内田樹という迷惑・やまとことばの「くま」

先日、有名な登山家が、奥多摩の登山道で熊に襲われたそうです。
重傷だとか。
熊にどんな意図があるのかしらないが、熊は怖い動物だ。
怖いから「くま」という。
怖いことを、「くま」という。それが、やまとことばです。
だから、畏れの対象としての神も「くま」ということがあるし、先が見えなくて不安になる曲がり角のことも「隈(くま)」という。
和歌山県の熊野の「くま」は、熊が住むところだからそう呼ぶのではない。平地である「野(の)」に熊が住んでいるはずがない。「野(の)」とは、村(居住区)の外に広がる、人間の手が入っていない平らな場所のことです。つまり、熊野の「野(の)」とは、海のことです。そしてそこは、太平洋の荒波が逆巻く海です。怖い海です。だから、「熊野(くまの)」という。
熊が襲ってくる、と書いて、「熊襲(くまそ)」という。大和朝廷の支配者たちは、九州の「まつろわぬ」者たちのことをそう呼んだ。彼らがそう名乗っていたわけではない。また、彼らが熊みたいに毛むくじゃらであったのでもない。一部の学者たちは、大和朝廷に追われた彼らが北海道まで敗走してアイヌになった、というようなことをいっている。くだらない。あのころの九州に、アイヌの先祖などいなかったのだ。
大和朝廷に刃向かうほどの人たちなら、死ぬまで戦うか疲れ果てて降伏するかのどちらかに決まっているじゃないですか。
それに、大和朝廷は、土地が欲しかったのではない。労働力としての「人」が欲しかったのだ。だから、その地を平定したということは、土地を手に入れたということではなく、労働力としての人を連れてきた、ということです。
そのころの日本列島には、山にしか道がなかった。牛馬が通れるような道ではないし、牛馬で輸送するという習慣もなかった。土地を奪って大和盆地の人が入植してゆくということなどなかったし、そこから米を運ばせるという輸送手段もなかった。
大和盆地=大和朝廷を富ませるためには、大和盆地の生産力を上げるしかなかったのです。
熊本に熊やアイヌみたいに毛むくじゃらな人間が住んでいたなんて、嘘っぱちに決まっている。
アイヌは東北の「まつろわぬ」人びとが北海道に移住していったのだ、という学者もいるが、何いってるんだか。北海道に移住していったのは、本土の人間と同じ顔かたちをしていた「まつろわぬ」人びとだったに決まっている。船でしか渡ることができないのだから、おそらく「山の民」ではなく「漁民」だったのでしょう。
アイヌは、ずっと昔から北海道に住んでいた人々(多くは山の民)に決まっている。
僕は、学界の定説など、ほとんど信用していないし、そんなことを盾にして語ろうという趣味もない。
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熊のように襲ってくる山の民だったから、「くまそ」と呼んでいたのだ。
「くまそ」の「そ」は、「そこ」「それ」の「そ」。方向の語意。「ちょいと<そこ>のもの(=<それ>)をどかしてくれ」というときの「そ」。「ああそうか」といえば、ある方向に向かって納得すること。
「くまそ」の「そ」は、「あいつら」というような感じでしょう。
そこに熊みたいに襲ってくる山の民がいる、という感慨から「くまそ」という言葉が生まれてきた。それだけのことだろうと思う。
「くまそ」の「くま」だって、もともとは「熊」という意味ではなかった。怖いやつらだ、という気分があっただけのことでしょう。それを文字にするときに、漢字の「熊」を当てたことによって、しだいに熊のイメージになっていった。
熊本人は、「肥後もっこす」といって、九州でいちばん保守的で頑固な県民性を持っている。たしかに「まつろわぬ」者たちの末裔なのだ。だからこそ、北海道まで逃げてゆくということは、彼らに似合わない。
熊本は、鹿児島と福岡を往還するときのちょうど曲がり角の土地です。曲がり角のことを、やまとことばで「隈(くま)」という。曲がり角の中心になる場所だから、「くまもと(=隈元)」というのかもしれない。
とはいえ、僕の頭の中ではすっかり「まつろわぬものたち=くまそ」というイメージが出来上がっていて、つい「東北の熊襲」と書いてしまった。それは、不用意でした。
しかし、東北の「まつろわぬものたち」がアイヌであったとか、北海道に渡ってアイヌになったとかという説もじつにいいかげんで、アイヌ縄文時代から北海道に住んでいた先住民であり、本土の歴史にアイヌの痕跡など何もない、と思っている。
いずれにせよ、知識を競い合うような論争はほかでやっていただきたい。僕は、古代人の心に触れてみたいと願っているだけです。
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アイヌの「熊祭り」のことを考えたことがあります。
彼らにとって熊はとくべつな動物で、その肉を重要な蛋白源としたり毛皮を冬の防寒着にしたり家の敷物に利用したりしながら、同時に神とも仰いでいた。
熊と共生していた。そういう篤い信仰心や自然に対するつつしみぶかさが熊祭りになった、というようなことを中沢新一氏や吉本隆明氏が語っていました。
僕は、こういうセンチな思い込みは嫌いです。
江戸時代の人びとが家の柱やかまどに弘法大師のお札を貼ったり、傘お化けやろくろっ首のおばけをイメージしたりする迷信深さだって、信仰心は信仰心です。アイヌの熊祭りとどちらが本格的な宗教心であったかというような比較など無意味だと思っています。
アイヌの人びとが自然に対する慎み深いメンタリティを持っていることを否定するつもりはありません。しかし、信仰心にほんものもにせものもない。どちらも、この世界の外部としての「神」や「魔物」に気づくという観念行為に違いはない。権力者が自分に都合のいいように神をまつるのも、それはそれで「篤い信仰心」でしょう。
それぞれの生活の流儀として神を信仰する。社会の構造とか自然環境とか、それぞれの生きるかたちにしたがって神を信仰する。
北海道の熊は、ヒグマです。本土のツキノワグマよりもっと獰猛です。人間だって、平気で食ってしまう。
アイヌの人びとが山で暮らしていたら、女子供をはじめ、熊に食われるという事件はいくらでも起きてくる。とくに原始時代は、なおひんぱんに起きていたことでしょう。
たまらないことです。彼らは、そういう歴史とともに生きてきたのです。彼らの、世界的に見てもたぐいまれな「つつしみぶかさ」は、そういう歴史を支払って育ってきたのだ。
単純に「信仰心」などといってもらっては困る。
であれば、熊を殺して食うことは、熊に食われた人の肉を食うことになるのか。だったら、とても食うことなんかできない。しかし、食わないと生きてゆけない。
彼らは、そういう切羽詰った決断をしいられながら、熊祭りという信仰の儀式をつくっていった。
熊の肉を食うことは、熊に食われた人の霊を人間の世界に連れ戻すことだ、彼らはそう考えた。
単純に、報復という気分もあったかもしれない。
かがり火を焚いて熊の肉を食いながら、高らかに鎮魂の歌を歌う。そうすれば、熊に食われた人の霊が、村の夜空に吸い込まれてゆく。
彼らは、熊に食われた人の霊を慰めているのだとは、表立っては言わない。言えば、悲しみや無念さがよけいに深くなる。誰もがその意図を胸の奥に秘めながら、あくまで熊の身体に神が宿っていることにして、その肉を食らい、歌う。そのとき彼らの悲しみは、ひとつの浄化作用をともなってどこまでも高揚してゆく。
集落全体がひとつのトランス(憑依)状態になる。
「自然の恵みをいただく」とか、そんなお気楽なものじゃないはずですよ。中沢先生。
それこそ、命がけの鎮魂なのだ。
人間の歴史は、「自然の恵みをいただく」などという経済行為(労働)に命をかけて流れてきたのではないし、宗教がそんなところから生まれてきたのでもない。
人間にとっては「遊び」のほうがもっと大事なのであり、それが、宗教が生まれてくる契機になった。
「労働」よりも、「鎮魂」という遊びのほうがもっと大事なのだ。