内田樹という迷惑・神という「遊び」

ばかでぐうたらで、本人も混乱し、まわりにもさんざん迷惑をかけているニートや引きこもりを、僕は肯定する。そんな彼らの中に、人間としての根源的な衝動が疼いていると思う。
僕は、ニートや引きこもりを理想化し、現実を知らないんだってさ。
知らないさ。
しかし、この僕自身が、人間であることの「現実」だと思っている。
あなたたちは、そういうニートや引きこもりよりもましな人間だと思っているのか。それが、「現実」を知ることなのか。そんな「現実」など、知りたいとも思わないし、知っているからえらいとも思わない。
まわりの人が大変だから、彼らを否定していいのか。それとこれとは別の問題だろう。大変を引き受けているまわりの人のために、彼らを否定していいのか。まわりがどんなに大変でも、僕は彼らをよう否定しない。
彼らをニートや引きこもりでないようにしてやる、という正義。そんな正義を、えらいとも思わない。どんなに大変でも、「イエス」と言って見守るしかない状況はきっとあるだろう。ニートや引きこもりでなくなるかどうかは、つまるところ彼ら自身が決めることなのだろうから。
彼らがばかでぐうたらだからといって、自分のほうがましな人間だとは思わない。思わない僕はもう、「解決策」を語ることができない。
ニートや引きこもりでなくなることが「解決」なのか。僕はわからない。
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はじめに言葉ありき・・・・・・聖書のこの有名なフレーズに、西洋人の言語観が凝縮されているのかもしれない。
人間は、「神」という言葉をもったことによって、神と出会ったのだ・・・・・・ソシュールの言うことも内田氏の言うことも、つまりはそういうことになる。
神によって「神」という言葉を持たされた。そうして神と出会った、ということでしょうか。
そんなことあるものか。
「神」というイメージ(概念)をもったから、「神」という言葉が生まれてきたのだ。
あたりまえのことでしょう。
人間は、「神」という言葉を持つずっと前から、すでに「神」というイメージというか概念というか、そんな心の動きをもっていたのだ。
僕は、直立二足歩行をはじめたことじたいが、すでに「神との出会い」の体験だろうと思っている。
直立二足歩行は、他者の身体とのあいだに「空間」を確保する姿勢です。
まず、誰もが四足歩行の姿勢をとっているために動きが取れなくなるほど密集しすぎてしまった群れの状態があり、そこからみんなで立ち上がっていった。
そうして、他者の身体とのあいだに、今までもつことのできなかった「空間」を発見した。
この「空間」は、いわば生き物としての生存のありようから逸脱(=超越)した「空間」だった。この「空間」によって、それぞれの個体の生存が守られた。
電車の座席で、おたがいの体がくっつき合わないようにちょいと席をずらす。これが、直立二足歩行のコンセプトであり、こんなことは、直立二足歩行する人間しかしないのだ。
直立二足歩行する群れは、もっとも弱い群れである。他の群れと戦ったら、ひとたまりもなく駆逐されてしまう。もともと四足歩行で動き回るようにできている身体の構造なのだから、動きは鈍いし、おまけに胸・腹・性器等の急所を晒してしまっている。戦って勝てるはずがない。
おそらく原初の人類の前には、奇跡的に天敵やライバルがいなかった。そうでなければ生き延びられるはずがない姿勢なのだ。
そして、森の中を駆け回って食料を探すにも、動きが鈍くてきわめて都合が悪い。
それでも、この超越論的な「空間」が、彼らにその姿勢を維持させた。他者の身体とのあいだに「空間」があるということ、それだけが彼らの生存の理由であり支えになっていた。
この「空間」を持たなければ、生き物の群れは、それぞれの個体が発狂してしまう。
たとえば、増えすぎた野ねずみの群れは、暴走し、なだれを打って崖から海に転落してゆく。それは、たがいの身体のあいだの「空間」を失い、ぶつかり合いながら発狂してしまったからだ。
群れをつくる生き物は、この「空間」がなければ生きてゆけない。
群れをつくる生き物にとってこの「空間」は「神」である。
原初の人類は、二本の足で立ち上がったことによって、この自然から逸脱した超越論的な「空間」を、「神」として発見した。
原初の人類にとってのこの「空間」は、人工的なものであると同時に、先験的な「自然以上の自然」でもあった。
この「空間」は「神」であった。
他者とのあいだのこの「空間」において、言葉が生まれ生成している。
「はじめに(神という)言葉があった」のではない。はじめに「空間」があり、そこから「神」という言葉が生まれてきたのだ。
人間は、「神」という言葉を持ってしまうような存在の仕方をしている。
人間は、この「空間」を持ったことによって、身体能力、すなわち労働する意欲と能力を失った。
身体能力を駆使して食料を獲得してゆく・・・・・・労働する本性は、動物こそが持っているのだ。
それに対して人間は、この意欲と能力を放棄して二本の足で立ち上がった。原初の人類は、「労働」を捨てたのだ。そうして、遊んで暮らすようになった。慣れない二本の足で立っているなんて、「遊び」なのだ。「遊ぶ」ことが、「生きる」いとなみになった。
直立二足歩行は、「労働」ではなく、「遊び」である。
そうして、言葉が生まれてきた。
言葉は、この超越論的な「空間」の上で成立している。
言葉もまた、根源的には、「伝える=労働」のための道具ではなく、「表現する=遊び」のためのものである。
言葉は、人間の「遊び」であって、「労働」ではなかった。それを、いつのころからか、「労働」にしてしまったのだ。それがたぶん、「共同体」の起源である。
しかし人類は、共同体が生まれる以前から、すでに言葉を持っていた。それは、言葉が、コミュニケーションしようとする「労働」ではなく、表現する「遊び」として生まれてきたことを意味する。
たとえばあなた、頭がライオンで体が人間という神の姿をイメージしこれを彫像にするということなど、ただの「遊び」でしょう。これを、2万年前のクロマニヨンがしていたのです。彼らは、「人間であること」から逸脱してゆく「遊び」をすでにもっていたのであり、それを人間であることの証しとしていた。
「労働」とは、人間になろうとする行為である。
それに対して「遊び」は、人間から逸脱しようとする行為である。
ここにおいてわれわれは、内田氏の人間観から決定的に訣別する。
人間から逸脱してゆくことが、人間になることなのだ。そうやって人間になったから、そこから逸脱しようとして「労働」をはじめたのだ。
われわれはすでに人間から逸脱してしまっているから人間になろうとするのであり、人間になろうとすることじたいが、人間であることからの逸脱なのだ。。
人間は、「労働」から逸脱した「遊び」という行為をすでに知ってしまったから、「労働」という行為を生み出したのだ。
内田氏は、いつも「成熟」という。人間として成熟を目指すことが、人間の証しなんだってさ。未熟な子供は「人間になりつつある」存在で、大人として成熟することによってはじめて「人間になる」なるのだとか。ああ、なんと陳腐で、なんと愚劣で傲慢な人間観であることか。われわれ現代人は、このていどの言説すら屠り去ることができずに停滞してしまっている。
「人間である」ことに居直ったって、おもしろくもなんともない。それは、人間として停滞してしまうことだ。心がよどんでしまうことだ。それでは「遊び」にならない。二本の足で立ち上がることにならない。