祝福論(やまとことばの語源)・[ことだま]

「新しい」ということを、英語で「ニュウ」といい、やまとことばでは「新(にひ)」という。
なんだか似ている。
実際、日本列島には、新しいことを「にゅう」という地方もあるのだとか。
しかしだからといって、それがイギリスから伝わったことばだとは誰も思わないでしょう。
やまとことばは古代のインド・タミール語と似ているからそこから伝わったのだといっている学者もいるが、そんなことがあるはずないじゃないですか。
たんなる「共時性」というやつだ。
縄文時代弥生時代の焼き物の文様が大陸のものと似ていると、歴史家はもういともあっさりと大陸から伝わったものだと決めてかかる。しかし、あとから日本列島のもののほうが古かったことがわかったりして、妙な言い逃れをしなければならなくなる。
人間のすることだもの、べつに伝わらなくても似てくることはいくらでもある。どちらも、飯食ってくそしてセックスして生きている人間なのだ。
共時性」ということを、あなたたちは甘く見すぎている。それを非科学的なことだと片付けることのほうが、よほど非科学的なのだ。
五千年前の世界でもっとも文明が発達していたのは、エジプト、アラビア、インド、中国の四大文明の地域でしょう。しかし、そのころ(縄文時代)の日本列島の住民がことばを持っていなかったかというと、そんなはずがない。ただ、国家という愚劣なものを持っていなかっただけのことだ。そして、その、国家が存在しないところで育っていったというところに、やまとことばの特異性がある。
やまとことばは、良くも悪くもそんなグローバルなことばではない。そうやってやまとことばの語源を大陸のことばとつなげて考えようとするのは、やまとことばを愚弄していることであり、そんなふうに考えているかぎり、けっして語源には届かない。
中国語だろうと朝鮮語だろうとアラビア語だろうとギリシャ語だろうとフランス語だろうとスペイン語だろうと、やまとことばと似たようなことばはいくらでもあるにちがいない。
同じ人間の口から出てくるのだもの、そういう偶然の一致はきっといくらでもあるさ。
そうやって似ているということは、そこから伝わったということではなく、それらのことばと同じくらい古いことばだということを意味しているだけだ。
そのとき「新しい」ということに対してイギリス人も日本列島の住民も同じような感慨を持った。同じ人間だもの、そういうことはいくらでもありうる。
そして、陸続きの大陸ならそうやってことばが伝わってゆくケースも多くあるだろうが、2千年前までの日本列島はまったく孤立した島国だったのであり、その縄文時代の8千年あいだにやまとことばの基礎がおおかた出来上がっていたかもしれないのですよ。
やまとことばの源流は、朝鮮や中国やインドにあるのではなく、おそらく縄文時代にあるのだ。
やまとことばは、良くも悪くも孤立した島国で育ったことばなのです。孤立した島国ならではの人と人の関係、世界観、感慨、そういうことの異質性というのはたしかにあるわけで、その異質性に、人類史の興味深い実験があったのだと僕は思っている。
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豊葦原の大和は「言霊(ことだま)の咲きはふ国」だ、という。
古代人のこの言い方は、外国を意識している。
仏教とともに文字が入ってきたり帰化人がやってきたりして、大陸の人びとがどんなことばを使っているかということが、ひとまずわかった。
そして、自分たちとはずいぶん違う性格のことばだと思った。
どうもうまくなじめない。
自分たちにはやっぱり、やまとことばがいちばんしっくりくる。
あらためてやまとことばと大陸のことばとの違いがわかった。
そんな気分から、「言霊(ことだま)の咲きはふ国」といったのだろう。
外国のことばを意識しなければ、わざわざこんな自画自賛はしない。
そうして、漢語とともに国家建設が進むにつれて、その反動としてやまとことばを再認識するムーブメントが起こってきて和歌を詠むことが広がり、万葉集が編纂されていったのかもしれない。
万葉集の歌は、99パーセントやまとことばで詠まれているのだとか。
それは、人々のやまとことばに対するこだわりの表出でもあった。
つまり、「言霊(ことだま)」に対するこだわり。意味作用の強い大陸のことばにはそれがなくて、感慨の表出を基礎としたやまとことばにはある、ということがあらためてわかった。
国家の建設には大陸のことばや文字が必要であるが、個人的な暮らしの中の人と人の関係や自然とのかかわりは、どうしてもやまとことばのタッチでなければうまく処理できない。そういう暮らし中の喜怒哀楽やカタルシスを汲み上げてゆくいとなみは、やまとことばを交し合うことの中にしかない。
大陸のことばで恋なんかできない。友情を確かめ合うことなんかできない。自然と向き合うことの感慨は、やまとことばでしかわいてこない。
国家建設がもう避けがたい勢いで盛り上がってゆく時代だったからこそ、やまとことばに対するこだわりもあらためて切実に実感されていった。
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やまとことばは、大陸の言葉に比べて驚くほど意味作用が希薄で、その代わり深い感慨の表出という機能を持っている。意味を伝達するためのことばではなく、感慨を表出し共有してゆくことばなのだ。
「言霊(ことだま)」ということばが生まれてきたゆえんも、おそらくそこにある。
語源としての「ことだま」の「たま」は、深いところにある感慨の「芯」のようなことをいったのであって、「霊魂」とか「霊力」などという迷信じみたことを意味しているのではない。
中西進氏は、「ことだま」のことを「ことばが持っている霊力」とかんたんに規定してくれているが、それは、共同体が発達して呪術のようなものに強くこだわるようになってきたために付与されていった意味だ。
古代人は知能が未発達だから迷信深かったなんて、思い上がった現代人の偏見であり、愚かな先入観にすぎない。
たぶん大陸から入ってきた仏教にたきつけられた結果だろうと思うが、古代人の迷信は平安時代に最高潮に達したのだが、共同体の制度や貨幣経済が定着してきた江戸時代の人びとはもっと迷信深かった。
平安時代の宮廷人は大いに「悪霊」におびえていたが、庶民はもっとのんきなリアリストだった。たとえば、そのころ描かれた絵巻物である「地獄草紙」や「餓鬼草子」には飢えてやつれ果てた人間の姿がじつにリアルに描かれていて、けっして宮廷人のように、イメージが悪霊や妖怪の姿に飛躍してしまうというような「迷信深さ」は見せていない。
それに比べたら、江戸時代の浮世絵のあの馬鹿でかいペニスの表現は、それ自体ひとつの「迷信」であるわけで、そのころの稲荷信仰の隆盛も、「狐憑き」などという精神錯乱が蔓延していたからであり、それは、平安時代の宮廷人の「迷信」が庶民のレベルまで下りてきたということを意味する。
そうして現在の「スピリチュアル」のブームなどは、江戸の庶民も真っ青の迷信深さを示しているではないか。
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原初の人類が自然の森羅万象の不思議に驚き、そこに「神」を見出していったことと、共同体の制度に浸された後世の人間たちがむやみに「霊魂」などという概念をもてあそんで一喜一憂している「迷信」とは、また別の心の動きなのだ。
幼児は、自然の森羅万象の不思議に大いに驚いている。しかし彼らは「霊魂」などという概念のことはよくわかっていない。もう少し知恵がついてきて、まわりから教えられ、もともと大いに驚き不思議がっていただけに、ああその不思議とは霊魂のことかと納得してゆく。
それと同じようなことだ。
国家が成立する以前の古代人は、人間の「外部」に対する驚きを「神」と呼んでいただけなのだから、人間の心や人間の生み出したことばに、「神」とか「霊魂」などという概念を抱いていたはずがない。
まず人間の外部たる「神」に「霊魂」や「霊力」を見出していったのであり、そのときの人びとが自分たちの心やことばを「たま」といっても、それは「霊魂」や「霊力」のことではなかったにちがいない。
語源における「たま」は、「霊魂」や「霊力」のことだったのではない。
古代人にそんな「迷信」はなかった。
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古代人の「言霊(ことだま)の咲きはふ国」という言い方には、それほど呪術性は感じられない。ただ、「みなが深い感慨を交し合っている国」というような意味だろう。つまり、人びとが仲良く幸せに暮らしている国だという感慨をあらわしているだけではないのか。
「霊力」は、「咲きはふ」などと大安売りするものでもなかろう。ここぞというときの特別なものであるところに、「霊力」の本領がある。
「霊力」が「咲きはふ」でしょうか。
人類の歴史において、「霊力」とか「霊魂」などというものは、まず「悪霊」として意識されていった。そうして平安時代の都は「悪霊」が「咲きはふ」場所だった。そんなことが自画自賛になるわけもなかろう。
ネアンデルタールが埋葬を覚えていったのは、死者の「霊魂」をとむらうためではない。「霊魂」などというしゃらくさい概念を発見したからではない。生き残ったものの「深い悲しみ」を鎮めるためだったのであり、その「深い悲しみ」が生まれてくる心の「芯」のようなものを、原初の日本列島では「たま」といったのだ。
「たま」とは、心の中心にある丸いかたまり、すなわち深い感慨のことであって、霊力や霊魂のことではない。
「霊」などという紛らわしい漢字を当てたことによって、「ことだま」の意味が変質してきたのだ。
「言霊(ことだま)の咲きはふ国」とは、「人々の交し合うことばの<たま>がきらきら輝いている国」、というような意味だろう。「咲きはふ」とは、そういうことだ。
古代の「ことだま」の機能は、人と人の関係において「深いところで感慨を共有する」ことにあった。
やまとことばが意味作用の希薄なことばだということは、「霊力」も希薄だということを意味する。意味作用が希薄だということは、相手のところに届かないということですよ。それは、「あなた」と「私」のあいだ(すきま)に漂いながら「共有」されている、ということであり、それを「咲きはふ」といったのだ。
ただもう、ことばは人と人の心(あるいは人と神)を結びつける機能があると信じられていただけであり、「霊力」というなら、そういうことの不思議であったはずだ。
厳密な意味での「霊魂」とか「霊力」などというものは、古代においては、「神」とか「悪霊」にしかないものだった。
古代人が「ことだま」といったとき、ことばにそんなものを見ていたのではない。
たとえば「もらい泣き」の現象のように、ことばによって感慨が共有されてゆく不思議、それを「ことだま」といったのだ。
やまとことばはそういう機能を本質として成り立っていることばだから、「ことだまの咲きはふ国」といったのだ。