予期せぬ出来事・「漂泊論B」49



縄文時代の山の暮らしは決して楽なものではなく、自分を捨てて山の自然に溶けてゆくということをしなければ成り立たなかった。
そういう山の自然とのせっぱつまったのっぴきならない関係があった。
そこから縄文の祭りが生まれてきた。
霊力とか超能力などというものを信仰したり怯えたりするのが原始宗教であったのではない。
いや、原始時代に宗教などというものはなかった。「祝祭」があっただけだ。そしてこれは、縄文以来の「なりゆき」で生きるという日本的な心性の伝統でもある。
日本人には、宗教心などというものはない。
そして「なりゆきで生きる」とは、「即興」で生きるということである。
縄文の祭りは、歌も踊りも「即興」が基本的なコンセプトだった。
未来に向かうスケジュールで生きている現代人は、「即興」の知性と感性を失いかけている。
だから人々は、それを取り戻そうともしている。
テレビのバラエティ番組で、窮地に陥ったお笑い芸人が「聞いてなかったよお」と訴えるセリフが一時流行したのも、スケジュールという予定調和の暮らしに倦んだ人々の「即興」に対する渇望のあらわれであるのかもしれない。
ジャズという即興音楽が予定調和の近代合理主義に邁進しているアメリカから生まれてきたのも、それはそれでひとつの必然であったのかもしれない。
この国も、アメリカ並みに高度経済成長を果たして、遅ればせながら「即興」に対する渇望が生まれてきたらしい。
しかし即興の祝祭性は、われわれの歴史的な伝統でもある。



人間にとってこの生は「予期せぬ出来事」であり、「予期せぬ出来事」と出会うことがこの生のカタルシスになっている。
そうやって原初の人類は地球の隅々まで拡散していった。べつに何かを求めていったのではない。そんな予定調和で人間はときめきはしない。
「予期せぬ出来事」にときめくのだ。それを「出会いのときめき」という。
「予期せぬ出来事」と出会って、この生の「けがれ」が洗われる。
予定調和は、「けがれ」である。そうやって、近代社会は病んできた。
欲しいものが手に入ることが人間を生かしているのではない。何も欲しがらないで「予期せぬ出来事」と出会うことの驚きやときめきがカタルシスになる。
まあ、スケジュールで動いているこの社会にあっては、予期せぬ行動や言動をするものは嫌われる。
それでも人間は、一方で、「予期せぬ出来事」との出会いに驚きときめきながら生きている。
男がなぜ美女にときめくかといえば、「予期」の範疇を超えた存在だからだ。そうして、その存在の不思議にときめいている。
人は、「予期」の範疇を超えた対象に感動するのだ。
予期=予測、この生のカタルシスは、予測によってもたらされているのではない。
誰もが生き延びようとあくせくしている世の中では未来を予測・予言する人が尊敬されるが、それでも人の心は、「予期せぬ出来事」との「出会いのときめき=感動」がなければ病んでしまう。



根源においては、「予期せぬ出来事」との「出会いのときめき=感動」が人を生かしている。古代や原始時代を考えるなら、このことを勘定に入れないといけない。
即興の祝祭性。
生き物が生きていれば、意識は、この世界やみずからの身体に反応する。何も望まなくても、「反応」は起きる。われわれは、そこから生きはじめる。生きようと欲望するところから生きはじめるのではない。
まず「反応」が起きる。
「予期せぬ出来事」ほど心は豊かに「反応」する。
縄文人はまず、まわりの山という自然に反応するところから生きはじめた。山で暮らした歴史を持たない初期の縄文人にとって山は、予期の範疇を超えた対象だった。そうして、山に囲まれた景観の中で、世界は「いまここ」で完結している、という感慨を得た。縄文時代は、ここからはじまっている。
世界は「いまここ」で完結している、という感慨を持てば、未来という時間にも山の向こうという空間にも関心は起きてこない。
したがって縄文人は、生きてゆくために自然や神に祈るとか、生きさせてもらっている神や自然に感謝するというような心の動きは起きてこなかった。彼らには、そういう「宗教心」はなかった。
ただひたすら、山という自然に反応し、山という自然の中に飛び込んでいった。それは、「信仰」ではなく、純粋な「祝祭」だった。
彼らは本格的な農業をしていなかったから、作物の実りを祈願するというようなことはとうぜんしていなかった。
ドングリや栗の実を採集していたからといって、それらを実らせる何か(神)の力がはたらいているとも思わなかった。たくさんなったらたくさんなったなあと反応し、少ししかならなかったら少ししかならなかったなあとがっかりしただけだ。
祈ればたくさんなるとも思わなかったし、たくさんなったから感謝するということもなかった。なるもならないも自然の勝手で、彼らはそのことに「反応」するだけだった。
望むものを与えられるから感謝する。望むことも感謝することも、「いまここ」の向こうを思う未来意識である。縄文人には、そういう心の動きは希薄だった。
ひたすら「いまここ」に反応していった。
梅原猛中沢新一のいう「自然の恵みに感謝する」のが「慎み深い心」だなんて、やめてくれよという話である。おねだりばかりして生きているから「感謝する」という心が起きてくるのだ。
僕だって、ブログランキングのマークをクリックしてくださいとおねだりしているから、感謝せずにいられなくなる。われながら縄文人に対して恥ずかしいと思うが、やっぱりお願いせずにいられないわけがある。
ほんとに涙が出るほどありがたいとは思うが、だからといって自分がつつましい人間だとはぜんぜん思わない。そういう社会の制度性の中で生きているだけのことだし、おねだりするあさましい気持ちがあるだけのこと。そうして、おねだりせずにいられないみじめさを思うばかりだ。
「神(自然)に感謝する」とは、「神(自然)から恩に着せられている」ということだろう。
この社会には、「恩に着せる=感謝する」という制度性がはたらいている。
しかし縄文人には、恩に着せる気持ちも感謝する気持ちもなかった。



あなたは、誰かにプレゼントをして自分が感謝されるのと、プレゼントをしたものにまるごとよろこんでいるのを見るのと、どちらがうれしいか。
日本人が「つまらないものですが」と贈り物を差し出すのは、自分に感謝されることを回避しているというか、はにかんでいるからだ。贈り物それ自体によろこんでもらいたいからだ。
自分を消して贈り物を差し出す。だから昔の人は、差し出しながら畳に頭をこすりつけるようにお辞儀をしていた。それは、感謝されることを回避しようとするつつしみであり、こういう習慣が戦前まではちゃんと残っていた。
もともと日本列島には「感謝することの美徳」などという意識はなかった。ひたすらよろこび愛でる文化なのだ。
神や自然の恵みに感謝をするなどということは、たんなる儒教文化にすぎない。
日本列島の住民は、「恩に着せるつもりはありません」という心をこめて「つまらないものですが」といい、畳に額をこすりつける。
おねだりするから、感謝するのだ。
縄文人には、そういうおねだりする気持ちがなかった。それは、未来の時間も山の向こうの空間も思わなかった、ということだ。



現在でも、日本の子供は、韓国や中国の子供に比べると、はるかに親に感謝していない。平気で親に馴れ馴れしい口のきき方をする。しかし、感謝していないということと親密な感情がないということとはまた別のことである。感謝していないぶんだけ日本の子供の方がずっと親に対して親密だ、という場合もある。
親に感謝している子供は、あんがい親がしてくれなかったことをいつまでも根に持って恨んでいたりする。
神に感謝しているものたちは、神がしてくれなかったことを恨まねばならない。そうやって第二次大戦後のユダヤ人たちは大いに混乱していった。
縄文以来の日本列島の伝統においては、親にも神にも感謝していない。感謝しないが、恩に着せることもしない、というのが流儀作法なのだ。親が恩に着せなければ、子供も感謝するという気になってこない。
日本だろうと韓国だろうと、親に感謝するのが美徳だという儒教思想が機能している場では、親がせっせと恩に着せているし、子供は親がしてくれなかったことを恨んでいる。
親が恩に着せなければ、子供はより親に親密になるが、感謝はしない。
なぜなら子供とは自分が生まれてきたことに対して戸惑い途方に暮れている存在であるのだから、子供の方から親に感謝してゆく理由は原理的に存在しないのだ。
「親に感謝する」などということは、文明社会の制度性にすぎない。それは、親に対して親密な感情を持つということとはまた別の問題である。
同様に、人間が生きてあることを感謝したり執着したりしている存在であるかということもわからない。根源的には、生きてあることを嘆いている存在なのだ。だからこそ人類史において人間的な知性や感性が高度に育ってきたのであり、であれば、生きてあることを神や親に感謝するということも原理的には成り立たない。
人間の自然においては「感謝する」などという心の動きは起きてこない。
おねだりしなければ、感謝するということもない。そんな心の動きは、美徳でも自然でもない。
この国には、親に感謝していない子供はいくらでもいる。それが人間の自然なのだ。不遜だと非難されるいわれはない。親が恩に着せなければ、親に対してより親密な感情を抱いても、感謝はしない。そしてそれは、「神に感謝する」という宗教的な伝統もない、ということで、縄文以来の風土性として、そうなっているのだ。



縄文人は、親が恩に着せることをしないから子供が親に感謝することもなく、男の子が成人すればさっさと旅に出た。
成人した男子も集落に残って暮らすような社会だったら、とっくに共同体(国家)ができていたことだろう。
男たちがリードして集落を大きくしてゆくという社会の構造になっていなかった。
縄文集落など、ほとんどが10戸から20戸ていどの規模だった。そんな規模の集落で過ごせば子供たちはみなきょうだいみたいなものだから、集落に残っても、男と女の関係になってゆかない。
そこから縄文時代がはじまっている。そんな小規模集落の成人した男子は近在の集落に遠征してセックスの相手を見つけようとするし、成人した女子だってよその集落の男子にセックスアピールを感じるようになってゆく。
そのようにして成人した男子は生まれ育った集落に居つかなくなり、女たちはよその集落から男がやってくるのを待つようになっていった。
そんなことを繰り返しながら、男たちはどんどん生まれ育った集落から離れてゆき、ついには死ぬまで漂泊の旅を続ける習性になっていった。
まあ、帰るのがどうでもよくなってしまう。べつに親に恩義を感じているわけでもないし。
そろそろ落ち着きたいと思うようになってくるのは、死期が迫っているときだった。彼らの平均寿命は30数年しかなかった。
縄文社会の集落のほとんどは、きわめて小規模だった。山の斜面や台地にへばりつくように住み着いていった。そんな集落では、男が成人したあとも居着くことはできなかった。
であれば、親が子供に恩に着せるとか子供が親に感謝するというような社会にはなりようがなかった。
「感謝する」という制度性が育ってこない社会だった。
彼らは、人にも自然にも、要求することも感謝することもしなかった。ただただ直接的な親密な感慨があっただけだ。
その社会には、「世界を支配する神」という概念は機能していなかった。人と人の関係に、「恩に着せる」とか「恩に着る」というような支配と被支配の関係がなかった。



生き物の根源にはたらいているのは、生きようとする欲望ではなく、「いまここ」に対する「反応」なのだ。山に囲まれて暮らしていると、未来の時間も山の向こうの空間も思わなくなる。
縄文人は、「いまここ」の即興性の「祝祭」を生きた。
彼らは、木の実がたくさん実ったことを祝うことはしても、たくさん実るように祈ることはしなかった。祈る対象である神を持たなかった。神がこの世界をつくったなどとは思っていなかった。それはつまり「恩に着せる文化」ではなかった、ということだ。
現代人のように、神や親から恩に着せられながら暮らしていたわけではない、ということだ。
祈ったり感謝したりすること、祈りも感謝もせずにただもう無邪気に山という自然の中に飛び込んでゆくことと、いったいどちらがその対象に対して親密だといえるだろうか。
日本列島の神社神道が山や森とセットになって現代まで続いているということは、日本列島の住民がいかに深く山や森に対して親密かということを意味しているのだが、それは、山や森に対して何かをねだって祈るとかその恵みに感謝するとか、そういうことではない。ただもう何もかも忘れて山や森に抱きすくめられるイノセントな親密さを持っているということだ。
教会やお寺の中には神がいてその祭壇こそが重要な場所だが、たとえば伊勢神宮なんか、祭壇どころか本殿の姿さえ見せてもらえないのである。それでもわれわれは、誰も不満に思わず、その周囲の天まで伸びるような杉の森の中に入っているというだけでもう「世界はいまここで完結している」という心地になっている。
そうやって山や森に抱かれてゆく直接的な親密さは、神などというよけいな概念を持っていないからである。
神道においては、本質的には神も祭壇もどうでもいいのである。山があり森があればいいのだ。
日本列島の住民の山や森に対する親密さは、神に対する信仰心ではない。もっと直接的な実存的官能的な感慨で、そこには神に対するおねだりも感謝もない。
日本列島の伝統的な人と人の関係には、おねだりも感謝もない。ただただ直接的な親密さがあるだけだ。
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