内田樹という迷惑・夕焼けと最後の一日

若者は社会適合者になれるか。適合できるものもいれば、できないものもいる。適合者にならなければと空を仰いでいる若者もいれば、なれなくなってしまった若者もいる。
黙って働け、と言ったって、彼らが明日も生きてあることを誰が保証してやれるというのか。そうやって大人に命令され、身も心もすり減らして死んでいった彼に、きみの「最後の一日」は有意義だったとあなたはいえますか。
われわれが生きてある一日一日は、つねに「最後の一日」なのかもしれない。
「最後の一日」くらい、彼女とエッチして過ごしたい。ぼけーっと昼寝して暮らしたい。
人間ほど怠惰な生きものもいない、と言った哲学者がいます。それは、誰もが心の奥のどこかしらにこの一日が「最後の一日」だという思いを抱えているからでしょう。そう思うのは、おそらく人間性の本質なのだ。
働かないと生きていけない世の中だもの、働くしかないですよ。しかし、社会に役立つ人間になったり、結婚して子供を育てるというまっとうな社会人の暮らしを誰もがしなければならないという義務もない。
彼らが稼ぎの少ないニートやフリーターのままでいいというなら、それをやめろという権利は誰にもない。
憲法で保証されている「健康で文化的な暮らし」とは、働いて結婚して子供を育てることだけじゃない。毎日彼女とエッチしまくっていることや、ぼけーっと昼寝をして暮らすことのほうがもっと「健康で文化的」である場合だってある。
もしも明日死んでしまうとしたら、「最後の一日」をどう使うか。
生きてあるということは、次の瞬間死んでしまうかもしれないということです。「生きてある」とは「死んでいない」ということです。誰もが、どこかしらに「最後の一日」を生きているという思いを抱えて生きている。
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直立二足歩行を始めたばかりの人類にとってその姿勢は、急所は外に晒すし、動きは鈍くなっているし、外敵に襲われたらひとたまりもない姿勢です。それは、生き延びるためにはもっとも不都合な姿勢です。しかしそれによって、世界は輝き、他者にときめいた。そのとき人類は、生き延びることを断念して、「最後の一日」を生きようとしたのです。
そうして「最後の一日」を生きようとしてはじめた姿勢が、もっとも効率のいい生存をもたらした、というパラドックスの上にわれわれの生が成り立っている。
いずれにせよ、「最後の一日」を生きようとするのは、人間の本性であるといえるのではないかと思えます。

茜色の夕焼け空を美しいと思う。人はなぜ、「美しい」ものに感動するのだろう。
「最後の一日」を生きているとどこかしらで思っているからでしょう。それは「最後の夕焼け」なのだ。心の奥の「最後の一日」を生きているという思いが強いものほど、美しいものに対する感受性が豊かだ。
大人になってそういう感受性が鈍ってくるのは、明日も生きてあるということを前提にして生きているからです。
大人になるとは、人間性を喪失してゆくことです。しかし大人たちは、それこそが「人間」になることだと思っている。
子供にとっては、毎日が「最後の一日」です。現代の若者は成熟しない、という。彼らは、「最後の一日」という思いを手離そうとしない。
若者が働くことを嫌がってニートやフリーターや引きこもりになってしまうのは、きっとどこかしらに「最後の一日」を生きているという思いが疼いているからです。
言い換えれば、人が働くことがいやになるのは、この一日この瞬間を「最後の一日」だと感動してしまったときです。
朝のきらきらした町の景色に心が動いて、通勤電車に乗れなくなってしまった。そんな体験だって、きっとあるだろう。そのとき彼は、何かを悟った……。
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川端康成は、「朝(あした)に道を問わば、夕べに死すとも可なり」という言葉が好きだったらしい。小説の中によく出てくるし、そういう揮毫もしばしばしていたのだとか。
もしもその朝に決定的な悟りを得られれば、夕方にはもう死んでしまってもかまわない、というような意味です。
これで私の人生は完結した、これで終わった、という感慨です。
べつにそんなごたいそうな「悟り」でなくとも、一日一日がそうやって新しく生まれ変わったような気分で過ごせれば、という願いは、誰の胸にもどこかしらにあるにちがいない。
子供は、一日にひとつ、何か新しい発見をし、朝になったら生まれ変わっている。
われわれだって、やっかいな仕事をかたづけたら、新しく生まれ変わったような解放感を覚える。この世界が、輝いて見えたりする。
川端康成は、生まれたばかりの子供のような視線で人間やこの世界を眺めつづけていた作家です。そういう視線に、われわれ読者は、はっとさせられる。
生まれたばかりの子供は、いつ死んでもかまわない存在です。彼は、明日という時間など知らない。しんどい思いをして産道を潜り抜けてきたという解放感があるだけです。これでひと仕事終わった、という解放感と、新しく出会った世界や他者に対する驚きやときめきで、そのつど生が完結している。
「美しきものを見し人は、早や死の手にぞ渡されつ」という言葉があります。「すべては終わった」と思ったとき、世界は輝いて見える。

一日一日をそのつど完結させて生きてゆく、明日があることを勘定にいれない生き方をしたい。そういう思いはたぶん誰の中にもあるのだろうし、日本人はことにそう思ってしまう傾向の強い民族です。
西洋人は朝焼けが好きで、日本人は夕焼けが好きです。それは、未来志向の民族と、終わりのカタルシスを大切にする民族との違いです。
「最後の一日」を生きようとする日本人のそうした傾向がいいことか悪いことか、僕にはよくわからない。しかし、ニートやフリーターは「自己実現」の妄想に取り憑かれた者たちだ、という内田氏の分析には同意できない。。
それは、人間の根源的な存在のしかたと関わっている問題だろうと思う。
「神」という概念というかイメージ、というか世界観。人間の歴史はどの時点でそんな心模様になっていったのだろう。そんなことを考えながら、「労働することが人間の本性である」という内田氏の理念とは違う人間のかたちが探り出せれば、と今思っています。