内田樹という迷惑・小さな死

人と別れる体験は大切だと思う。
森山直太朗が最新の曲で「生きてることがつらいなら、いっそ小さく死ねばいい」と歌っているが、「小さな死」とは人と別れることだ、と、ある哲学者が言っている。
生きてゆくことは人と別れたり物をなくしたりお金を使ってしまったり体力を消耗させて眠りについたりしながら「小さな死」を繰り返してゆくことであるし、そのことをちゃんと味わい尽くして生きてこなかった人は、最後にほんとうの死を迎えたとき、心の収拾がつかなくなってしまうよ、というわけです。
たとえば夜中の町をわけもなく歩き回ってぐったり疲れ、一人のアパートで死んだように眠ってしまえるなら、そのときだけは生きることのつらさを忘れてしまえる。
まあ社会的な「労働格差」の問題も大切だろうが、そういう「小さな死」を体験することだって無駄ではないのかもしれないよ、と森山直太朗は歌っている。
ニートや引きこもりだけじゃなく、誰にだって「小さな死」は必要だ。そしてそれは、ひとつの「歴史体験」なのではないだろうか、と彼は言いたいらしい。
生きてあることを、歴史の流れの「いまここ」として体験すること、それが、「小さな死」に気づくことだ。
街ですれ違った「あなた」とは、たぶんもう二度と会えない。そういうことに気づく体験だって、「小さな死」に違いない。
「あ、かわいいな」「すてきだな」と思ったのに、彼女がこの先どんな女になってゆくのか、どんなふうに老いてゆくのか、われわれはもう、どうがんばっても確めることができない。
自分が死んだあとも、この世界は、何ごともなかったかのように続いてゆく。
そのようにして彼女は、明日からも「私」とは無縁の世界で女を磨いて生きてゆき、そして老いてゆく。
それは、「私」が「小さく」死者になる体験なのだ。
「小さな死」に気づく感性を磨けば、生きていることのつらさや嘆きから逃れることはできなくとも、それに耐えることはできる。それもまた生きてあることの味わいなのだ、と。
生きることのつらさを「小さな死」として味わうことができれば、それがひとつのカタルシスになる。そうだよね、森山君。
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「小さな死」を体験することはブランコに乗るようなものだ、と森山直太朗は言う。つまりそれは、風を感じたり季節を感じたりすることであって、労働して社会の役に立つとか、そんなことじゃない。いっそ小さく死んで社会の役に立たない無用の人間になってしまえば、そこではじめて風や季節や歴史に気づくことができる。
べつに会社を辞める必要もないが、せめて仕事が終わって会社の外に出たら、小さく死んでしまって、風や季節の気配を感じる人間になろう。そうしたら、歴史の流れの「今ここ」に立っていることに気づくだろう、というわけです。
しかし、「小さな死」に気づくことは、あんがいかんたんなことではない。生きていることがつらい人にしかできない。
楽しいだけのお気楽な人や、社会の役に立っているつもりの自信満々の人に体験できるはずがない。彼らはもう、生きてあることの檻から逃れられない。だから、「小さく死ぬ」ことなんかできない。
失恋したあなた、派遣労働者のあなた、ニートや引きこもりのあなた、あなたたちによってこそ真に人間的な「小さな死」が体験されるのだ、と森山直太朗は、せつなげにもどかしげに声を震わせている。
そういう「遊び」としての、すなわち「人間であること=生きてあること」から逸脱してゆく「小さな死」を体験しながら人間の歴史は、「神」を発見してしまったのではないだろうか。