人類の未来など語ってくれるな・「漂泊論B」12

     1・コミュニケーションという名のサディズム
世の中はこれからどのように動いてゆくのだろう、と思う。
しかし、どうならなければならないか、というような議論にはあまり興味がない。
幸せになっても不幸になってもいいのだ。
この世の中にはいろんな人がいる。幸せな人もいれば、不幸な人もいる。幸せな人の方が不幸な人より充実して生きているとはかぎらないし、幸せな人の方が人間として魅力的だともいえない。
わがもの顔で幸せぶっている姿ほどみっともないものもないし、そういう人間ほど自分の姿が他人からどのように見えているかがわかっていない。誰だって他人の心などわからないものだが、自分が世界に反応していれば、そういうことのみっともなさくらいは自覚できる。
うんざりすることがないということは、ときめきがないということでもある。
子供に対する反応が鈍い親ほど、干渉ばかりして子供を追いつめてゆく。反応する知性も感性もないから、干渉するというかたちでしか子供と関係を結べない。それは、一種のサディズムである。
現代人は、コミュニケーションという美名のもとに説得(=干渉)し合って関係を結んでいる。コミュニケーションとは「意味を伝達する」ことであり、それは、サディズムである。多くの言語学者は、そのようにして言語が生まれてきた、といっている。つまり、「意味を伝達しようとするサディズムこそ人間の本性である」といっているのだ。
ようするに、この社会のシステムに踊らされている凡庸な現代人の学者の脳みそではそのていどの発想しかできない、ということだ。
人類は、氷河期明けの共同体(国家)の成立以降、コミュニケーションという美名のもとに、たがいに干渉し合う関係を発展させながら社会制度をつくってきた。
世の中とは、人と人が干渉し合う場である。そうやって社会が発展もすれば、そうやって殺人事件だって起きてくる。そういうサディズムの場である。
世の中は、そうやって人と人が干渉し合わないと成り立ってゆかない。そうやって干渉し合いながらわれわれは、「人に反応する」という感受性を失ってゆく。
「人に反応する」という心の動きは、世の中のしがらみから離れたプライベートな関係においてこそいきいきとはたらく。
言い換えれば、プライベートな関係までも干渉し合う場になってしまったらおしまいである。しかし世の言語学者が「言語は<意味の伝達>の機能として生まれてきた」という発想をしてしまうということは、それだけ現代社会はプライベートな関係までも干渉し合う場になって「人に反応する」という感受性が鈍くなってきている、ということを意味するのかもしれない。
「意味を伝達する」というかたちで人の心に干渉してゆこうとするサディズムから言葉が生まれてきたのではないし、そんな心の動きが人間の本性であるのではない。そんなことばかりしていると、人や世界に「反応する」という人間ほんらいの心の動きが衰えてゆく。
われわれの心は、人や世界に反応して、「なぜだろう」と考えたり、驚きときめいたりしてゆく。心は、まずそこから動きはじめるのであって、人や世界に干渉しようとするところから動きはじめるのではない。


     2・「なりゆき」にまかせる
世界に対する反応が鈍いから、世界をいじくりまわそうとする。そうやって「未来の社会はかくあらねばならない」と騒ぎ立てる。
彼らは、何より自分自身をいじくりまわして生きている。それは、自分がないのと同じである。つくりものの自分だけで、あるがままの自分なんかどこにもない。作為的なしなければならないことのイメージばかりでがんばっても、あるがままの自分のせずにいられないことに熱中している人間にはかなわないのである。
しなければならないことばかり追いかけていても、しょせんは二流でしかない。
あるべき社会など実現しても、しょせんは二流の社会なのだ。
人間の本性に沿ってこうなるしかなかったという社会とは、いったいどんなかたちなのだろう。
そんなことは、われわれにはわからない。
そのように生きて見るしかない。その結果として、そのような社会があらわれてくる。
その結果として、そのような人間になればいい。
どのような社会になろうとか、どのような人間になろうとか、そんなことは思わない方がいい。自然のままの「いまここ」の「せずにいられない」ことに夢中になっている人間には、誰もかなわない。
そういう「結果」として新しい社会があらわれてくればいい。
いやこれは、べつに僕の意見ではない。日本列島の伝統的な文化の底流には、未来を思わないでそういう「なりゆき」にまかせようとする意識があるのではないだろうか。
それでいい社会がくるとはかぎらない。それでも「いまここ」の「せずにいられない」ことにひとまず身を浸して生きてみようではないか、という合意がかつての日本列島にはあった。
なりゆきまかせといっても、投げやりだということではない。未来を意識して作為的に生きるよりも、ずっと切実でけんめいな生き方だともいえる。


     3・無常とは、日本的な激情なのだ
日本列島には、あるべき社会像を思い描くという伝統がない。
それはたぶん、明治以降に西洋の近代合理主義が入ってきてから意識されていったことだ。
いや、明治の文明開化から日清・日露戦争までは、ほかにはどんな選択肢もない「なりゆき」に身をまかせた結果だったのだろう。
日本列島の住民があるべき未来の社会像を本格的に意識しはじめたのは、昭和になってからのことかもしれない。そうして終戦後に、その流れが一挙に加速した。それまではまだ支配者ですら「なりゆき」に身をまかせようとする伝統も引きずっていたし、庶民はただもう「なりゆき」に引きずられて戦争に参加していっただけだったが、戦後の市民社会になって、庶民の意識までもすっかり作為的な合理主義に染め上げられていった。
この国の伝統においては、「未来を思うこと」など、恥知らずの倒錯的な意識なのだ。なのに今や、それこそが正義になり、人間の本性であるかのようにもいわれている。
小林秀雄は、いまどきのそういう風潮を「鎌倉時代の生女房ほどにも無常ということがわかっていない」といった。
「無常」とは、投げやりなことではない。「いまここ」の「せずにいられない」ことに夢中になってゆくことだ。たんなる諦観ではない。ある意味で激しく生々しい情熱なのだ。
ボクシングの試合では、一ラウンドに二度続けてノックダウンさせられてグロッキーになっていたら、かならず三度目もすぐダウンさせられる。三度ダウンをすれば試合は終わりで、もう勝ち目はない。だから外国人は、そこであきらめる。一度ダウンしただけであきらめてもう立ち上がろうとはしないことも多い。
しかし日本人は、何度でも立ち上がる。
外国人ボクサーは、日本人のそういう習性がちょっと怖いし気味悪い、という。それは、「いまここ」しかないという、日本的な無常観なのである。
「腹切り」とか「神風特攻隊」というのも、まあそのようなものかもしれない。そのようにして、太平洋戦争ではなかなか降伏しようとしなかった。
「無常観」とは、「いまここ」しかない、という日本的な激情のことでもある。
「未来を思わない」という生きる作法……日本人は、もっともあきらめのいい民族であると同時に、もっともあきらめない民族でもある。
われわれは、未来をあきらめても、「いまここ」はけっしてあきらめない。われわれは、未来に向かって生き延びようとするのではなく、「いまここ」で燃え尽きて消えてゆこうとする作法で歴史を歩んできた。
「無常」とは、日本的な激情なのだ。中世の宗教者や文学者が、どれほど熱く無常について語っていたことか。無常を語り出すと熱くなってしまうのが、日本人なのである。
「いまここでこの生を完結させる」という作法、それが、日本的な無常観である。と同時に、それが原始人の生き方でもあったわけで、そうやって人類は地球の隅々まで拡散していった。
ネアンデルタールという原始人が氷河期の極北の地に住み着くためには、何度ダウンさせられても起き上がる根性がなければならなかったし、未来のことなど思っていたら起き上れなかった。彼らは、起き上がったからといってすぐ死んでしまう人生を生きていたのである。それでも、起き上がった。
彼らは、そうやって「いまここでこの生を完結させる」作法を持っていた。そしてそれこそが人間の普遍的な生きてあるかたちであり、われわれは、そうやって遊んだりセックスをしたり考えたり感じたりしている。
すなわち、未来に向かうのではなく、「いまここ」のこの世界や他者に反応してゆくという作法、それが人間の思考力であり感受性なのだ。
だからわれわれは、「未来のあるべき社会像」などというものを提出されても、なんのこっちゃ、と思ってしまう。
原発のない未来」などといわれても、「いまここ」でこの生を完結させようとしているわれわれには、なんの慰めにもならない。


     4・未来の安心・安全にもぐりこんでゆこうとする衝動。人は未来に向かって胎内を追憶する
人類が共有しているのは「いまここ」であって、「未来」ではない。
人の心は、「いまここ」を漂泊し続けている。だからわれわれは、死ぬしかないこの生の与件を生きることができる。
それは、あきらめというより、ひとつの情熱であり激情なのだ。
われわれの心は、未来が保証されていることの安心にまどろんでゆくだけではすまない。彼らがなぜそんなことを考えることに勤勉であるかは、それが人間の本性であるからではなく、彼らの幼児体験の問題だ。そこで、安心にまどろんでゆくことをけんめいに願って、その作法で生きてきたからだ。
彼らは、人間とはそういうものだと思っているし、自分のその心の動きが死ぬまで変わることがないと思っている。
しかし、死を目前にすれば、もう未来はないのである。未来を思うことなんかできない。それでも、天国や極楽浄土の未来を思うのか。「霊魂の永遠」とやらにすがるのか。
あなたたちの死生観や世界観が、未来にも通用するとはかぎらない。あなたたちは未来にも通用するつもりで、自分たちの死生観や生命観で未来の社会を思い描いている。
未来の人々がどんな思いで生きるのかは、われわれにはわからない。
僕は、未来のことなんか考えない。原始時代を思うことしか、人間について考えるすべがない。
われわれ人間が未来について考えることは不可能だし、それはとても下品なことだ。未来の人間におまえらのその俗物根性を押し付けるな。
物理学においても生物学においても「変わらない」ことほど困難なこともないそうだが、ましてやわれわれ人間は、床の間の置きものではなく、坂道に置かれたまるい石ころのような存在なのである。
万物は流転する。人間は漂泊する。
もしかしたらこの世界は、われわれの予想もしないかたちに変わってゆくのかもしれない。それこそが、われわれのせめてもの希望の光になる。
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