社会運動の失敗・「天皇の起源」44


美意識とは、死に対する視線のことだろうか。人間とは死を知ってしまった存在であり、じつは美意識が人間を動かしている。
美意識を共有してゆくことによって社会が成り立っている。
美意識を共有していないと同じ地域や同じ屋根の下で一緒に暮らせないし、一緒に語り合えない。
言い換えれば、美意識の違いが国境をつくっている。
言葉は、伝達の道具として生まれてきたのではない。意味の伝達はあくまで二次的な機能であり、まずその音声を聞くことの心地よさ(耳触りの良さ)が共有されながら原始社会に定着していった。
そしてどんな音声が心地いいかの(美意識の)違いが国境をつくっていった。
伝達する意味内容が地域ごとに違うわけでもあるまい。
たとえば、東京の山の手言葉は、下町の言葉と意味内容が違うわけではない。言葉の響きに対する感覚(美意識)が違うだけだ。どちらも、美意識が違う相手とは一緒に暮らせないし一緒に語り合えないという気分とともに棲み分け、言葉が違っていった。
言葉が意味の伝達を第一義の機能とするのなら、だんだん同じになってゆくはずである。しかし実際には、だんだん違ってゆく。
氷河期以前の地続きであったころの日本列島と朝鮮半島は、同じような言葉を使っていたのかもしれない。しかし美意識が違ってくることによって、だんだん別の言葉になっていった。意味の伝達の機能は同じでも、言葉に込められた美意識が違う。人と人の付き合い方の流儀も違う。
言葉は、音声の響きに対する感覚(=美意識)が共有されることによって言葉としてのかたちになってくる。
東京の山の手は、明治になってから故郷が違う人たちが集まってきてできた町である。だから、あまり馴れ馴れしくしない関係の作法が定着してゆき、馴れ馴れしくない言葉の響きを大切にするようになっていった。
それに対して江戸弁といわれる下町言葉は、すでにもう何世代も前から一緒に暮らしてきた人たちの言葉だから、関係の作法も音声の響きに対する感覚=美意識も違っていた。
人間社会の言葉は、それぞれの地域で音声の響きに対する固有の感覚=美意識を共有しながら生まれ育ってきた。
社会は、美意識を共有していることの上に成り立っており、その美意識で共通の何かを祀り上げてゆくことによって動いている。



人間の社会は美意識で動いている。
根源において社会は、美意識で何かを祀り上げながら動いているのであって、生き延びるための装置ではない。
生き延びるのに都合がいいようにつくろうとしても、その通りにはならない。
人間は、祀り上げることをしていないと生きられない。
この生を祀り上げるのではない。この生のいたたまれなさを忘れるために自分の外の世界の何かを祀り上げずにいられないのが普遍的な人間存在のかたちなのだ。
意識はつねに何かについての意識である。意識が自分に向いているとき、世界に対する関心は消えている。意識は、二つのことを同時に意識することはできない。
この生はいたたまれない。この生に張り付いた意識を引きはがさないといけない。そのためにこの生(身体)の外の世界に関心を向けてゆく。
身体の外のこの世界の何かを祀り上げてゆくことは、意識がこの生(身体)に張り付いてしまっている「穢れ」をそそぐことである。
そしてその祀り上げる対象は、自分だけのものよりみんなで共有しているものの方が、心はよりダイナミックに盛り上がる。
人間にとってこの社会は、この生を祀り上げるためにあるのでも、生き延びるためにあるのでもない。この生(=生き延びること)を忘れるためにみんなで祀り上げる対象を共有してゆこうとするところなのだ。
そのようにして社会が動いてゆく。



人間は、根源において生き延びようとする存在ではない。だから、人殺しや戦争が起きる。人殺しや戦争をしようとするのは、それが赦されることだと思っているからだろう。いや、正当なことだと思っていたりする。心の底では、誰もが「人間は生き延びねばならない存在である」などとは思っていない。それは、たんなるたてまえの正義であって、人間の本音ではない。
必ず死ぬ存在である人間が「生き延びねばならない」となんか思いようがないし、そんなたてまえに執着しながら死ぬことを前にして悪あがきする人もたくさんいる。
誰だって、心の底では、人間は死んでもかまわない存在である、と思っている。人類の文明は、まだまだ死ぬことを否定したり拒んだりできるようなレベルにはなっていない。
生きているということは、死んでしまう可能性を持っているということだ。その事実と和解しようとするなら、「生き延びねばならない」という前提のスローガンなど持つわけにはいかない。
しかし、自分が生き延びねばならない理由はないが、他人は生きていてくれないと困る。この世に他人が存在しないと、意識が自分にばかりに張り付いて、自分のことを忘れられなくなってしまう。
体の苦痛は、誰だって忘れようとするだろう。それは、自分を忘れようとすることだ。誰だって、生き物として、自分(=身体)を忘れようとする衝動を持っている。
自分に関心を持つのが価値(主義)であるのなら、死ぬわけにいかなくなってしまう。自分を忘れて何かに関心を持っているということができないなんてしんどいことだし、自分を忘れることが生きることの基礎になっているのなら、「生き延びねばならない」という前提など持ちようがない。そして、自分を忘れるためには、他人が生きていてくれないと困る。他人の存在は、自分が自分を忘れるためのよりどころである。
人間は、自分が生き延びねばならないという前提を持つことができない存在であると同時に、他人が生きていてくれないと困ると思う存在でもある。
人間は自分の外の世界の何かを祀り上げていないと生きられない存在である。それは、自分が生き延びねばならない理由はない、ということでもある。
したがって、生き延びるための社会をつくろうと扇動されても、たてまえで賛同しても、それが本音の心に響いてくることはない。
「生き延びる」というスローガンは、根源において、人間の祀り上げる対象にはなりえない。
社会の中で暮らしている人々は、祀り上げる対象を共有したがっている。そのための「社会」なのだ。
祀り上げるのは美意識によるのであって、正義や道徳ではない。
人間の自然としての美意識は、この世界や他者にときめくようにできている。他者に生きていてくれと願うようにできている。
そして、他者に生きていてくれと願う意識は、自分が「生き延びる」ことを願う意識の上には成り立たない。
人間は、「みんなで生き延びよう」と願っているのではない、「自分以外のみんなが生き延びてくれ」と願っているのだ。自分が生き延びることなど忘れたがっている。そうやって人は人にときめいているのであり、そこにこそ人間存在のダイナミズムがある。
「生き延びる」というスローガンは、根源において人を説得することはできない。なぜなら人間は、根源において生き延びなくてもよい存在だからだ。



たとえば、福島の原発事故のあとに原発反対運動が起きてきたのは、「生き延びる」ことをスローガンにした運動であったはずだ。
が、日本中を巻き込むほどの大きなムーブメントにはならなかった。
人々が原発推進を支持していたからではない。誰もが反対の気分だった。それでもその運動は、さほど盛り上がらなかった。
まあそのわけはいろいろ挙げることができるのだろうが、つまるところ「生き延びる」というスローガンが人々の心の底を揺らさなかったからだろう。
あの大震災の直後、人々は、死んでいった人の無念と生き残った人のかなしみを祀り上げる感慨を共有していた。それはたしかに悲惨な出来事だったが、同時にわれわれは、何かとても純粋で美しいものを前にしているような感慨があった。
そういうときに「生き延びる」というスローガンを叫ばれても、今ひとつ胸に響いてくるものがなかった。
たしかにあのころ、原発反対をヒステリックに叫んでいる人は誰のまわりのもいたが、それが国民の総意ではなかった。リーダーたちは、そこを見誤った。
人々は「いまここ」に立ちつくし、無常感に浸されていた。無常観とは、「いまここ」の純
粋で美しいものを祀り上げようとする心である。あの悲惨な災厄によってよみがえったその美意識の伝統こそが、人々の心をつなげていた。この国はことに、「生き延びる」というたてまえのスローガンでは盛り上がらない風土がある。
まあ、よきにつけ悪しきにつけ人間は「生き延びる」ということがどうでもいい存在だから、人殺しや戦争もする。
戦前の国民が戦争をすることを受け入れていったのは主体性がない国民だからだとよくいわれるが、もともと「生き延びる」というスローガンに対する執着が薄い国民であり、それが人間の普遍性でもあるからだろう。
世界中の国民は、戦争を拒否しない性格を先験的にそなえている。だからといって戦争をしてもいいはずはないが、その避けがたい人間性は自覚しておいてもいいだろう。
人間は、根源において「生き延びる」ことに執着していない。
社会は、「祀り上げる」対象を共有してゆくことによって動く。「ヒューマニズム」とか「生き延びる」などというたてまえの正義で国民を説得できるとはかぎらない。
戦争中は、天皇をはじめとして、いろんなものをみんなして祀り上げていた。
正義が人間を説得するのなら、日本もドイツも戦争なんかしていない。
人間が共有している祀り上げる対象は、「生き延びる」などという正義ではないし、祀り上げる対象を共有してゆくことによって社会は結束し動いてゆく。
人は、純粋で美しいものを祀り上げてゆく。これはもう、世界中の人間がそうなのだ。だからわれわれがそういうことの形見としての天皇という存在を持っていることを、もしかしたら西洋人も中国・朝鮮人も、うらやましいと思ったりやっかんだりしているのかもしれない。



美意識が祀り上げるということをする。
なんのかのといっても日本列島の住民が天皇を祀り上げるのは、縄文以来の「無常感」という美意識の伝統があるからであって、べつに政治的な理由があるのではなく、生き延びるために天皇が必要だなどとは誰も思っていない。ただもう、人間は純粋で美しいものを祀り上げずにいられない存在だからだ。
天皇は、弥生時代奈良盆地の人々がこの感慨を共有しながら生み出していった。何はともあれ原初の天皇は、人々にとってのとても純粋で美しいものだったのだ。
この国は、というより普遍的に人間社会は、純粋で美しいものを祀り上げようとする衝動を持っている。それはもう、日本人だろうと西洋人だろうと中国人だろうと、みんなそうなのだ。何が純粋で美しいかという美意識の色合いはそれぞれ多少の違いはあるにしても、それはもうそうなのだ。そしてこの国の天皇はそういう契機から生まれてきたのであって、政治的な存在と登場してきたのではない。後世の支配者が政治的な存在として登場してきたと宣伝しまくっていただけのこと、その宣伝にまんまと乗せられ信じ込んでいる歴史家は多いが、愚かなことだ。
世界中の皇帝の中でこの国の天皇がもっとも長く続いたということは、それだけもっとも普遍的な何かをそなえている存在だったからだろう。
政治的な存在なら、いずれ追放される。それはもう世界中の歴史の法則だ。
天皇は政治的な存在ではなかったから、二千年も続いてきた。
天皇は、われわれを支配してきた存在ではなく、われわれが祀り上げてきた対象である。支配というなら、われわれの方が天皇に寄生し支配してきたのだ。
日本列島の住民は、天皇を政治的な存在としてではなく、この世のもっとも純粋で美しいものの象徴として祀り上げてきた。天皇はもともとそういう存在として生まれてきたのであり、天皇に対するそういう感慨は、その後の日本列島の歴史の通奏低音としてずっと作用し続けてきた。
天皇がいなくなっても、この国の政治経済には何の影響もない。しかしわれわれがこの二千年はぐくみ共有してきた美意識のよりどころを失う。
天皇なんて、われわれの美意識のよりどころにすぎない。しかし、その美意識を共有してゆくことこそこの社会の成立基盤なのだ。
とくにこの国では、「生き延びる」とか「よりよい社会をめざす」というスローガンがあまり有効に機能しない伝統風土がある。



階級社会、などという。
人間社会は、なぜ階級によって棲み分けるということが起きるのか。
最初は金持ちも貧乏人も混在していた。
江戸時代は、武士も町民もだいたい同じ地域に住んでいた。江戸城のまわりの四谷や神田には、武士も町人もいた。
それが明治以降になって、皇居をはさんだ白金台や麻布と神田や浅草はまったく雰囲気の違う町になっていた。
それは、人々の関係の作法をはじめとする美意識の色合いが違っていたからだ。
弥生時代奈良盆地では、階級などなかったし、縄文時代の1万年を通じて培ってきた美意識を共有していた。1万年も続いたのだから、この共有された美意識は、そうかんたんには変質しなかった。したがって彼らは、美意識の違いで棲み分けるというようなことはしなかった。みんなが、純粋で美しいものを祀り上げるという美意識を共有していた。
おそらく日本列島全体が、棲み分けるほどの美意識の違いなどなかった。それは、ほとんど戦争など起きなかったということだ。奈良盆地と出雲や吉備とのあいだに美意識の違いはほとんどなかった。だから人々は、そのあいだをさかんに往還していた。
まあ日本列島には、他人との関係に対する意識がお花畑である、という伝統がある。それは、島国の中で共通の美意識を共有してきたからだ。
そういう美意識を共有してゆくための形見として、弥生時代奈良盆地では天皇が祀り上げられていった。
その美意識の共有という伝統が崩れてくるのは、大和朝廷ができて本格的に大陸文化を取り入れるようになってきてからだ。
まあ奈良盆地は内陸部であり、九州や出雲や吉備よりも地理的に大陸文化の影響は遅れていたが、もっとも大きな集落をつくっていた。それはつまり、美意識を共有してゆく社会のダイナミズムをもっとも豊かに持っている土地だったということを意味する。そういう土地柄から天皇が生まれてきたのであり、現在の歴史家はこのことをあまり考えていない。
天皇は政治的な存在として登場してきたのではないし、美意識を共有してゆくことによる社会のダイナミズムを、彼らは考えていない。
原始時代であろうと現代であろうと、社会のダイナミズムは政治によってではなく、美意識を共有してゆくことによって起きる。
「生き延びる」などというスローガンを掲げてもだめなのだ。それが、原発運動の尻すぼみが残してくれた教訓である。



人と人が関係するのに身分や財産の差などなどなんとでも超えてゆくことができるが、美意識が違うともう、一緒に暮らせないし語り合えなくなってしまう。
日本列島には、天皇や無常観という共有する美意識があった。「生き延びる」なんてどうでもいい、という人類普遍の美意識を日本列島の住民は歴史的に共有してきた。
が、戦後、そのかたちが崩れて、関係の作法をはじめとする人々の美意識もひどくあいまいになってしまった。混乱してきた、というべきだろうか。
原発反対のような「生き延びる」というスローガンが幅を利かせてきたのが戦後の歩みであり、「生き延びることなんかどうでもいい」というこの国の伝統であると同時に人類の普遍でもある美意識が衰退していった。たぶん、現在は、そうやって多くの社会病理が起きている。
現在のこの国は、バブル景気が崩壊したり相次ぐ大震災が起きたりして、なんだか中世の状況に似ている。だから世の無常というこの国の伝統的な美意識がよみがえりつつあるのだが、それでもやはり、いまだに「生き延びる」だの「よりよい社会をつくる」などという戦後的なスローガンを声高に叫ぶものたちが亡霊のように跳梁跋扈してもいる。
今しばらくはそういう過渡期が続く、ということだろうか。
平安末期から鎌倉時代にかけては、無常がいわれはじめ、それまでの迷信に支配されていた状況が徐々に衰退していった時代であり、そのあとに室町文化が花開いた。
日本的な美意識は、室町時代にひとまず完成した。しかしその美意識の伝統は、はたして現在にも継承されているだろうか。
たとえば、明治時代の欧米において、日本列島からの留学生は、ほかのアジア人よりも評判がよかった。この国独自の美意識を下敷きにした人付き合いの作法を持っていたからだ。なぜそんなにも自分を主張することも人を警戒することもなく優雅に人と向き合うことができるのかミステリアスだ、ともいわれていた。そういう特質を持っていたからいち早く欧米に追いついてゆくことができたということもある。
日本人は、ほかのアジア人よりも欧米人から贔屓されていた。
では、今の日本からの留学生は、そういう美意識の伝統と評判のよさを継承しているかといえば、戦後、どんどん評判が悪くなっていったといわれている。
付け焼刃の「生き延びる」などという正義や人間観を持っても、それを上手に表現する作法を知らないし、そんな正義や人間観ですり寄っていっても欧米人には軽くあしらわれるだけである。
われわれは、日本人の「ミステリアス」を失いつつある。と同時に、近ごろの外国でよく聞かれる「ジャパンクール」といわれるポップカルチャーは室町以来の伝統の美意識がよみがえったコンセプトをそなえており、まあ過渡期なのだろう。
日本人の「ミステリアス」は、美意識にあり、たぶん、世界中がそれを知りたがっている。なぜなら、美意識こそがじつはこの世界やこの生を成り立たせている基礎であるからだ。
政治的なスローガンが終焉を迎えつつある時代だからといって、その代わりに「生命の尊厳」とか「生き延びる」などという倫理・道徳を語ってもなお鬱陶しいだけだ。そんなことでは人々は動かないし、新しい時代のダイナミズムは生まれてこない。
また、すぐれたリーダーの登場によって新しい時代が実現されるというのも幻想だ。新しい時代のムーブメントは、人々が美意識を共有してゆくところから生まれてくる。
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