内田樹という迷惑・「語り合う」ということ

ファミレスなどで、まわりの若者たちのグループが語り合うのを聞いていると、男と女の資質の違いがよくわかる。
女子高生などの若い娘のほうが、ずっと言葉に敏感だ。
彼女らは、「チョー受ける」とか「なによウゼー」などと合いの手を入れながら、どんどん会話を盛り上げてゆく。
それに対して男子だけのグループでは、騒がしく耳障りな笑い声ばかりが飛び交っている。それで盛り上がっているなんて、芸のない話だ。
若い男の素っ頓狂な笑い声ほど耳障りなものもない。みずからの言葉に対する無能ぶりを晒しているだけだ。無能だから、体で表現するしかない。
しかし女子たちは、すでに言葉が身体化しているから、反応する言葉が自然に出てくる。
若い娘たちのおしゃべりは、世間で言われているほどうるさくはない。小気味よいリズムと流れがあって、ときどき感心させられる。
男子たちの馴れ合った会話の中での、あの店中にこだまするようなばか笑いの声のほうが、ずっと耳障りだ。
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この国では、女どうしの会話の文化のほうが発達している。
氷河期明けの縄文時代の8千年間、ほとんどの女たちは、女子供だけの小さな集落をつくって暮らしていた。この国の言葉は、その井戸端会議から発達してきた。
一方男たちは、同じていどの小さな集団で山野をさすらいながら、女たちの集落を訪ね歩いていた。
ひたすら歩き回り、狩に駆けまわっている男たちのあいだに、それほど多くの言葉を必要としない。言葉は、女たちから教えられた。男は寡黙であるのがいちばんというこの国の伝統は、男たちのあいだから生まれてきた言葉がほとんどなかったということ、男たちの言葉に対するセンスの貧しさから生まれてきたのではないだろうか。
そして古代の婚姻が「姉さん女房」というかたちが主流だったのは、男女の会話において女が主導権を握るという縄文以来の長い伝統があったからだろう。古代の天皇家は、ほとんど姉さん女房だった。
邪馬台国における、姉の卑弥呼が呪術を司り弟が実務に当たっていたという「魏志倭人伝」の記述も、じつは夫婦だったのかもしれない。また古代の女子供だけの家族制度においては、腹違いであればきょうだいは別々に育って父が誰であるかということなどとくに問題にならなかったから、そのようなかたちの近親婚はめずらしくなった。
とにかく古代においては、近親婚であろうとあるまいと、夫婦のほとんどが姉と弟の関係だったのだ。
で、卑弥呼が死んで弟が首長になったが国が乱れてしまい、卑弥呼の妹を立てたらおさまった、という話にしても、呪術がどうのという以前に、家族も共同体も女にリードされるというかたちでないとしっくりこないという風土があったからではないだろうか。
この国の言葉は、女がつくった。言葉によって共同体がいとなまれ、言葉をつくった女が共同体を支配していた。
この国の男たちの会話の能力は貧しい。
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一方氷河期明けの西洋では、人口爆発が起こり、女たちは家に閉じこもって育児に専念するしかなかった。そして男たちも早くから家族の一員になって食料調達の役目を担っていった。
縄文時代の女子供だけの集落では、ほとんど女だけで食料を調達していた。男が運んでくる狩の獲物は、あくまでまれの僥倖だった。そういうことは、三内丸山遺跡の出土状況が示している。
そして縄文時代の8千年間にほとんど人口は増えていない。それは、男が家族の一員になるという婚姻制度も共同体もなかったことを意味する。
歴史家は、それを気候と食料の関係で説明しようとしているが、そうじゃない。あくまで婚姻制度と共同体の問題なのだ。人口が増えれば、そのぶん食料も工夫して調達されてゆく。食料調達がうまくいくようになって人口が増えたなんて、話があべこべなのだ。縄文人は、すでに米作りを知っていた。それでもそれが普及しなかったのは、人口が増えなかったからだ。そんなことを大々的にやる必要がなかった。弥生時代になって人口が増えたから、米作りが普及していったのだ。そしてそれは、大陸からそのノウハウが伝えられたからではもちろんなく、そのころになってはじめて女子供の家族のいとなみに男が参加してゆき、その結果として人口爆発が起こり、米作りが普及していったのだ。
とにかく西洋では、男たちが早くから家族のいとなみに参加してゆくという婚姻制度が定着し、その男たちが家族の鬱陶しさからの息抜きの場として男たちの「サロン」をつくり、そこで言葉が発達していった。
縄文人はせいぜい百人ていどの集落しかつくらなかったが、そのころ5千年前のヨーロッパでは、すでに一万人を越える都市が生まれていた。それは、男たちの会話の場が広がり、そこから戦争が起こるなどして、そのような相乗作用によって共同体へと発展していったからだ。
男たちによってつくられた言葉は、論理的で、共同体の運営に適している。また、戦争によって奴隷が調達されるようになると、奴隷を働かせるために言葉もなお論理的な伝達のための道具の要素を帯びてくる。
西洋人が他者の「異質性」と言うとき、奴隷という異質な他者との関係を持ち続けてきた歴史がある。
縄文人の女の井戸端会議から生まれてきたやまとことばは、あくまで「感慨の表現」であって、論理的な伝達の機能は希薄だ。そこに、西洋のことばとやまとことばとの本質的な違いがある。
西洋のことばは、男たちが共同体をつくってゆくための道具として発達してきた。
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言葉は、会話のための道具か。
しかし、たとえば西洋の歴史における奴隷との関係において、会話の必要はない。こちらの意思を伝えることができればいいだけだ。戦争をする際のチームワークに必要なのも、会話ではなく、あくまで正確に意思(命令)を伝えることだろう。
そのとき男たちの意識は、家族の外に向かっていった。そのような外に外に向かう意思が、言葉を伝達の道具にしていった。
また、直立二足歩行する女の性器は、股のあいだに隠されている。だから男は、どうしても見ようとする能動性を持ってしまう。
それに対して男の性器は、すでに女の前に晒されている。だから女は、見ようとしない。すでに男の性器から見られてしまっており、目に飛び込んでくるその画像を受け止めるだけだ。
女の意識は、外に向かわないで、閉じようとする。女の集団の言葉は、すでに存在する仲間と仲良くするためだけの機能として、閉じられている。縄文人の集落が8千年ものあいだほとんど小さな規模のままだったのは、女だけの集落だったことを意味する。大きくなりかけては分裂してしまうということを繰り返してきたのだろう。
彼女らは、言葉に伝達の機能を与えて集団の規模を大きくしていこうとする意思はなかった。閉じられた空間で、それぞれが感慨を表現し合うものでありさえすればよかったし、それだけを言葉に託して表現を洗練させていった。
縄文女たちの言葉は、まさに「仲良く語り合う」ための道具だった。
しかし西洋の男たちの言葉は、みずからの意志を表現し伝えるための道具だった。
仲間うちで閉じてゆく言葉と、仲間を増やそうと広がってゆく言葉。
同じ言葉だといっても、けっして同列には論じられない。
たぶんやまとことばの方が、ずっと原始的で根源的なのだ。
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西洋の言葉が、みずからの意思を「語る」道具であったとすれば、やまとことばはたがいの感慨を「語り合う」道具なのだ。
「語る」と「語らふ」、この国においてどちらの言葉が先に生まれてきたかといえば、かならずしも前者とはいえない。
縄文人の女たちに、みずからの意志を語ろうとするような心の動きはなかった。あくまで語り合うことに言葉を使っていたのだ。「語る」ことが発展して「語り合う」という行為が生まれてきたのではない。「語り合う」ことをしているうちに「語る」ということをおぼえていったのだ。
みんなが集まって、わいわいがや奇声を発し合う。原初の人類のそんな生態から言葉が生まれてきたのだろう。
人間は食うために生きるにあらず・・・・・・食うことが目的で人間の知能や文化が発達してきたのではない。
みんなと一緒に生きてあることのよろこびを止揚していっただけだ。しかしそれは、そんなよろこびを止揚せずにいられないくらい、生きてあることの不安や鬱陶しさを根源的な部分で抱えているのが人間存在である、ということでもある。
「語る(あるいは語らふ)」の「かた」は、「こと=言葉」が転化した表現である、と小林秀雄は言っている。
「こ」は、「ここ」の「こ」。「こども」の「こ」。つまり、身近なものを見つめている感慨から「こ」と発声される。
「と」は、「時」「疾(と)き」「説く」「溶く」「解く」「(髪を)とく」「得」の「と」。すべて新しい事態に遭遇している感慨から発声される。変化することに対する感慨。「戸(と)」の外に出て新しい空気を吸い、新しい人が戸を開けて訪ねて来る。「戸(と)」は、新しい事態に遭遇する場所なのだ。
「と」と発声するとき、声が体じゅうに響いて、体に変化が起きたような心地になる。
「こと」とは、身近において新しい事態が生まれること。目の前のその人とのあいだに起きる変化、すなわち新しい驚きやときめきや親しみや悲しみが生まれる体験に対する感慨が「こと」という発声になった。だから、やまとこばにおいては、「こと=言葉」も「こと=事」も、同じなのだ。
そして「らふ」の「ら」は、「われら」「彼ら」の「ら」。集合の語義。
「ふ」は、「腑」。内臓のこと、あるいは分別(考え)。「ふう」と息を吐く。もっともたよりない発声で、だからかえって「内臓=腑」を意識させられる。もともと声を出すことは、声とともに体に対する意識が消えてしまう効果を持っているが、「ふ」という発声はその効果がいちばん薄く、意識が「内臓=腑」に残ってしまう。
縄文人に「内臓」という意識がどれだけあったかわからない。単純に体の中のことを「ふ」と言っていただけかもしれない。
「ら」が仲間で「ふ」が体の中、「らふ」とは、仲間うちのこと。
もちろん「らふ」は一般的には「さすらふ」というように動詞の接尾語に使われるのだが、語源的には「仲間うち」のことで、仲間うちで何かをすることを「らふ」というようになっていったのかもしれない。
いまどきの若者が「お茶する」というように、仲間うちで「言葉する」ことを「語らふ」といったのだろう。縄文人にとっての「言葉する」ことは、「語る」ではなく、「語らふ(ことらふ)」だったのだ、たぶん。
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日本には、「語る」文化がない。
日本の政治家は演説が下手だとよく言われる。それは、言葉における「伝達」の機能が希薄だからだろう。
「語る」とは、伝達する行為なのだ。
その代わり、「語らふ」文化が発達した。「笑う=わらふ」も「らふ」という仲間うちの意味を含んでいる。日本列島の住民は、言葉の発生のときからすでにそのことが集団の行為であるという自覚を持っていた。「語らふ」ことは「わらふ」ことでもあったのだ。
言葉は、伝達の目的を持って生まれてきたのではない。仲間うちの親密感を増す行為として生まれてきたのだ。
だから、はじめに「語らふ」という言葉があった。
「語る」ことは、言葉に伝達の機能を持たせた共同体的な行為である。それに対して「語らふ」ことは、共同体以前の、あるいは共同体から離れたあくまでプライベートな仲間うちの行為なのだ。
ヨーロッパでは都市国家という小さな単位の共同体が発達したというが、この国の昔では「郷(ごう)に入らば郷に従え」というように、村よりももっと小さな「郷」という単位で「世界」を形成してきた。
良くも悪くもわれわれ日本列島の住民は、言葉を伝達してゆく異質な「他者」との関係よりも、すでに「感慨」を共有している仲間うちの関係から言葉を洗練させてきた。
縄文人は、8千年のあいだ、100人以上の集落をつくらなかったのだ。
他者の「異質性」を認識することを哲学のアプリオリのようにいうのも、考えものである。異質な他者を説得するための道具として西洋のことばが発達してきたとすれば、やまとことばにおいては、それが断念されている。断念しつつ、人間としての根源における「感慨」を共有していった。青い空の何たるかなんて、どうでもいい。青い空が目にしみるその感慨を共有していったのだ。やまとことばにおける「そら」という言葉は、空を説明しているのではなく、「そら」と発声する感慨が表現されているだけである。だから「そら、見たことか」と言っても「そら、あきまへんわ」というように使ってもべつだん支障はない。「そら」とは、生きていてふと世界に気づかされる感慨のことをいう。
やまとことばにおいて他者は、「私ではない」ということにおいて、すでに「異質」なのだ。だから、「説得する=伝達する」ことが断念されている。
他者の「異質性」を自覚しない仲間うちのやまとことばは、しかしさらに根源的なところで他者と共有している「感慨」が自覚されている。
他者は、異質であることにおいて他者であるのではなく、他者であることそれじたいが異質な存在であることの証しなのだ。やまとことばは、説得することも愛することも断念している。そういう認識のせつなさの上に、「語らふ」道具としてのやまとことばが成り立っている。
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内田氏は、「ときめきの倫理学」において、「異質な他者に対してそれでも身をよじるように関係を求めてゆくのが愛である」などと言っている。言い方はせつなげだが、他者をたらしこもうとするスケベ根性が見え隠れしている。
やまとことばにおいては、すでにそんなことは断念されている。しかしその代わり、もっと深いところで生きものとしての「感慨」を共有しているという信憑がある。この信憑によって、説得することも愛することも断念している。
われわれが、内田氏のその言いざまに対して「おめえなんか他人をたらしこんでいるだけじゃないか」といえば、本人は、「言葉の力によって説得しているだけだ」と答えるだろう。しかし、説得するということじたいがスケベ根性なのだ。
人は、何かに対する「信憑」なしに「断念」することはできない。せつなく何かを断念しているということは、べつの何かを信憑しているということだ。他者の説得を断念するということは、もっと深いところで他者と共有している何かを信憑することだ。
そういう「信憑」のない者が「身をよじるようにして」説得しにかかる。たらしこみにかかる。
「他者の異質性」といえば聞こえはいいが、説得しようとすることは、他者を信じていないことだ。そういう「不信」の上に「他者の異質性」といアプリオリが成り立っている。
なにはともあれ、生きているものにとって「断念する」という心の動きは大切だ。誰もが、いずれはこの生を断念するという認識を持たねばならない事態に立たされる。そのためのトレーニングとしても、「断念する」ことは大切だろう。
生きてゆくということは、過ぎてしまった時間を断念してゆくいとなみにほかならない。
スケベったらしく「身をよじる」ようなことばかりしていちゃだめなのだ。
説得なんかしなくていい。「みんなと一緒にいる」という感慨さえあれば、生きてゆける。
たとえば昔の下町長屋の人びとは、たぶんそういう感慨だけで暮らしていたのだろう。誰も「説得」しようなどと考えなかった。
やまとことばは、「説得する=伝達する」ことを断念している。それが「語らふ」ということであり、「みんなと一緒にいる」という感慨なのだ。
現代の女子高生たちは、まさにそんなタッチで言葉と戯れ合っている。