幽霊を見たか・「漂泊論B」14

     1・ここで死んでもかまわないと覚悟すること
内田樹先生、「幸せになりたい」といっても「生き延びたい」といっても同じなのですよ。ほんとにあなたは、どうしようもない俗物だなあ。
どちらも、日本列島の伝統の無常感にはそぐわない。
むしろ「生き延びたい」という方が、もっと無常感にそぐわない卑しい心の動きだ。
あなたは「武道とは戦場で生き延びるための作法である」といっておられるが、戦場の兵士は、武道の達人だろうと百姓上がりの雑兵だろうとみな、「もうここで死んでしまってもかまわない」と覚悟を決めて戦っていたのですよ。
その覚悟なしに戦場に赴くことなんか誰もできなかったし、その覚悟をしっかり身につけていなければ武道の達人にはなれなかった。
実際問題として、戦場の露として消えていった達人は無数にいる。そういう達人の、死をもいとわない戦いぶりの上にチームの勝利がもたらされたりする。
コンピューターゲームじゃないのだから、達人は必ず生き残るとはかぎらないのですよ。達人であればあるほど、生き延びようとするスケベ根性など捨てている。捨てなければ達人にはなれない。達人だから生き延びることができない状況の中でも戦うことができる。
源平合戦の平家の武将に達人がいなかったわけではないでしょう。そうして、達人から先に死んでゆくという場面も多かった。そういう武将の悲劇的な死が平家物語の感動にもなっている。
達人ほど「ここで死んでもかまわない」という覚悟で戦っていた。
これが、中世の武士たちの無常感のかたちです。「ここで死んでもかまわない」という激情を持っていないと達人にはなれないのがこの国の武道なのです。そういう激情から、スムーズな体の動きが生まれてくる。
そういう日本的な激情を持っていないからあなたは、いつまでたっても鈍くさい運動オンチであるほかないのです。
1960年代後半の全共闘運動だって、そのころの世界で一番勇猛果敢に戦う学生たちだと評価されていました。もしも警察の対応が外国並みに乱暴だったら、きっと、さらに多数の死傷者が出たに違いありません。警察だって、学生たちが「死んでもかまわない」というような動きをしてくるからあまり乱暴な対応はできなかった、ということかもしれません。
太平洋戦争しかり、日本列島の住民には、戦場に立てば「もう死んでもかまわない」と思ってしまう激情が生まれてしまう。それは、この国の歴史を流れる無常感に由来する心の動きのはずです。


     2・人類の歴史は無常感とともにはじまった
身体が動くとは、身体が消えてゆくことです。身体が消えてゆく感覚に身をまかせることが、身体を動かすことの醍醐味です。だから、武道の達人ほど「ここで死んでもかまわない」という覚悟を持つことができる。
身体が消えてゆくこと、すなわち死んでゆくこと、体がうまく動くとはそういう感覚なのです。
身体が消えてゆく感覚を深く豊かに持っているものでなければ、武道の達人にはなれない。
「生き延びる」などといっているかぎり、あなたは死ぬまで武道の達人にはなれない。
二本の足で立ってじっとしていることは、とても苦痛で不安定な状態です。だからわれわれは電車に乗れば座ろうとするし、小学校の朝礼では、立っていられなくて動き回ったり倒れてしまったりする子供がたくさんいる。
で、その状態から歩いてゆけば、足=身体のことなんか忘れてしまう。つまり、身体が消えてゆく。そうやってわれわれは、歩きながら景色をめでたり考えごとをしたりしている。そのとき身体に対する意識は消えているから、ほかのことに意識を向かせることができる。
人間の本性=自然としての意識のはたらきは、身体が消えてゆく感覚の上に成り立っている。
人間は、身体に対する意識を消そうとする。というか、生き物の身体が動くということは、身体に対する意識が消えてゆくことの上に成り立っている。
原初の人類は、二本の足で立っていることの「嘆き=居心地の悪さ」を引き受けることによって、猿から分かたれた。そしてそこから歩いてゆけば、身体のことを忘れ身体が消えてゆくカタルシスが生まれた。
猿だって二本の足で立つことができるけど、彼らはこのカタルシスを知りません。彼らは、少し前屈みになってちゃんと直立していません。いつでも戦闘態勢に移れるように準備しながら立っている。しかし人間は、直立して、その不安定と胸・腹・性器等の急所を相手の前にさらす危険を引き受けた。それは、とても無防備でとても居心地の悪い不安定な姿勢だった。しかしその「不幸」を引き受けたから、そこから歩いてゆくことに「身体が消えてゆく」というカタルシスが生まれた。
人間は、猿よりももっと「身体が消えてゆく」ことのカタルシスを知っている。
したがって人間は、その本性=自然において、身体が大事の生き延びようとする衝動を持っていない。
原初の人類は、生き延びることを捨てて二本の足で立ち上がった。そうしてそこから歩いてゆくことによって、身体が消えてゆくカタルシスを体験していった。その身体が消えてゆく感覚を紡いでゆくことこそ、人間の生きるいとなみであり、身体を動かしているときの意識のはたらきなのです。
つまり日本列島の伝統としての無常感は、そういう人類の起源にまでさかのぼることのできる伝統でもあるのです。


     3・縄文人の無常感
身体を動かすことは、身体が空間に溶けてゆくことです。スムーズに動けば動くほど、身体の物性が消えてゆく感覚になる。
そしてこの国の伝統としての無常観は、「身体が消えてゆく感覚」の上に成り立っている。
縄文人は、ひたすら山道を歩きまわっていた。彼らは、信じられないほどの距離を一日で歩いた。そうやって身体が消えてゆく感覚を身につけていった。
人間が二本の足で立って歩く存在であるということは、人間なら誰もが「身体が消えてゆく」感覚を体験しているということであり、無常感は人類普遍の世界観であり死生観であるともいえます。
原初の人類は、「もうここで死んでもいい」という心意気で地球の隅々まで拡散していったのです。
身体が大事で生き延びたいのなら、何も好きこのんで氷河期の極北の地に住み着いてゆくということはしない。
世界中の人類が無常感を心の底に共有している。
縄文時代がなぜ1万年も続いたかといえば、それが人類普遍の世界観や死生観の上に成り立った社会だったからでしょう。
そしてこの無常感は、人類普遍のものであるがゆえに、現代社会で暮らすわれわれの中にも息づいている。
もののあはれ」だって、身体が消えてゆく感覚をあらわす言葉でもあったのです。「もの」とは「身体」のことでもあり、「あはれ」とは「消えてゆくこと」をあらわす言葉です。
われわれ日本人は、氷河期明け以来の1万3千年の歴史を、無常感とともに歩んできた。


     4・国家なんか信じない
内田樹先生、あなたにしろ上野千鶴子氏にしろ、そうかんたんに「生き延びる」などといわれても、われわれにはピンとこないのです。
いまどきの日本人はみな、観念的には生き延びようとする意識になってしまっているのかもしれないけど、それでも心の底には「いまここ」で消えてゆこうとする無常感を共有している。
それは、人類普遍のもうひとつの意識であり、日本人はことにその意識を濃く抱え込んでしまっている。
だからわれわれは、世界中の人以上に生き延びようとする共同体の制度性との桎梏に悩まねばならないのです。
われわれは、心の底では「霊魂の永遠」などということを信じていない。
世界中の人々が「国歌」や「国旗」を無条件に信奉している時代にあって、われわれはいまだにそれらに深くなじんでゆくことができない。それだって、無常感という無意識の問題です。国家であれ、そんなものを確かで大切なものとして信奉することは、われわれにはできない。
「いまここ」で消えてゆこうとしている民族にとって、国家の存続を願う気持ちは希薄です。まあ、国家の存続の危機をほとんど体験することなく「万世一系」で歴史を歩んできた民族ですからね。そういうこともあるかもしれません。
われわれは、国家の存続どころか、みずからの身体の存続すら願っていない。
日本列島の伝統の文化に、「国家の存続」とか「生き延びる」ということはそぐわない。
われわれは、国家の存続の上にこの生をイメージすることができない。どんなに観念でそれを信奉しても、心の底では「いまここで消えてゆく」という無常感から逃れることができない。
われわれの心は、つねにこの国の伝統である無常感から照射されている。「生き延びる」ことをスローガンにする現代社会を生きるわれわれ日本人の心は、そこで混乱している。
われわれは深く自分を日本人だと意識し、つねに日本人とは何かと問うて生きているが、愛国心などというものはない。
それは、われわれが「永遠」とか「存続(生き延びる)」ということに興味がなく、「いまここで消えてゆく」ことを生きる作法にし、死んでゆく作法にしている民族だからです。
われわれほど日本人であることにとらわれている民族もないと同時に、われわれほど「国家」を信じていない民族もない。
つまり、われわれが日本人であることは、国家とか制度性の問題ではないのですよ。そういうことから離れたところにわれわれの生きてあることの感慨があり、日本人であることの確認がある。
神風特攻隊の兵士が、死んでゆくそのときに「天皇陛下万歳」と叫ぶことはあっても、「日本万歳」とは叫ばなかった。このことが何を意味するのか?われわれは、「お国」のためには死ねない民族なのです。
国家など信じていない民族が国家をいとなんでゆくためには「天皇」という存在が必要だった、ということでしょうか。まあ、このことを考えはじめるときりがなくなってしまうから、ここではやめておきますが。
とにかくわれわれは、どうしようもなく日本人であってしまうのだけれど、国なんか信じていないのです。「国なんか信じていない」といっても、「おまえは日本人ではない」とはいえないのです。国なんか信じていないのが、日本人なのです。繰り返しますがそれは、われわれが「いまここに消えてゆく」ことを生きる作法にし、死んでゆく作法にしている民族だからです。
内田先生、あなたのように「生き延びる」などというスローガンを振りかざしているかぎり、日本人であることの「かたち」は何も見えてこないのですよ。


     5・幽霊を見た……われわれはうまく死んでゆくことができているか
われわれは、心の底の本音のところで、「国家」も「天国」も「極楽浄土」も「霊魂の永遠」も信じていない。なのに共同体の制度性によってそれらを信じ込まされている。そういう観念性を持たされてしまっている。そうして、混乱してしまっている。
われわれが死を前にして「国家」や「天国」や「極楽浄土」や「霊魂の永遠」をイメージするとき、それらは恐怖の対象になる。それらのイメージに追いつめられてしまう。心の底にそれらに対するリアルな実感を持っていないから、わけがわからないものとして立ちあらわれてくる。それらは、われわれの救いにはならない。
たとえば、われわれにとって「霊魂の永遠」を信じるということは、死んだ人がお迎えにきているとか、自分は死んだあとに幽霊になってこの世界をさまよわねばならない、というような強迫観念に浸されてしまうだけなのです。
日本人はなぜ幽霊を見てしまうのか。
天国や極楽浄土に思いを馳せることができない民族だからです。迷信深いからではなく、迷信深くないからこそ、天国や極楽浄土に行けないでさまよっている幽霊をイメージしてしまうのです。
霊魂などというものを信じ込まされても、われわれのイメージは天国や極楽浄土に届かないのです。
そこで宗教者は、だから「霊魂の永遠」とともに天国や極楽浄土まで導いてやらねばならない、などという。
しかしそれが、はたして根本的な解決になるでしょうか。そんな解決の仕方ばかりしているかぎり、日本人はいつまでたっても幽霊を見てしまう民族であり続けなければならない。
死を前にして死の恐怖に打ち震えている人たちは、「霊魂の永遠」に必死にすがることでしょう。そうしてとりあえずの慰めを得る。しかし腹の底から信じているわけではないから、最後まで信と不信のあいだを行ったり来たりしなければならない。で、けっきょくは疲れたりあきらめたりしながら納得した気になって、少しずつ落ち着いてゆく。われわれ日本人は、そうやって心が弱ってしまうかたちでしか「霊魂の永遠」は信じられないのです。
つまり、「霊魂の永遠」で説得しているかぎり、根本的な解決はいつまでたっても実現しないし、解決に向かっているかたちでもない。
現在でも実際に、死におびえて幽霊を見ている人がたくさんいるのです。
内田先生、あなただって最後には幽霊を見てしまうタイプの人間だから、「死者を弔うことは死者と対話することだ」などと言い出すのです。
「霊魂の永遠」を信じつつ天国や極楽浄土は信じられないから、スピリチュアルの「生まれ変わり」とか「輪廻転生」というような間に合わせのイメージが生まれてくる。
げんみつには、しんそこ天国や極楽浄土を信じている人間なんか世界中にひとりもいないのかもしれない。というかわれわれの脳は、それを信じてしまう観念と信じない観念との二つのはたらきを持っている、ということでしょうか。
共同体の制度性は、人の心をなにがなんでも生き延びようとする方向に向けさせてしまう。しかし、日本列島の伝統である無常感は「いまここで消えてゆく」ことにある。われわれ日本人の心は、この二つのあいだで揺れている。
人間が何がなんでも生き延びようとする存在であるのなら、「霊魂の永遠」でもいいのですけどね。「いまここで消えてゆく」という伝統文化を持っているわれわれ日本人はたぶん、世界のどこよりもそれだけではすまない心の動きを色濃く持たされているのではないでしょうか。
そしてそうやって「いまここで消えてゆく」カタルシスを汲み上げながら生きているのが、二本の足で立っている人間の生の普遍的なかたちなのではないでしょうか。
「霊魂」の問題は、やっかいです。
誰だって、どこかしらで「霊魂」を信じている。
しかし「霊魂」の問題として生きる作法や死んでゆく作法を語っても、根本的な解決にならないような気がします。内田先生、あなたたちの人生相談なんて、みなこの手法ですけどね。
そんなパラダイムで語っているかぎり、日本人はいつまでたっても幽霊を見なければならない。
われわれ日本人は、「霊の安らぎ」よりも、「いまここ」で消えてゆく激情を持たなければ生きることも死ぬこともできないような心を持っている。それが、ここでいう無常感です。
「わび・さび」といっても、激情の表出でもあるのです。