コピペして記憶する脳・「漂泊論B」11


      1・現代の市民社会は、人類の歴史の達成といえるか
<承前>
迷信=superstition 
迷信といえば、何だって迷信だ。
われわれの意識そのものがひとつの迷信かもしれない。
この世界、この宇宙がほんとうに存在するものかどうかなんてわからない。
自分が今生きてあることがほんとうのことかどうかなんてわからない。
でもわれわれは、この世界があると信じ、自分は今生きてあると信じている。ただの迷信かもしれないというのに。
とりあえずそのように信じてわれわれは生きている。
意識は、どんなことでも信じてしまう。「鰯の頭も信心から」というが、「スピリチュアル」とか「来世」とか「生まれ変わり」とか「天国」とか「極楽浄土」とか「地獄」とか「霊魂」とか、そんなとんでもないことまでわれわれの意識は信じてしまう。
人に対しても、ただの詐欺野郎を人格者だと信じてしまったりする。
われわれは、なんだって信じてしまう。
だからこそ、人の信じる心につけこむことはできるだけつつしんだ方がいい、ということもある。
上手に言いくるめれば、自分を信用させてしまうことができる。自分なんかただの詐欺野郎かもしれないというのに、「コミュニケーション」という美名がぜんぶ免罪してくれる。
相手を説得し信じ込ませることが、そんなに素晴らしいことか。信じ込ませたからといって、それが正しいという証拠にはならない。
なのにわれわれは、説得し信じ込ませる能力を磨くことに懸命になって生きている。それで世の中が動いている。
自分がかんたんに信じ込んでしまう人間でなければ、相手を説得し信じ込ませる能力も身につかない。人はどのようにして信じてしまうのかということを知っていなければならない。
人を説得し信じ込ませるのが力で正義の世の中だから、そういう制度性によって現代人は誰もがかんたんに信じてしまう人間になってしまっている。そうやって、誰もが迷信深くなっている。
この社会の制度性が人間を迷信深くしてしまうのだ。そして現代ほどこの社会の制度性が精緻に発達している時代も、かつてなかった。
現代人は原始人よりも知能が発達しているから原始人ほど迷信深くはない、と思ったら大間違いだ。現代人の方がずっと迷信深い。
現代社会は、人間が迷信深くなってしまう構造になっている。コミュニケーションによって動いている社会であるのなら、人間が迷信深くなってしまうに決まっている。
歴史が進んで人間がこんなにも迷信深くなってしまうなんて、人間の脳というのは、そうとういい加減な仕組みになっているのかもしれない。そこのところにつけこんで人を信じ込ませることばかりしていていいのか。こんなふうにして時代が進んでゆくのなら、人間はいずれ思考力も感受性もすっかりなくしてしまうのではないだろうか。ただもう社会のシステムばかりが精緻になって、人間はそのシステムにコントロールされながら生きているだけ、ということになりはしまいか。
われわれは、人の心は全面的には信じられなくても、社会の法制度や貨幣制度のことは、すっかり信じこんでしまっている。
人間がどんどん迷信深くなってゆき、どんどんシステムにコントロールされるようになっていっている。
社会的に有能な人間とは、社会のシステムを信じきって社会のシステムからコントロールされている人間のことだ。
そうやって人は大人になってゆく。大人とは、システムからコントロールされている人間のことだ。どいつもこいつもシステムから踊らされているだけのくせにえらそうなことばかりほざいていやがる……と若者や子供たちは思っている。
もしもこの社会に希望があるとすれば、そういう大人たちもいずれ必ず死んでゆき、次々に世代交代が起きてくることにある。
人間の寿命は、もう少し短い方がいいのかもしれない。そうでないと、世代交代が活性化しない。
歳をとることは、思考力も感受性も衰えてシステムに対する迷信ばかりになり、どんどんシステムに踊らされてゆくということだ。
大人なんて、システム=制度に対する迷信・盲信だけで生きている存在だ。
信じなければ人間は生きられないが、信じるだけで生きていれば思考力も感受性もどんどん衰えてゆく。


     2・世界に対する「信憑」を解体する
この生は、この世界に対する信憑の上に成り立っている。
しかし人間は、この信憑をいったん解体して「なぜだろう?」と問う。自分が生きてあることもこの世界が存在することも「なぜだろう?」と問うている。そうやって思考し、そうやって世界や他者との出会いに驚きときめいている。
世界が存在することを信じきっていれば、世界が存在することに驚きもときめきもしない。
人間は、みずからの信憑をいったん解体し、世界や他者の存在に驚きときめいてゆく存在である。
なぜ信憑を解体するかといえば、みずからが存在することを嘆いているからであり、みずからが存在することも世界が存在することも信じたくないからだ。
人間は、そうやって信じたくない心が起きてしまうような身体存在の「無力性」や「受苦性」を根源において負っている。
少なくとも生まれたばかりの子供は、そういう「無力性」や「受苦性」を深く負い、みずからが生きてあることを嘆きながら存在している。彼らは、できることなら、自分が生きてあることを信じたくない。
しかしそれでも、みずからの身体の「無力性」や「受苦性」とともに、いやでもみずからが生きてあることを思い知らされる。彼らは、大人よりもリアルにみずからの存在を実感している。つまり、かんたんに信じてしまう心の動きを持っている同時に、けんめいに疑ってもいる。
たとえば、おっぱいを飲んで空腹が満たされてみずからの身体を忘れてしまう心地になれば、深いカタルシスを覚える。そうやって「身体が消えてゆく」とき、身体がこの世界に存在することに対する信憑が解体されている。彼らにとってのカタルシスは、生きてあると実感することにあるのではなく、生きてあることを忘れている心地にある。人間はそうやって生きはじめるのであり、じつは死ぬまでその心地で生きているのだ。
身体の「無力性」や「受苦性」を負っている人間という存在は、他の動物以上にみずからの存在を深くリアルに実感していると同時に、そうした「信憑」を解体してしまう作法も避けがたく持ってしまっている。そうやってカタルシスを汲み上げてゆくという体験がなければわれわれは生きられない。
人間は、かんたんに信憑してしまう存在であると同時に、その信憑を解体してしまう存在でもある。
信憑することは苦痛として身体存在を実感することであり、身体が消えてゆく快楽として信憑が解体される。
しかしこの社会の制度性は「信憑」する心の動きの上に成り立っており、信憑を解体してゆく心の動きを奪ってしまう。奪われながら人は大人になってゆく。奪われながら、社会に踊らされている。
われわれは、この世界や自分が存在することに対する信憑だけで生きているわけではない。その信憑を解体することによって、生きてあることのカタルシスがもたらされる。
人間は、この世界や自分が存在することに対する「信憑」を解体して「いまここ」に消えてゆくことのカタルシスを汲み上げてゆく存在でもある。そうやっていったん「信憑」を解体した心で世界や他者と出会い、驚いたりときめいたりしながら、人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。
この社会の制度性は「信じる」という作法の上に成り立っている。それは、自分が生きてあることを確かめてゆく心の動きである。
一方遊びの快楽は、ひとまず「信じる」ことを解体して世界や他者との出会いに驚きときめいてゆくことの上に成り立っている。それは、自分=身体存在(=生きてあること)を忘れてゆく心の動きである。そうやって我を忘れてゆくことが快楽だ。根源的に身体の「無力性」や「受苦性」を負って存在している人間は、そういう快楽を汲み上げる体験がなければ生きられない。
人間は、自分が生きてあることを忘れようとする。そうやって「信憑」を解体する。そうやって世界や他者が立ちあらわれていることに、「なぜだろう?」と問うたり、驚きときめいたりする。それが、人間的な知性であり感性だ。


     3・「信じる」とは、コピペして記憶すること
ではこの知性や感性を欠いていれば、社会的に無能な人間になってしまうかといえば、そんなことはない。
この社会は「信じる」ことの上に成り立っている。考えたり感じたりする人間よりも、「信じる」人間の方が有能なのだ。
知性や感性では、あまり有能にはなれない。有能な政治家やビジネスマンが知的で感性が豊かとはかぎらない。知性や感性を欠いているから有能になれた、という場合も多い。
「信じる」という心の動きが発達していれば、もの覚えはいいだろう。「なぜだろう?」と考える知性やときめく感性は育たないが、何でもかんでも覚えてしまうことができる。そうして、どうすれば人を信じ信じさせることができるかというパターンもたくさん覚えてゆく。
この社会は、誰もがこの社会の制度を信じてゆくことによって成り立っている。言い換えれば、社会の制度が住民を説得している。そういう「説得する=信じる」というコミュニケーションの関係に目覚めてゆくことによって、社会の制度性に従順な人間になってゆく。
社会的に有能な人や従順な人は、信じることや信じさせることの「コミュニケーション」に邁進してゆくことができる。そうやって、自分が消えてゆくカタルシスよりも、自分を確かめることに充足しまどろんでゆく。
人間は、この世界に生まれ出ることによって、胎内のまどろみから切り離され、身体の「無力性」や「受苦性」に対する「嘆き」の中に投げ入れられる。ここから生きはじめる。そうして、まどろみを得ることを断念して、身体が「いまここ」に消えてゆくカタルシスを汲み上げて生きることを覚えてゆく。
まあ原始人はこのようにして生きていたし、だから、地球の隅々まで拡散してゆくことができた。「まどろみ」が大切なら、群れを離れて旅をしてゆくというようなことはしない。「いまここ」に消えてゆくいとなみとして旅に出るのだ。
しかし共同体の制度性は、制度性を信じ制度性の中にまどろんでゆく充足をもたらす。そうやって、人の心を胎内回帰させる機能を持っている。
つまり、人が幼児体験として「コミュニケーション」の中にまどろんでゆくことを覚えるということは、そこで「いまここ」に消えてゆくカタルシスを汲み上げることに失敗して胎内回帰しようとしている、ということを意味する。
そうして母子関係という制度性に囲い込まれてしまうのか、みずから潜り込んでゆくのか、とにかくそのようにして「信じる」ことの充足とまどろみに目覚め執着してゆく。
さらには、その延長としてのこの社会の制度性を「信じ」ながら充足しまどろんでゆく。
「信じる」ことは、「考える」ことでも「感じる」ことでもない。考えることも感じることも捨象して信じてゆくのだ。
この「信じる」という心の動きを特化させてゆくことによって人は、社会的な能力を身につけてゆく。
それを信じて脳にコピペして記憶してゆく……社会的に有能な人や従順な人は、そういう能力がものすごく発達している。彼らは、この社会で生きてゆくためのそういうカードをたくさん持っているし、それによって生きている。だから、考えたり感じたりすることはしない。
彼らが最初に信じたのは、母親だったのか。母親を信じ信じさせてゆくという「コミュニケーション」を覚え、そこから社会の制度性を信じながら、他者を信じ信じさせるという手法を身につけていった。
学校の先生のいうことや本で読んだことをコピペして記憶してゆくこともお手のものだったにちがいない。
その能力は、「信じる」という心の機制を持っていないと育たない。
彼らは、本を読んだだけで賢くなった気なれる。そりゃあそうだろう。それをちゃんとコピペして記憶したのだから。
われわれのように、そこで考えたり感じたりしたことが残って何が書いてあったかということを忘れてしまうようなへまはしない。
彼らの能力は、「信じてコピペして記憶する」ということにある。考えることでも感じることでもない。
具体的なことをいってしまえば、彼らは優秀な成績で東大に入っても、考えたり感じたりする能力がないから、けっきょく一流の研究者にはなれない。たぶん、そういう例は、枚挙にいとまがないにちがいない。


     4・考えたり感じたりしていたら野垂れ死にしてしまう
人類は、氷河期明けに共同体(国家)を持ったことによって、その制度を信じその制度から信じさせられるという観念的な心の動きを肥大化させてきたために、考えたり感じたりする能力を後退させてきた。そうして制度性ばかりが精緻で複雑になってきて、いまやわれわれは、その制度性から心を支配され、その制度性の範疇で精神生活を送るようになってきた。
つまり、考えたり感じたりする能力を喪失して、コピペして記憶する能力ばかりが肥大化してきた。現在のこの社会に、そういう精神生活しか送れないインテリがどれほど多いことか。
まあ、内田樹上野千鶴子も、そういうたぐいのコピペして記憶しているだけのインテリなのだ。だから彼らは本格的な研究者になれなかったし、だから、コピペして記憶しているだけの精神生活を送っている「市民」という概念に執着し、「市民社会の成熟」という正義を振りかざす。
「市民」なんて、そういう精神生活しか送れないただの凡人なのだ。だから、反原発でわあーっと盛り上がる。
彼らは「生命の尊厳」という制度的な合意を信じてコピペし、「生き延びる」というスローガンを振りかざす。
彼らには、生きてあることに対する幻滅というものはないのだろうか。
根源において身体の「無力性」や「受苦性」を負っている人間は、避けがたく生きてあることに対する幻滅を持ってしまい、生きてあることに対する信憑を解体して「いまここ」に消えてゆくカタルシスを汲みあげようとする。
人間存在のそういうかたちを、われわれはどのように考えればいいのだろう。生き延びれば万歳というわけにはいかないのだ。
それにわれわれは、彼らのように生き延びることだけに執着していられるようなお気楽な身分でもないわけで。
内田樹だろうと上野千鶴子だろうと大江健三郎だろうと柄谷行人だろうと、ただの凡人さ。そうして市民社会から置き去りにされたわれわれは、無残に野垂れ死にするだけである。
いや、野垂れ死にでけっこうなのだけれど。
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