無常観という激情・「漂泊論B」13


     1・「生き延びる」なんてどうでもいいことだ
われわれは人間であると同時に、日本人でもある。
日本人であるとは、どういうことだろうか。
日本人であることの長所と短所、というような問題の立て方はしたくない。長所は短所でもあるし、短所は長所でもある。そんなことはどうでもいいことだ。
人は幸せにならなければならないわけではないし、不幸であってはいけないわけでもない。
われわれが幸せになりたいとか生き延びたいと思うのは、べつに人間の本性ではなく、そう思わされてしまう共同体のシステム(制度性)のもとに置かれているからだ。
システムに踊らされて、「幸せになりたい」とか「生き延びたい」とかと思ってしまう。
幸せになるとはこの社会の勝者になることで、近ごろでは勝ち組・負け組といったりする。そして勝ち組にならないと生き延びられない。
そんなふうに思わせられる社会の仕組みになっている。そしてそんなふうに思うことが人間の本性だ、という合意になっている。
「生き延びる」なんて、この国の伝統においては、ものすごく卑しい物言いなのである。日本人なら恥ずかしくてそんなことはいえないだろうという話なのだが、近ごろでは、生き延びようとするのが人間の本性であるとぬけぬけと語って恥じないインテリがたくさんいる。
それはまあ、この国の伝統としての「無常」という世界観や死生観を心の底に持っているかどうかという問題であり、じつはそれこそが原始時代以来の人間の普遍的な世界観や死生観でもある。少なくとも共同体(国家)を持たない原始人はみな、そういう「無常」の世界観や死生観で生きていた。


     2・幸せが欲しくてうずうずしているだけのくせにさ
べつに、この世のすべての人間が「幸せになりたい」とか「生き延びたい」とかと思っているわけではない。そんなことはどうでもよい、と思っている人間はいくらでもいる。
「この世のもっとも弱いもの」たちは、そんなことを思いたくても思うことが許されていない。
で、そういう人たちに対する負い目があるから、内田樹先生のように、この社会の勝者になるという幸せをあくせく追いかけて生きているくせに「幸せなんか興味がない」などと格好をつける人間がたくさんあらわれてくる。まあ内田信者なんて、そういう人種ばかりなのだろう。
「生き延びる」という幸せ、「この社会の勝者になる」という幸せ、この社会の勝者として生き延びることの幸せ……幸せになりたいとは、生き延びたいということだ。生き延びることの価値を称揚し続けている内田先生こそ、誰よりもそういう「幸せ」を追いかけて生きてきた人なのだろう。そうしてこの社会の勝者としての幸せ自慢を勝ち誇ったように際限もなく垂れ流しながら、「幸せなんか興味がない」もないものだ。まったく、どうしようもなく下品な俗物だ。
内田先生がなぜ「幸せなんか興味がない」といいたがるかといえば、彼だって幸せを追いかけまわすことが人間の本性ではないことを知っているからであり、自分は幸せを追いかけまわしているわけではない、と思いたいのだ。自分はそんないじましい人間ではない、と思いたいのだ。いまどきは、そういう人間がたくさんいる。
彼らは社会の制度性に踊らされて生きているだけのくせに、自分だけそうではないと思いたがっている。自分だけはこの国の伝統としての「無常観」を心の底にしっかり持っている、と思いたがっている。
なんのかのといっても、人は、自分の国の伝統を身につけていないのは愚かで垢抜けないことだという意識がある。それはもう、世界中がそうなのだ。誰もが自分の国の言葉を使って暮らしているかぎり、どうしてもそういう意識になる。
日本語とは、日本の伝統である。フランス語は、フランスの伝統である。ドイツ語は、ドイツの伝統である。
日本語の伝統においては、「幸せ」にもたれかかるのは野暮ったいことだという意識がある。そこにおいて伝統を身につけているか否かが試されている、と多くのインテリが思っている。
しかし、この国の伝統においては、「生き延びる」未来を思うか思わないかも、「無常」という世界観や死生観を身につけているかどうかのリトマス試験紙になっているのであり、そういうことを、内田先生は何も気づかず、のうのうと「生き延びようとすることこそ人間性の本質だ」と吹きまくっている。
生き延びようとあくせくすることなんかこの社会の制度性に踊らされているだけの観念のはたらきにすぎない、ということを、内田先生はまだ気づいていない。彼には、この国の伝統が身についていない。「無常」ということが何もわかっていない。
「幸せなんか興味がない」といいたいのなら、「生き延びる」というスローガンを振りかざすこともあきらめなきゃあ。そんなふうに口先だけで自分をとりつくろって見せても、お里が知れるばかりだ。
内田先生は、武道家として、日本列島の伝統文化の継承者を自認しておられる。そして奥さんもまた能楽の奏者という伝統文化の継承者なのである。そうやってどっぷりと伝統文化に身を浸しながら、この人は日本列島の伝統としての「無常」ということが何もわかっていない。
「無常」とは、「生き延びること」を否定して「未来を思わない」思考のはずである。
世阿弥は「秘すれば花」といったが、内田先生は、勝ち誇ったように幸せ自慢を垂れ流すその態度で、どのようにつじつまを合わせているのだろうか。
まあこの人にとっての伝統文化など、精神の問題ではなく、ただのお飾りなのだ。そういう見せびらかしのワッペンを胸に付けて、格好つけているだけのこと。精神の内実など、何もともなっていない。ともなっていないから、それをワッペンでごまかしている。笑わせてくれる。
しかし彼だって、日本語を使って暮らしているかぎり、私は伝統を身につけている、というポーズはどうしても取りたいのだ。
われわれが日本語を使って暮らしている民族であるかぎり、伝統のことはどうしても気になるし、伝統から逃れることもできない。


     3・無常という激情
日本的な心性の内実が知りたい、という思いは誰の中にもある。
生き延びることを否定した「無常」の文化は、「幸せ」にもたれかかることを否定する文化でもある。生きてあることの「嘆き」に身を浸してゆく、むしろ「不幸」の感覚の文化である。
生きてあることが幸せだから生き延びようとするし、死ぬのが怖いから生き延びようとするわけで、そういうことから無縁の、生きてあることの「嘆き」とともに無常観が生まれてくる。
そしてその「嘆き=不幸の感覚」の中に、日本的な熱情や激情がある。
茶道の「わび」とか「さび」といえば、萎れてゆく不幸の感覚だろう。しかし千利休は誰よりも黄金の輝きを愛したし、最後は時の権力者であった豊臣秀吉と対立して壮絶な切腹をして死んでいった。
生き延びるなどといういじましいことを考えていたら、そういう死に方はできない。
日本列島の住民は、生き延びることを否定する激情を隠し持っている。
千利休は、もともとは堺の商人の家の出で武士ではないのだが、天下一の茶人として秀吉に取り立てられてからは、戦場についていったり政治に参加したりするようになっていった。
そして切腹を命じられた最後は、「この刀で堂々と腹かっさばいて死んで見せようぞ」というようなニュアンスの熱っぽい辞世の句を残して死んでいった。
だから、一般的にはこれを、反権力を貫き武士よりももっと武士らしく死んでいった、というように解釈されている。つまり、秀吉への当てつけだ、と。
そうだろうか。
僕はそうは思わない。
千利休があくまで茶人として生きたのなら、最後に考えることは茶道を極めることであって、政治をどうこうしたいということではなかったはずだ。死んでしまったらもう政治なんかできないのだし、そんなことを思ってもしょうがない。
朝鮮出兵をしようとしていた秀吉の過ちを思いとどまらせるためにとか、「この国の未来のために」という使命感とか、そんなことは生きていればこその話だ。
茶人として死ぬか政治家として死ぬか、という決断を迫られたら、茶人として死ぬことを選ぶしかないだろう。
もとはといえば、茶人として秀吉と対立していったのだ。
秀吉のいうことを聞いて妥協していればこんなことにならずにすんだ。最後は殺されるということを知っていて妥協しなかったのは、「未来を思わない」という無常観こそ茶道の精神だったからだろう。あくまで茶人として、「生き延びる」ために妥協をするということはできなかった。
「この国の未来のため」というなら、生き延びることを選択するだろう。
あくまで茶人として、生き延びようとする自分を許せなかった。
生き延びることを否定して「滅んでゆく」こと、すなわち「いまここ」に消えてゆくことをたしかに実感する作法として、みごとに腹をかっさばいて見せたのだ。秀吉への当てつけなんかではない。もう秀吉のことなんかどうでもよかった。そのとき彼は、すでに70歳を過ぎていた。いつ死んでもおかしくない歳である。
そのとき彼は、「いまここ」で茶道を極めてみせよ、と自分に迫った。
芸術家とか学者とか職人とか、達人とは、そういう人種にちがいない。「いまここ」で茶道と真剣勝負を切り結んだのだろう。
内田樹とかいう60歳を過ぎてもまだ「生き延びる」ことばかり考えている三流のアホな俗物の学者とはわけが違う。
千利休が確立した茶道とは畳二枚の空間の茶室で「この生もこの世界も完結している」と実感してゆく作法であったとすれば、彼こそ誰よりも「いまここで消えてゆく」ということに対する思いは切実だったにちがいない。
彼にとってその切腹という行為は、それ自体純粋な茶道そのものの作法だったのかもしれない。
もしもそこに何らかのメッセージ性があるとすれば、それは秀吉に対するものではなく、後世の茶人に対して、茶道とは「いまここ」で消えてゆこうとする激情をたぎらせる作法である、というメッセージだったのかもしれない。
もともと茶道は、戦国時代の戦場で命のやりとりをしてきた武士たちの「無常」の死生観を称揚する作法として生まれてきたものである。もうここで死んでもかまわない、と腹をくくるための一服だったのだ。
であれば、千利休がそういうかたちでみずからの茶道探求の人生を締めくくったのは、当然の帰結だったのかもしれない。
彼は、そういうかたちで日本列島の伝統の死生観を極めた。


     4・それは、仏教でも神道でもない
日本列島の無常観においては、「いまここ」で消えてゆくことが生きる作法であり、死んでゆく作法にもなっている。それは、仏教の死生観や世界観とは別のものである。そういう日本列島独自の死生観や世界観が、仏教が入ってきたあとも絶えることなくずっと引き継がれてきた。
仏教だって、日本列島に入ってきて大きく変質してしまっている。そうして神道もまた、仏教の影響を受けて変質してきた。
日本列島の無常観は、げんみつには、仏教でも神道でもない。おそらく、縄文時代から引き継いでいる死生観であり、世界観なのだ。それが、われわれ日本列島の住民の歴史的な無意識になっている。
日本列島の「無常」という「いまここ」で消えてゆく作法は、「霊魂の永遠」を信じていない。それは、仏教でも、仏教の影響を受けて変質しまった神道でもない。
われわれの歴史的な無意識には、「霊魂」という概念がない。この国の人間は、いまだにそうした縄文時代の死生観や世界観を引きずっている。
それは、仏教でも神道でもないし、遠い昔の原初の神道には「霊魂」という概念などなかった、ということかもしれない。
千利休は、「いまここ」できれいさっぱりと消えてゆこうとした。その壮絶な死に方は、おそらく「霊魂」すらも屠り去ろうとするものであったにちがいない。
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