迷信「漂泊論B」10

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どちらかというと世間に背を向けたようなブログだからそんな場に参加する柄でもないのだけれど、だからこそたとえ少数でも「あなた」にこの言葉を届けたいという思いもそれなりに切実です。
このブログは直立二足歩行の起源やネアンデルタール人のことについて考える場としてはじめたのですが、それはつまり「人間とは何か」と問うてゆくことで、いつの間にか世の中の常識に対して「それは違う」と反論することが多くなってきました。
このままではみんなから愛想を尽かされる、と心配しながら書いています。
心配だけど、書かずにいられないことがある。
どこかで拾ってきた言葉をコピペして書いているのではないし、仲間がいるわけでもなく、ぜんぶ、ひとりで考えています。
自分でもどうしてこんなにもむきになるのかよくわからないのだけれど、とにかくここで考えたことをなんとしても「あなた」に届けたい。
俺が負けたら人間の真実が滅びる、という思いがないわけではありません。
というわけで、もしも読んで気に入ってもらえたら、どうか、1日1回の下のマークのクリックをよろしくお願いします。それでランキングが上下します。こんなことは「あなた」にとってはどうでもいいことなのだけれど、なんとか人に見捨てられないブログにしたいと願ってがんばっています。

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<本文>

迷信「漂泊論B」10

     1・市民社会の迷信
現代人は、じつはとても迷信深い。
現代社会は迷信の上に成り立っている、ともいえる。
それが悪いといっているのではない。そうであるならそれでもいいのだが、そのくせ誰もが、自分が科学的客観的な思考の持ち主である、というような顔をしているところがやっかいである。
こういうのを「市民社会」というのだろうか。
「市民」とはそういう存在かな、とひとまず思う。ものすごく迷信深いくせに自分は科学的客観的な思考の持ち主だと思っている人種、誰もがそういう顔をして生きている世の中だ。
そういう顔をしていないと生きられない世の中だ、というべきだろうか。
いまどきは、インテリだって、そういう「市民」だ。
インテリだって、ポピュリズムという俗物根性を市民と共有していないと、市民からインテリだと認めてもらえない。
というか、市民社会では、誰もがポピュリズムという俗物根性を持ってしまうほかないような見えない圧力がはたらいている。そういう社会の構造になっている。
「市民」という存在が人間のスタンダード(基準)になっている。人間とは何かと問うことは、市民とは何かと問うことであるらしい。
そして、人々にとって、市民とは何かと問うことは、自分とは何かと問うことだ。そうやって「自分さがし」に明け暮れているし、自分が何かということをわかっているつもりでいる。
それは、なんだかとてもばかばかしいことであると同時に、おそろしいことでもある。
まあ僕にとっての「人間とは何か」と問ういとなみは、「自分は人間の範疇に入れてもらっていない、入ることができていない」という不安からはじまっている。
自分なんか、人間とは何かと問う基準にならない。
しかし「市民」だって人間の基準ではない。
だから「この世のもっとも弱いもの」や「原始人」を人間のスタンダード(基準)として問うている。
言い換えれば僕は、自分の中に確かめられるほどの「市民」など持ち合わせていない。


     2・明るい市民社会という倒錯
山中教授は、生命の起源に遡行することによって究極のips細胞をつくりだした。
人間の起源や根源を問うこともまた、人間であることの究極のかたちを問うことでもある。
近代市民社会の「倫理」や「正義」で人間を語られても、なんのこっちゃと思う。
原発運動も、ようわからん。
「生命の尊厳」とか「人間は生き延びようとしている存在である」とか、そういう前提で語っているなんて、ただの思考停止だと思う。
生命なんか、尊厳でもなんでもない。生命なんか、ただの「けがれ」だ。人間は根源において生き延びようとなんかしていない。
「倫理」や「正義」や「美」を獲得して「正しい人間」になることが「けがれをそそぐ」ことではない。
そういう「正しい人間」であるつもりの「市民」のいうことなんか、僕は信じない。そんな人間を、人間のスタンダードだとは思わない。
自分のことを「正しい人間」だと思っているわけではない、といっても、おまえら「市民」は、そういう「正しい人間」をお手本にして「正しい人間」と結託しているではないか。
そうやって「反原発」だの「生き延びることの正義」だのと合唱していやがる。
「けがれをそそぐ」ことは、自分を始末して「いまここに消えてゆく」ことだ。原始人の「死に対する親密さ」はそういうところにあったわけで、おそらくそれが、人間であることの究極のかたちなのだ。
「自分は命のけがれを負って存在している」……そういう「暗さ」は、誰だって持っているではないか。原始人はそうやって歴史を歩んでいたのであり、そこから人間的な文化や文明が生まれてきた。
現代社会の「この世のもっとも弱いもの」だって、そういう「自分は命のけがれを負って存在している」という暗いものを抱えて存在している。人間とは、そういう存在ではないのか。
そういう人間であることの「暗さ」と向き合うことを避けて清廉潔白な「市民」づらされても、「へえそうかい、勝手にそう思っていろ」としか反応できない。
この世はおまえら「市民」のものだが、おまえらが人間のスタンダードであるのではない。


     3・原始人は自然から疎外された自然に対する観察者だった
たとえば内田樹とか上野千鶴子とか、そんなことを思っているから彼らの思考は中途半端で、顔つきはぶさいくで、体の動きは鈍くさく、人にときめくということができないのだ。
まあ彼らだって「自分は人間としてすぐれているわけではないのかもしれない」という不安はあるのだろう。その不安を、レヴィナスだのマルクスだのをこの世のもっともすぐれた人間としてお手本にしながら打ち消し、自分は誰よりも「市民正義」に精通しているとうぬぼれている。
しかし、そうやって「すぐれた人間」とか「正しい人間」であろうとすることが倒錯なのだ。
なぜなら「自分は命のけがれを負って存在している」という思いと向き合うほかない「すぐれていない人間」の方がすぐれているからだ。人間の知性や感性は、そういうところでいきいきとはたらいている。
おまえらは、そうやって「すぐれた人間」や「正しい人間」であろうとしているからこそ、そうやって鈍くさいインポおやじや騒々しい田舎っぺのブスであるほかないのだ。
もっとも、鈍くさいインポおやじや騒々し田舎っぺのブスがもてはやされる世の中かもしれないが。それが、この国の「戦後社会」の共同幻想であり、現在の世界的な潮流であるのかもしれない。
そうやって自分を正当化することに熱心で上手な人間がもてはやされるのが、現在の「市民社会」の構造になっている。
彼らは、自分たち「近代市民」のことを、「人類の進化の達成」を体現している存在だと思っている。
そうして、原始人とは「未熟で迷信深い存在」だと思っている。世界の第一線の人類学者だって、けっきょくはこの前提で考えてしまっている。
そうじゃない。原始人よりもわれわれの方がずっと迷信深いのだ。
迷信深くなってしまったから死が怖いのだ。
原始人が持っていた「死に対する親密さ」は、迷信でもなんでもない。人間は、直立二足歩行の開始以来「自分は命のけがれを負って存在している」という暗いものを抱えて逃げ隠れしながら歴史を歩んできたのであり、人間はもともと自然に対する「観察者」としての科学的客観的な思考を持っているのだ。
原始人は、自然の一部として自然と調和して生きてきたのではない。猿よりも弱い猿として、自然から逃げ隠れしながら生きていたのだ。そういう、自然に対する「観察者」だったのだ。
原始人の方がずっと知性も感性も豊かだった。
われわれはもう、みずからの身体をこの世界=社会の一部と自覚し、「観察者」としての科学的客観的な思考も感性もすっかり失ってしまっている。そうやって、原始人よりずっと迷信深い存在になってしまっている。
現代人の思考や感性なんて、「人類の進化の達成」でもなんでもない。


     4・縄文人は人類の起源に遡行していった
一般的には、縄文時代は「原始時代」のような扱いになっている。
しかし僕は、いちおう1万3千年前の氷河期明けが人類史における「古代」のはじまりだと考えている。
人類の意識は、そこで大きく変わったはずである。というか、そこから変わっていった。
というわけで、ここではひとまず縄文時代=古代ということにしておいていただきたい。
やまとことばの原型は、縄文時代にある。
縄文人は、世界の文化のレベルから遅れていたのではない。たとえば石器などのレベルは、氷河期明けにおいて世界の最先端だった。
ただ彼らは、世界(=大陸)が共同体(国家)をつくる方向に向かっていったのに対して、原始時代の世界観をそのまま洗練させていった。
彼らは、氷河期が明けて日本列島が大陸から切り離され、しかも山間地に移住してゆくことによって、「閉じ込められて」暮らすことを余儀なくされていった。これは、大陸の人々が、氷河期が明けて気候が温暖になったために地平線の向こうとの往還をはじめたのとは逆の時代変化だった。
つまり縄文人は、世界のそういう流れとは逆に、人類の起源に遡行していったのだ。
アフリカの中央部で直立二足歩行をはじめた原初の人類は、密集し過ぎた群れの中で体をぶつけ合いながら行動しているという状況から逃れるようにして二本の足で立ち上がっていった。縄文人は、この体験に遡行していったのだ。好きでそうしたのではない。そうなるほかない「なりゆき」があった。
原初の人類は、そういう閉塞状況から逃れるようにして二本の足で立ち上がり、「旅をする」という習性になっていった。
縄文人もまた、そのようにしていったん日本列島に閉じ込められ、山の中に閉じ込められたところから「旅の文化」をはぐくんでいった。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、猿よりももっと弱い猿になり、そこから逃げ隠れする習性とともに歴史を歩んできた。そうしてその習性から、人間的な文化や文明が生まれてきた。
逃げることと隠れること、これが、根源的な人間の習性である。隠れようとする人間は、密集状態に引き寄せられる。そして密集状態から逃げるようにして旅に出る。
縄文人は、避けがたい歴史のなりゆきとして、そういう人類の根源に遡行していったのであり、彼らのこの生態が現在まで続く日本列島の文化の基礎になっている。
内田樹先生は、『日本辺境論』の中で、大陸=中国との関係が日本文化の基礎になっている、といっておられるが、そうではないのだ。
大陸から切り離されたところで日本文化の基礎がつくられてきたのだ。日本人の思考や感受性の基礎は、縄文時代という大陸=中国とは無縁のところではぐくまれてきたのであり、「進歩」という未来に向かう世界の流れからも逆行して人間の起源に遡行していったのだ。
縄文時代を問うことは人類の起源を問うことであり、人類の起源のかたちをそのまま洗練させていったところに日本文化のかたちがある。


     5・かくして人類は「死に対する親密さ」を失った
氷河期以降、世界は共同体(国家)建設に向かう歴史を歩み、「霊魂」という概念を持つようになっていったが、日本列島ではその流れに逆行するように、縄文時代の1万年のあいだを共同体(国家)の建設に向かうことをせず、死を怖がることとも「霊魂」という概念を持つこととも無縁の「死に対する親密さ」の文化の歴史を歩んできた。
「死に対する親密さ」からは「霊魂」という概念は生まれてこない。
「霊魂」という概念は、共同体の制度性に浸されて「死に対する親密さ」を失った氷河期明けの人類が「死に対する親密さ」を仮構するようにして生まれてきたのだ。そこから「自殺」とか「殉教」という行為が生まれてきた。その「死に対する親密さ」は、身体とともにあるこの生を否定して「霊魂の永遠」を止揚してゆく思考である。その「死に対する親密さ」の裏には「死の恐怖」がぴったりと張り付いている。そうやって人々は、「永遠」を生きようとしていった。
しかし原始人は死を怖がっていなかったのであり、したがってそこから「永遠」を生きようとする発想が生まれてくるはずがない。彼らは、「死に対する親密さ」そのものを生きようとしていた。
「霊魂」という概念を持った氷河期明け以降の大陸人が「永遠」を生きよとしていったとすれば、原始人や縄文人は「いまここ」に消えてゆくことのカタルシスを紡ぎながら死を受け入れていた。彼らは、死を受け入れていたが、死にたいとは思わなかった。
現代人は、何か嫌なことやつらいことがあると、すぐに「死にたい」と思ってしまう。それは「霊魂」という概念を持ってしまっているからだ。そうして「霊魂」をたのみにして自殺してしまうこともあれば、「霊魂」が信じられなくてそれを思いとどまったりしている。
「永遠」を目指すのではなく、「いまここ」に消えてゆこうとするのが日本列島の文化の基礎である。そこから日本的な「無常」の文化が生まれてきた。
われわれは、歴史的な無意識として、今ひとつ「霊魂」というものを信じきれない民族なのだ。
縄文時代は、大陸とも「霊魂」という概念とも無縁の1万年だった。


     6・やまとことばの「たま」は「霊魂」という意味だったのではない
原始人や縄文人が「霊魂」という概念を持っていたなどとかんたんにいってもらっては困る。日本列島の住民は、大陸から入ってきた文字によってはじめてその言葉を知った。そしてその概念のなんたるかはよくわからなかったのだが、とりあえず「たま」という言葉にその文字を当てた。
やまとことばの「たま」とは、「充足し完結している心の状態」のことをいう。だから古代人は、充足し完結しているものはなんでも「たま」といった。だから、とくべつに完結している状態を「たまたま」とか「たまに」などというし、「たまる」とは充足し完結している状態のことだろう。そしてそうやって充足し完結しているまるいかたちのことも「たま=玉」といった。
それは、「霊魂」などという意味に限定された言葉ではなかったし、霊魂のなんたるかも日本列島の住民はよく知らなかった。
「霊魂は身体から離れて永遠に生き続ける」などということは、仏教が入ってきてはじめて知った。
「たま」「たま」であって、「霊魂」という意味だったのではない。あるとき遊び半分で「霊魂」という文字を当ててみただけである。最初は「多痲」とかそういう文字(=万葉仮名)を当てていた。で、物体の「玉」と区別するために、心のことには「霊魂」という字を当ててみた。
文字は音声をともなっていないから、意味を付与しないとどうもしっくりこない。最初は音声を表記するだけだった万葉仮名が、しだいに意味を表記する文字になっていった。しかし、意味に限定してしまうとやまとことばのタッチではなくなってしまう。そういうことに気づいた平安時代の女たちが、音声のニュアンスを残そうとして「ひらがな」を生みだしていった。「霊魂」と書くより「たま」と書いた方が、その言葉のニュアンスはずっとふくらむ。もともと「霊魂」という意味ではないのに、どうして「霊魂」と書かなければならないのか、と女たちは思った。
漢字を覚えるのが難しかったから「ひらがな」を生みだしたのではない。既成の漢字で書けば簡単だったけど、漢字ですますわけにいかない胸にあふれる感慨があったからだ。そういう感慨の表記として「ひらがな」が生まれてきた。そうして、とくに感慨の表出を大事にする和歌というやまとことばの文学においては、できるだけ「ひらがな」で表記するようになっていった。
やまとことばは意味に限定された言葉ではないから、今ひとつ漢字の表記になじまない。だから「ひらがな」が生まれてきた。
これだってまあ、起源に遡行するいとなみだった。起源に遡行してゆくのが、日本的な心性なのだ。
やまとことばの「たま」は、感慨をあらわす言葉だったのであって、「霊魂」という意味だったのではない。
とにかく僕は、こう言いたいのだ。原始人や縄文人は「霊魂」という概念など持っていなかったし、「霊魂の永遠」ということが日本人の死生観の基礎になっているのではない、と。
しかしこれだけのことをいうのがどれほど困難なことかということを、つくづく思い知らされてもいる。
だからここまでくだくだしく前書きを連ねてきた。
多くの現代人が、「霊魂」という概念を持つのが人間性の本質だと信じて疑っていない。それを思うと、僕のいうことがむなしく壁に消えてゆくのを感じないではいられない。
何度でもいう、原始人や縄文人は、「霊魂」などという概念は持っていなかった。
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