内田樹という迷惑・季節の移ろいとやまとことば

ああ、昨日もまた「ばかがなにほざいていやがる」なんて貧相な言葉を使ってしまった。
keiさんから指摘された悪癖は、ちっとも直っていない。
おまけに、イカフライ氏のブログでも指摘されているのがわかった。
イカフライ氏とは、おたがい別々の場所で切磋琢磨してゆければ、と願っています。
僕は、内田氏どころか、誰もこのブログを読んでいないという前提でここまで書いてきた。夜中一人になって、とりあえず目の前の空間に言葉を吐き出さずにいられなかったから、ここまで書いてきただけです。
「読者」なんか、誰も想定していなかった。
内田氏の目に触れる機会があると思ったら、「ゲス野郎」なんて、そうかんたんにいえるはずがない。
「ネット社会」というもの対するイメージがまるでなかった。
ただ空しく空間に言葉を吐き出しつづけてきただけです。
keiさんから指摘されても、まだ「読者」を想定できなかった。今ごろになって、やっと、です。keiさんから「たのしみに読んでいる」といわれても、まだこの画面の向こうの「読者」をうまくイメージできなかった。keiさんの「言葉」に反応できても、その向こうの「人」は実感できなかった。
僕のイメージの中に「読者」という「人」はいなかった。
「言葉」があり、「空間」があっただけです。
それでいい、と思っていた。
「ゲス野郎」とか「ばかがなにほざいていやがる」なんて、一種の射精感覚なのでしょうかね。まったく、卑猥です。
マスターベーションか何か知らないが、とりあえずそうしないとこの卑小な自分と折り合いがつけられなかった。書かずにいられないことに追い立てられて書いてきただけです。ただ、キーボードを打っていただけです。
「人」を意識するとは、「作品」として意識する、ということでしょう。そういう意識がまったくなかった。
だが、今回の騒動で、この画面の向こうがわに「人」がいる、とようやく少し実感しはじめている。ポジティブなこともネガティブなことも含め、いろんな意味で。
そして、そういう「人」を意識したら、もうそんな安っぽい言葉をかんたんには吐けない。
いずれにせよ、自分の刻んだ言葉の向こうに「人=読者」を意識するのは、とても難しいことだ。我ながら、アマチュアだなあ。
ワイドショーのレポーターと同じですよ。彼らもまた、画面の向こうの「人」なんか意識していない。ただひたすら「画面」を意識しているだけだ。だから、あんなにも恥知らずになれる。彼らは、レポーターとしてはプロだろうが、人間としてはアマチュアなのかもしれない。
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季節は、移ろう。
やまとことばの「はる」「なつ」「あき」「ふゆ」は、語源的には、「名詞」ではなく、「動詞」あるいは「形容詞」であったのではないだろうか。
「はる」の「る」は、「する」とか「みる」とか「くる」というときの「る」。動詞の格助。
「は」は、「はかない」の「は」。ぼんやりしたさま。「は」は、体の力が抜けてゆくような発声。春になれば、厳しい冬の季節が終って、人の心も空気の気配もぼんやりしてしまう。そういうさまを「はる」という。
「なつ」の「つ」は、「棄(う)つ・打つ」とか、「果つる」とか「あはれなりつる」の「つ」。「行きつ戻りつ」の「つ」。行為の完了をあらわす。
「な」は、身体の中が空っぽになってしまう心地で発声される音韻。「あなた」のことをやまとことばで「汝(な)」というのは、「あなた」が「私」の身体の外の存在だからです。私の意識は、「あなた」を認識するとき、私に対する意識が消えている。意識は、「図」と「地」を同時に認識することはできない。「あなた」を認識するとき、私自身に対する意識が消えている。そういう感慨体験から、「な(あなた)」という言葉が生まれてきた。「泣(な)く」ことは、自分を見失ってしまうことであると同時に、泣いたあとに体が空っぽになったようにさっぱりする行為でもある。
夏がくると、異次元の世界が到来したような感覚を覚える。灼熱の夏は、もっとも強い印象をもたらすクライマックスの季節です。その一回かぎりの存在感の強さと、それにともなって自分を見失ってしまうような感慨から、「つ」という音韻が当てられているのではないだろうか。
異次元の気配を体験すること、あるいは異次元の気配が現れることを、「なつ」という。
「あき」の「き」は、「女ありき(=女がいた)」というときの「き」。時間の完了の意。「美しき」の「き」は、決定の感慨。秋は、一年が終わって一年のかたちが定まる季節。収穫するということだけでなく、夏というクライマックスの季節が終わり、木の実が熟し落ちてゆく、木の葉が色づき散ってゆく、そういう「おわり」の季節なのだ。
「あ」と何かに気づき、「ああ」と長嘆息する。「秋(あき)」には、そういう感慨がある。
「あき」という体験あるいは現象のことを、「あき」という。
「ふゆ」の「ゆ」は、「思ほゆ(=自然にそう思ってしまう)」の「ゆ」。
そして「ふ」は、「住まふ」「語らふ」の「ふ」。布のことを「ふ」という。布は、「織る」という同じ行為を反復・継続することによって出来上がってゆく。反復・継続することを「ふ」という。「住まふ」は、暮らしを反復・継続すること。「語らふ(=語り合う)」は、語りを反復・継続する行為。「腑(ふ)」とは、内臓、すなわち肺のこと。「ふうっ」と息を吐く。息を吐く行為を反復・継続している臓器のことを「腑(ふ)」という。息を吸う行為は、言葉を吐き出す行為にならない。息を吐く行為とともに、言葉が吐き出される。だから、「反復・継続」されるさまを言葉にしようとすると、自然に「ふ」という発音になる。「ふ」という発音は、息をすることの反復・継続に対する感慨から生まれてきた。
「冬」とは、一年の四季が反復・継続されてゆくことにたいする感慨が生まれてくる季節のこと。自然に一年の反復・継続を思ってしまうから、「冬」という。それは、たぶん語源的には、「思ほゆ」と同じ動詞だったのだ。冬は一年の反復・継続の織り目、「布(ふ)」の「ふ」、そういうことを自然に思わせられる体験を、「ふゆ」という。
やまとことばは、もともと「心の動き」をあらわす「動詞」なのだ。
「はる」も「なつ」も「あき」も「ふゆ」も、それらの言葉は、季節の「うつろい」をあらわす「動詞」の姿をしている。
季節も人の心も、移ろってゆく。