとしているようでいて、じつはどこかしらで無力性そのものを生きつつこの生を嘆いている。
みずからを無力な存在として嘆くことこそ、人間性の基礎なのだ。そこから、人間的なさまざまな心の動きや知性や感性が生まれてくる。
人間は、根源において、超能力(マナ)も生き延びることも求めてはいない。それだけでは、知性も感性も鈍磨してゆく。あくまで無力な存在として生きることに、人間であることの醍醐味がある。
人間は、無力な存在として生きようとする衝動を持っている。無力な存在として、自然の中に飛び込んでゆく。これが、原始人や縄文人の生きる流儀だった。



縄文人は、無力な存在として自然の中に飛び込んでゆく体験の中で「かみ」という言葉を見出していった。
「かみ」は、自然の森羅万象に対する驚きや畏れやときめきをあらわす言葉だった。
この世界に森羅万象が存在し起きているというそのことを「かみ」といった。それは、人間が自然に対して無力な存在であるというところから生まれてきた言葉である。
日本列島の「かみ」は、大陸人がいうような、自然をつくり自然を支配する「神(ゴッド)」のことではない。
だから西洋人は「神(ゴッド)」を真似て自然を支配しようとするが、日本列島の住民は、ただもう自然に対する驚きや畏れやときめきとともに自然の中に飛び込んでゆく。
「盆栽」をつくることは自然を支配していることか。そうではない。それ自体、自然に対する驚きや畏れやときめきを表現する行為なのだ。どんなに小さくても、人間の前に立ちはだかる壁のように雄大な気配を持っているかたちにつくってゆくところがみそなのだ。
かなわない自然の「身がわり」としてつくっているのだ。
身がわり、すなわち「形代(かたしろ)」の文化。神道では、神の霊が憑いている山や森や岩を「形代」という。神の身代わり、ということらしい。盆栽もまた、そういう神の「形代」である。
もともと日本列島には「神は存在する」というような信仰はなかったから、仏教伝来後に神道でも、そういう存在を「形代=身がわり」としてイメージしていった。
そのとき日本列島には、「形代=身がわり」の文化はあったが、「神は存在する」という信仰などなかった。
日本列島においては、すべての森羅万象は「神」の「形代=身がわり」であって、「神」それ自体ではない。「神」がつくったものではなく、「神」の「形代=身がわり」であり、「神」なんか存在しないのだ。
自然をつくった「神」という存在を持たないから、「形代」をつくる文化が生まれてきた。
盆栽は、自然をつくっているのではない。自然の「形代=身がわり」なのだ。
だから、日本人は猿真似ばかりしている、といわれなければならない。
しかし歌舞伎や能は、現実世界の「形代=身がわり」であって、現実世界の模倣ではない。
日本人は、猿真似なんかしていない。「形代=身がわり」を立てる文化なのだ。
天皇だって、ほんらいは神ではなく、神の「身がわり」なのだ。
もともと神という存在のいない国だったから、神の「身がわり」を立てなければならなかったし、「身がわり」を立てる文化を持っている国だったのだ。
たとえば、秦の始皇帝が死んだときは、たくさんの人を殉死者として殺した。
しかしこの国では、最初から「身がわり」としての埴輪をつくっていた。
「はにわ」の「はに」は、粘土(陶土)。「わ」は、まるい「輪」。
埴輪は丸い筒が基本のかたちで、人間や馬のかたちをつくったのはただのバリエーションとしての遊び心だった。その丸い筒を殉死者の「形代=身がわり」としたのだ。
「形代=身がわり」は、ただの模倣とはちょっと違う。
政治ややくざの世界でも、ばれないかぎり、上の者の悪事はすべて「身がわり」に負わせる習慣がある。
そして、「身がわり」になることが美徳であるという意識がある。



「身がわり=形代」の文化。
縄文人は、氷河期の平原の暮らしを失って、山の中に入っていった。そのとき山は、「身がわり」の環境だったし、彼ら自身が「身がわり」として生きることだった。環境も食生活も人と人の関係も変わる、まったく新しい生活だった。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、すでに猿ではない猿の「身がわり」になることだった。
別の存在ではないが、同じの存在でもない。それが「身がわり」である。
旅に出ることは、同じ自分でありながら別の自分として生まれ変わることでもある。
少なくとも原始人にとっての旅は、無力な存在として自然の中に飛び込んでゆくことであり、自然に対して自分を「身がわり」として差し出す行為だった。
人間が二本の足で立っていることは、何かの「身がわり」になっている姿勢なのだ。それは、無力な存在になることであり、無力な存在になるとは「身がわり」になるということだ。
まあこの生は、永遠の中の「仮の姿=身がわり」にすぎない。そして、「仮の姿=身がわり」になることが生きてあることの醍醐味になっている。
縄文人が自分を忘れて自然の中に飛び込んでゆくことは、自分の「仮の姿=身がわり」になることだったのだろう。
人間がわれを忘れて何かに夢中になることは、「身がわり」になることだ。人間はそこに生きてあることの醍醐味=カタルシスを見い出す。
「身がわり」になるとは、無力な存在になること。これが、原始人や縄文人の生きる作法だった。
日本列島の伝統である「形代=身がわり」の文化は、そういう人間の自然の上に成り立っている。
縄文人は、自然に対する驚きや畏れやときめきの「形代」として、「かみ」という言葉を見い出していった。
「かみ」という言葉を「形代=身がわり」として立てることによって、困難な環境の中で生きてあることのしんどさを救出していった。
何万年も氷河期の平原で暮らしていた人々がいきなり山の暮らしをはじめたのだから、しんどくなかったはずがない。彼らにとって氷河期が明けて気候が温暖になったことは、ひとつの受難だったのだ。
しかし人間は、「身がわり」として受難を生きようとする。山の暮らしが困難だったから、山の暮らしをはじめた。困難な暮らしの中に飛び込んでゆけば、命はいきいきとはたらく。
そうして、困難な暮らしを救出する「かみ」という言葉を見い出していった。
彼らにとって困難な暮らしの解決は、困難ではない快適な生活を目指すことではなかった。彼らにとって山という環境は、そんな解決の不可能性を実感させられる対象だったし、解決するためのノウハウとしての歴史の知恵の蓄積もなかった。
彼らにとっての解決は、自分を忘れてその困難に飛び込んでゆくことであり、そこからカタルシスを汲み上げてゆくことだった。
自分を忘れて自分の「形代=身がわり」になること。まあこの生はすべて「形代」であり、「形代」の方が大事なのだ。
日本列島の「形代=身がわり」の文化は、自分を忘れて自然の中に飛び込んでゆく祝祭性の上に成り立っている。


「かみ」は、「かむ」の体言。
「かみ」の「か」は、「かっとなる」の「か」、気持ちが旅立ってゆくこと。気づくこと。
「む」は「無理」の「む」、「むむむ」と考え込む。わからなさに途方に暮れている気持ちからこぼれ出る音声。「閉塞感」の語義。
「かむ」とは、閉塞感から解き放たれる気持ちや体験のこと。
「噛む」ことは、硬いものをやわらくすることであり、味に気づいてゆくことだ。
つながることを「かむ」という。これも、困難が解決することだ。
語源としての「かむ」は、解放感のこと。
縄文人は、われを忘れて自然の中に飛び込んでゆく(旅立ってゆく)解放感やその体験を「かみ」といった。
自然の森羅万象に気づいて驚いたり怖れたりときめいたりしてゆく感慨や体験を「かみ」といっただけである。
日本列島の「かみ」は、祝祭の言葉であって、信仰の言葉ではない。
縄文人にとって「かみ」という言葉は、山の暮らしの嘆きから解き放ってくれる言葉だった。
そういう「かみ」という言葉とともに1万年以上の歴史を生きてきた人々が、外来の「神という存在」の概念に洗脳されてゆく過程には、さまざまな精神的な手続きがあったはずである。
そのひとつとして、もともと祭神などいなかった神社にそういう名前のついた祭神をあてがってゆくという大和朝廷の政策があった。まあ「身がわり」を立てる文化のこの国では、平気でそういうことをするらしい。
アマテラスもスサノオオオクニヌシも、神の「形代=身がわり」であって、神そのものではない。天皇だって、神の「形代=身がわり」なのだ。
この国には「神(ゴッド)」などいない。
もともと原始神道の神社に「祭神」も「祖霊」も「御神体」もなかった。それらはすべて漢語であって、やまとことばではない。「祭神」や「祖霊」や「御神体」それ自体が神の「形代=身がわり」なのだ。そんな概念は、原始神道をあらわすものではない。
もともと「形代=身がわり」の文化だから、かんたんに変更されてしまう。
原始神道は、大和朝廷の発生と大陸文化の輸入とともに変質していった。なのに現在、原始神道は、そのように変質しはじめたところからしか語られていない。
あなたたち、それは違うよ。
原始神道は、生き延びるための教えじゃないんだ。
根源において生きてあることを嘆いている人間存在が生き延びようとする衝動を持つはずがないし、縄文人は、日本列島の歴史上もっとも深く嘆きとともに生きた人々だった。
しかしだからこそ、そこには豊かなときめきがあった。
原始神道縄文人のただの「お祭り=娯楽」だったのだが、しかしその「お祭り=娯楽」の官能性こそが、生きてある人間にとってのもっとも切実な体験なのだ。
というか日本列島の住民は、因果なことに、ことにそうした「なりゆき」の文化の官能性に引きずられやすい傾向を持っている。
山に囲まれてある暮らしは、官能的なのだ。たぶん縄文人は、歴史的な必然としてそういうことを発見してしまった人々だった。そしてその因果が、現在まで続いている。
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