内田樹という迷惑・「神」の起源

神がいるから、「神」という言葉が生まれてきたのではない。人間は、「神」という言葉が生まれてくるような心の動きを持っているからだ。
「いまここ」の「外」に気づくこと、その「外」が「神」である。その「外」に気づきながら、しだいに「神」という概念がかたちづくられてきた。
あの山の向こうに行ってみたい、明日になったら行ってみよう・・・・・・「あの山の向こう」とか、「あの人」とか、「明日」とか、「昨日」とか、「子供のころ」とか、そんなふうに「いまここ」の「外」のことを思いながら、しだいに「神」という概念が生まれてきた。
その「外」に対する気づき方が、世界中の地域によって違っている。
キリスト教イスラム教と仏教と日本の神道では、それぞれいくぶんか「いまここ」のこの世界の「外」に対する気づき方が違う。
環境(生きている条件)の違い、それが、「神」という概念の違いになってあらわれている。
宗教を信じている人たちは、先験的に神が存在すると思っている。しかしわれわれは、人間の歴史のどこかしらで「神」という概念が生まれてきたのだと思っている。
五千年前には、キリスト教徒も仏教ともいなかった。それでも、人類はすでに「神」というイメージを持って暮らしていた。
人類が神というイメージを抱いた最初の考古学的資料は、2万年前のヨーロッパクロマニヨン人ネアンデルタールが進化した人類だと僕は思っている)による、頭はライオンで体は人間のかたちをした彫刻だろう。
ギリシア神話の神は、上半身が人間で下半身が動物の形をしている。
クロマニヨンのそれとは、上下が逆である。
ギリシア人が、人間の精神の下に動物の身体能力を持つことを「神」としてイメージしたのに対して、原初の人類は、人間の身体の上に動物の精神性を持つことに憧れた。
つまり、ギリシア人は動物の「身体能力=労働能力」に憧れたが、クロマニヨンは、「精神性」に憧れた。
労働が「精神」でなされるものになったからではない。ギリシア時代だって、労働は、畑を耕したり狩をしたり、身体で行うものだったのだ。
ただ彼らは、労働なんて「奴隷」のするものであって「人間」のするものだとは思っていなかった。あるいは、「身体能力=労働能力」を持った人間と「精神性」を持った人間によって人間の世界ができている、と思っていた。そういう世界観が、ケンタウロスなどの、下半身が動物で上半身が人間であるというイメージになっていった。
彼らにとって「神」であることの証しは、あくまで「人間の精神性」にあった。
しかし氷河期のクロマニヨンは、「動物の精神性」に「神」をイメージしていた。彼らは、動物の「身体能力=労働能力」に憧れたりはしなかった。強く怒ったり寒さにへこたれなかったり、そういう精神性に憧れた。そういう人間でありたい、と願った。
労働なんかしてもしなくてもいい、セックスするのが生きることだ、と思っていた。だから、神をイメージするにも、人間の身体が必要だった。「動物の精神性」を持てば、もっと強く激しくセックスができると思っていた。
ギリシア人であろうとクロマニヨンであろうと、身体能力=労働能力などというものは、生きることの重要な部分だとは思っていなかった。「完全な精神性」に憧れた。
野山を駆け回る能力など、たいした問題じゃなかったのだ。
ギリシア人は、セックスを超克して「完全な精神性」を得ようとし、クロマニヨンは、あくまで人間的なセックスの上に「完全な精神性」を求めた。
「奴隷」を持っていたか否かの違いだろうか。
いずれにせよ、ヨーロッパの歴史は、がんばってセックスすることからはじまっている。がんばってセックする人種だったから、セックスを超克しようとしていったのだ。
セックスは、労働だろうか。
そんなはずがない。労働の対極にある行為だ。
われわれは、セックスすることによって、労働の憂さを晴らしている。こころおきなくセックスしたいから、労働もする。労働の憂さを引き受けると、セックスのよろこびもひとしおになる。
ようするに、他者との1対1の関係にこだわってしまうのが人間だろう。
他者の「他者性」などと言うことじたいが、そもそも制度的なのだ。他者であることそれじたいが「他者性」なのだ。「私」の前に「あなた」がいるという「事実」、その「関係」じたいが「他者性」なのだ。
労働が社会との関係であるのなら、セックスは他者との一対一の関係である。
群れにたいする忠誠心などは、ほかの動物でももっている。しかし人間は、そこから逸脱してセックスに耽溺していった。
それは、衣食住の「生存」といういとなみから逸脱してゆく行為でもある。
人間は、よりダイナミックに生きることから逸脱してゆく。
「逸脱」の象徴として、人間の外に「神」を発見した。
生きてあること、すなわち人間であることからの逸脱、そこに「神」を発見した。
クロマニヨンの「半人半獣」の像は、そういうことを語りかけてくる。