祝福論(やまとことばの語源)・人間関係のタッチとしてのことば

僕の友達は、大学を出るときに、「もう哲学とは関わらない」と決めたのだそうです。
これからはもう、現実的な社会との関係に頭を使って生きてゆく、と。
団塊世代から40歳くらいまでの戦後世代は、こういう人が多い。
内田樹先生も、同じようなことをいっている。彼が社会に参加してゆくさいに、「もう、暗い言葉は信用しない」と決めたのだそうです。これからはお気楽に生きてゆく、人々がお気楽に生きてゆける社会を目指す、と。
そのあと「ネクラ」という言葉が流行ったりして、それは時流に乗った思考であり生き方だったのかもしれない。
自分のまわりに仲良しグループをつくってその輪を広げてゆけば、やがて世界中が幸せになるんだってさ。それをいま、自分が教えている大学で実践しているんだってさ。
しかしねえ、そんな絵に描いた餅のような空々しいことをいまあらためて主張されても、なんだか時代錯誤みたいなものを感じないでもない。そういうことは、高度成長に浮かれていた時代のたんなる空騒ぎだったわけで。
お気楽に生きていかないと生きたことにはならないという、そのどうしようもない暗さ、恨みがましさ、強迫観念、そういうものに人びとはいま気づきはじめているのではないだろうか。
いまや一億総クレーマーの時代になってしまっているのであれば、人に文句をいわれないためには、仲良しグループをつくってつねにその中にいるか、いい人ぶるか、一所懸命仕事をしているふりをするか、そういう工夫が必要になってくる。そういう工夫が必要だという、その強迫観念。そうやって、われわれは追いつめられている。
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しかし、人に文句をいわれたらもう、ごめんなさいと謝ればいいだけではないのか。そして、自分が悪かったと心底思う。文句をいわれたからには、自分がわるかったからにはもう、一生その人から見離されて仲良くできなくても仕方ないと覚悟する。文句をいわれない工夫に躍起になることばかりではなく、そうやって覚悟してゆくこともまあ必要かもしれない。
そうすれば、文句をいわれないで生きてゆこうという強迫観念も少しですむ。
文句をいわれないですむ人間になれる能力を持たないものにはそういう覚悟も必要だろうし、それがやまとことばにおける人と人の関係のタッチかもしれない、と思わないでもない。
僕なんか、生まれてからこの方、人に文句ばかりいわれて生きてきた。しかも、いちばん近しい関係である、親や女房からいちばん遠慮会釈なくいわれ続けてきた。いや、それはたぶん、僕だけではあるまい、おたがい日本列島の住民なのだから。
そして、世の中には、まるで親や女房のようななれなれしさで遠慮会釈なく僕に文句をいってくる人がいる。そういう人は、やまとことばのタッチよりも、近代の理念を大切にしている。
近代の理念を大切にしている人にとっては、僕のようなだめ人間はめざわりだ。そしてそれはたしかにそのとおりなわけで、いつだって僕が悪い。
なのに、それでも懲りずに僕は、人に対して親や女房になったかのような振る舞いはするまい、などとと思っている。たとえ、わが子に対しても。
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まあ内田先生とちがって、僕には何もかもよくわかりません。自分がどんなふうに生きてゆこうというヴィジョンなんか、持ったことがない。明日のことは明日の自分に聞いてみないとわからない、いつもそう思っていた。
どんな社会がいい社会で、どんな自分が幸せかなんて、ぜんぜんわからない。
べつにどんなふうに生きたっていいじゃないか、と思うばかりだ。
人間なら誰だって、どうしようもなく暗い部分をどこかに抱えているでしょう。そういうことと向き合うことのできない、そのグロテスクな暗さはいったい何なのだ、と思ってしまう。
お気楽で幸せであることが生きてあることのすべてでもないでしょう。
社会に出て何かと戦っている人も、人生が充実して幸せな人も、自分だけがちゃんと生きているような、そんな思い上がったことをいうな。
戦っていない人も、不幸な人も、おまえらの知らないいろんな人生の味わいを知っている。
みんながお気楽で幸せに生きてゆける社会になれば、万万歳なのか。それで、めでたしめでたしなのか。そんなふうにお気楽で幸せでないと生きた心地が得られないという強迫観念を募らせたグロテスクな人間ばかりの世の中が、そんなにすばらしいのか。
その恨みがましい暗さは、いったい何なのだ。
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人間として生きてあることの暗さやみじめさと向き合うことができないから、いろんな問題が起きてくる。そういうことと向き合うことのできない人間の心の偏頗なかたちというかグロテスクな暗さに、われわれはいま気づきはじめている。
誰も人間であることの暗さやみじめさから逃れられない。そう思いませんか。ふと、人が気味悪いと思うことがありませんか。つまり、そんなふうに思ってしまう自分の心の暗さやみじめさがあるということです。
そして、そんな暗さやみじめさと引き換えでなければ「世界は輝いている」というときめきは体験できないし、ときめくということはそんな暗さやみじめさを抱えているということではないでしょうか。
「おびえる」とか「悲しむ」とか「落ち込む」とか「悩む」とか「わからない」とか「さびしい」とか、そんな体験を持っている心でなければ「ときめく」という体験もできない。そんなネガティブな心の動きを持ったことによって人間は人間になったのかもしれない。このごろの若者を眺めていると、時代はいまそういうことに気づきはじめている、という気がしないでもない。彼らは、そういう体験を、大人たちよりずっと大切にしている。内田氏のように、ただあくせくと、お気楽で幸せでなければ生きたことにならないという強迫観念に縛られて生きているわけではない。
お気楽で幸せであればめでたしめでたしというわけにはいかない。
そんな内田先生が、人間のあるべきかたちになっているのでしょうか。そんな内田先生に、どうして奥さんや娘さんに逃げられるということが起きてくるのでしょうか。
お気楽で幸せな人がいちばん魅力的だというわけにはいかないでしょう。
友達のいないひとりぼっちの人でも、内田先生よりずっと魅力的な人はいくらでもいる。
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人と仲良くすることは、とてもむずかしいことだ。なぜなら人は、誰もがこの世にいちばん最後にあらわれた存在だからだ。だれもが、生まれたばかりの子供のように、この世にさまよいこんでとまどっているひとりぼっちの存在なのだ。
しかしだからこそ、人との出会いに深くおどろきときめきもするわけで、この世界の先住者として仲良しグループをつくってお気楽に居座っている連中には、そんな体験はすでにない。そんな体験をしていないから、いつか挫折したり、死が目前に現れたときになって心が病んでしまうのだ。
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そんなパニック症候群になるしかない心を死守しながら何年もかけてパニック症候群を治してゆくという、そのなんともアクロバティックな治癒経過は、(実際にそばで見てきたけど)そりゃあたいへんですよ。いまは直っているみたいだけど、どうせすぐまた発症することだろう。しなくても、死ぬまで再発におびえて生きてゆかねばならない。
彼はもう、不幸の味のせつないような甘さとほろ苦さをついに味わうことなく死んでゆかねばならない。彼は、自分を壊すことができない。
たとえばそんな人は、お金や友達や恋人をなくして、まあしょうがないかと素直に諦めることはできない。内田先生のように、そのつど大騒ぎして自分を肯定する理屈を生産しつづけてゆかねばならない。
仲良しグループをつくって、そんな瀬戸際でそんな空騒ぎして生きてゆくことが、そんなにすてきなことですか。
そんなのやめなよ、とときどき口ごもりながら彼にいってみたけど、聞いてくれなかった。
もともと自信をもってそんなことが言えるような柄ではないから、それに代わってこのブログでけんめいに内田批判を続けてきたわけだけど、それでも彼は内田教にすがろうとしつづけた。
「おまえのいうようなことは内田さんだってちゃんとわかっている」と彼にいわれたことがある。
何いってやがる、俺にいわれてはじめて気づいたことがいくらでもあるだろう……そういいたかったけど、いってもせん無いことのような気がした。
彼は、何がなんでも僕と内田氏が同じ人種であると思いたかった。はんぶんそうではないと気づいているのだけれど、そうだとは思いたくなかった。そういうことにしておきたかった。そのへんはまあ、デリケートなところです。
そんなわけで、僕は、あれだけがんばったのに、けっきょく内田氏に敗北したのだ。向こうは何もいってこないし、たぶん僕の存在すらも知らないだろうと思うけど、それでも僕は、勝てなかった。
彼は今でも、自分を壊すまいとする強迫観念とともに生きている。内田氏のように。
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人と仲良くするのは、とてもむずかしいことだ。やまとことばにとってそれは、願いではあるが、すでに手に入れていることではなかった。いつにおいても、古代人の心は、いまはじめてこの世界に現れたものとして、驚き震え、そしてときめいていた。それが、古代人の人と人の関係であり、やまとことばのタッチだったのだ。