世界は美意識で動いている・「天皇の起源」43

<はじめに>

御訪問、ありがとうございます。
僕は、ふつうに社会人生活をしていれば、定年を迎えてひと仕事すませた気分になれるような年まで生きてきてしまいました。それなのに、どこをどう間違ったのか、自他ともに人並みと認められるような生活とは、もう20年以上縁がありません。そのあいだ、何をしてきたのかと問われても、ひと口に答えることはできませんが、ずっと考えてきたことがひとつだけあります。それが「人間とは何か」ということです。
人間とは何か、生きてあるとはどういうことか、その根源というか普遍に迫りたい、どうしても知りたいと思ったら、現代都会人の表層的な心象だけ考察して終わりというわけにはいきません。たとえば、今のわれわれ日本人は戦前の日本人の直系のせいぜいが二代目三代目の子孫で、生き物としてはまったく同じとしか表現のしようもないでしょうが、それでも戦前の祖先の生活や心象についてはよほど想像力をたくましくして思考実験をくり返してみない限り、ほんとうのところどうだったのか、なかなか見えてきません。
で、もっともっとと根源を問うてゆくうちに、とうとう直立二足歩行の起源に辿り着いてしまいました。
このブログは、直立二足歩行の起源やネアンデルタール人にまでさかのぼったところからはじめた、いわば人類論です。2006年の12月に書きはじめ、あちこち寄り道したり脱線したりしながらも、「人間とは何か」という一貫したテーマで書き続けてきました。
お手本のテキストもなく師も同伴者もいない孤立無援の作業だし、真実を確認することのできないテーマがほとんどだから、ときには足踏みしたり虚しくなったりしてしまうこともあるけれど、どこかで誰かも同じ問いを同じように途方に暮れながら宙に向かって問い続けているのではないか、という希望も捨ててはいません。そんな誰かに是非読んでもらいたいし、できればコメントももらって語り合いたいという気持ちを抑えきれず、思い切ってブログランキングに登録しました。興味を持ってくださる方は下のマークのクリックをお願いします。そうすることで少しでも多くの人の目に触れ、できれば建設的な反論や、論理的な穴や甘さの指摘などもしていただけるようになったら、望外のよろこびです。
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<本文>

世界は美意識で動いている・「天皇の起源」43



迷信とは、現代的な心の動きである。原始人よりも現代人の方がずっと迷信深い。それは思いたいように思うことであり、そのような欲望は現代的だ。
都市伝説こそ迷信の最たるもので、それは欲望という作為性が肥大化した社会から生まれてくる。
原始人は、自然のあるがままをそのまま受け入れていた。自然をつくり変える能力も意欲も希薄だった。そんな社会から呪術や迷信が生まれてくるはずがない。
原始人は文明が未発達だったから食うことや生き延びることに必死だったというのが、歴史家の平均的な見解である。そういうことであるのなら、そこから迷信や呪術が生まれてくる可能性もあるが、その見解は現代人のたんなる優越感にすぎない。
原始人は、そんな作為的な人種ではなかった。
人類700万年の歴史の699万年はきわめて緩やかな進化だった。それは、それほど食うことや生き延びることに必死ではなかったことを意味する。必死だったら、二本の足で立ち上がった瞬間から一直線にもっと早く進化してきているはずである。
とくに最初の3,400万年間は、知能も体格もチンパンジーとほとんど同じレベルで、まったく進化しなかったともいえる。
それでも人間は人間で猿は猿だったわけで、猿の方が生き延びることに必死の歴史を歩んでいた。
原初の人類は猿よりも弱い猿だったが、猿よりもずっと繁殖力があったし、どこでも暮らせたし、なんでも食うことができた。この能力を「生き延びることに必死だったから」と解釈すると間違う。それは、みずからの「いまここ」を受け入れる能力を意味するのであって、それに対して現代人は、生き延びようとする作為的な欲望が強いから、暮らしたいところに暮らし、食いたいものを食い、思いたいよう思う。この生も自然も、自分の思いたいように支配してゆこうとする。
原始社会が女権社会だったのは、原始人はみなみずからの「いまここ」を受け入れながら暮らしていたからであり、そういう能力は女の方が優れている。
もともと人間は、猿よりももっと生き延びようとする作為的な欲望が希薄な存在だった。
チンパンジーはいまだに赤道近くの限られた場所にしかいないが、人間は、原始人の時点ですでに地球の隅々まで拡散していた。
原始人は、食うことや生き延びることになんか執着していなかった。「いまここ」が充実していればあとは野垂れ死にしようとどうでもいいという作法で歴史を歩んでいた。
ひとまず現代人と原始人は人種が違うと考えた方がいい。現代人の変な優越感など無意味だ。
原始人は生き延びる未来を欲しがる意識は希薄だったのだから、そのための呪術も、そのことから来る強迫観念としての迷信も思い浮かべなかった。
必死に生き延びようと頑張れば迷信深くもなろうが、原始人はそんな人種ではなかった。
原始人はのんきだった、というのではない。チンパンジーはいまだにユートピアを離れようとしないが、人間はユートピアではない場所でけんめいに「いまここ」に反応しながら生きてきた。生きることの嘆きを生きた心地にして生きていた。
彼らは、生きにくいことを嘆きつつ受け入れ、それに体ごと反応してゆくことによって生きた心地(カタルシス)を汲み上げていた。
原始人は、現代人のようにスケベ根性の旺盛な人種ではなかった。したがって彼らが迷信や呪術を思い浮かべるはずがない。
生き延びようとする欲望やそれに伴う作為性が強い人間ほど迷信深くなる。だから、人類史において、現代人がもっとも迷信深い。
原始社会に都市伝説などなかった。



呪術や迷信は、人間が農業をするようになってから肥大化してきた世界観かもしれない。農業は、まさに自然をつくり変える行為である。自然をつくりかえようとする欲望は、自然があり得ないかたちに変化してしまう不安・妄想を生む。神がどうのとかスピリチュアルがどうのとかという現代人のオカルト信仰は、みずからの作為性の自業自得である。そういう宗教心というのか迷信深さを自分の心の清らかさのようなつもりでいる人は多いが、そんなものはみずからの作為性という欲望の反映にすぎない。
人間は、思いたいように思いながら「神」や「霊魂」という概念を生み出した。
理屈と膏薬は何にでもくっつく。神だろうと霊魂だろうと、科学の言葉で語ることだってできる。そう語りたければ、そう語ることができる。そう思いたければ、そう思うことができる。
神や霊魂は存在するという理屈も、存在しないという理屈も、科学の言葉で語ることができる。神や霊魂の存在を信じている科学者はいくらでもいる。信じようとする欲望があれば、信じることができる。
現代人は、みずからのそうした欲望や作為性にしっぺ返しを食らって、どんどんオカルト的になってしまっている。
欲望や作為性が肥大化した社会の中に生きていれば、どうしても心はオカルト的になってしまう。
神は存在するという社会の中で生まれ育てば、とうぜん誰だってそれを信じてしまう。それはもう、しょうがないことだ。米を食って育った人間が米が好きだというのと同じことだ。
しかし、大人になってから宗教に目覚めるとかしてどんどんオカルト的になってゆくのは、その人がひといちばい作為的に生きてきたからであって、心が清らかだったからではない。
欲望や作為性にまみれて生きてきた人が心の落着き先を探そうとして、神やスピリチュアルを信じてゆくのだし、彼らは信じることができる能力をたっぷり持っている。
人間の作為性は、宗教や迷信に回収されてゆく。
原始人は、神や霊魂が存在するともしないとも思っていなかった。そんなものは知らなかったし、そんな概念を生み出すような欲望や作為性は希薄だった。
神や霊魂の存在を自慢たらしく語って押し付けてくるなんてひとつの暴力だと思う。
しかしそんなとき、神や霊魂など存在しない、と反論しない方がいい。神や霊魂について考えたことがない人間にとってそれは「わからない」ことなのだ。
そんなものなど知らないのだもの、「ある」とも「ない」ともいいようがない。



おそらく原始人は、神も霊魂も知らなかった。そんな概念が生まれてくるような社会にはなっていなかった。
たとえば彼らは、日食が起きても、神の祟りだなどとは思わなかった。「ああ、自然にはそんなこともあるのか」と思うだけだ。
自然は神がつくった、などという世界観は人間の作為性から生まれたのであって、生き延びようとする欲望や作為性が希薄な原始人にそんな発想はできない。
人類最初の呪術は「埋葬」にあるといわれている。
つまり、「霊魂」の発見。
そうだろうか。起源としての埋葬は、そのようにしてはじまったのだろうか。
そうではない。それは、死者が天国に行くためでも生まれ変わるためでもない。
それは、純粋に死者を死者として祀り上げる行為として、そういう原始的なイノセントとはどのような心の動きだったのか、と問われるべきではないだろうか。
べつに、死者が天国に行ったり生まれ変わったりというようなかたちで生き延びさせるための行為だったのではない。
原始人の生の作法に、「生き延びる」などというコンセプトはなかった。「霊魂」や「天国」や「生まれ変わり」を発見したのではない。
それでも埋葬という行為が起きてきた。
それは、原始人のイノセントが生み出したのであって、迷信によってではない。
彼らはただもう哀しかったのであり、死者のことを忘れてしまいたくなかった。ただもう死なれたらよけいに死者が恋しくてたまらなくなってしまった……それが、埋葬という行為が生まれてくるための必要にしてじゅうぶんな契機だ。原始人はそういう想いで胸がはちきれそうになったから「埋葬」というかたちで死者を祀り上げていったのだ。
現代の葬式だってそのことが第一義的なコンセプトであって、死者の霊魂がどうのということなどはあくまで二次的の問題に過ぎない。
みんなで哀しみに浸り、死者の思い出を語り合うのが葬式だ。それが、葬式の起源であり究極のかたちであろう。
死者の霊魂を弔うためとか、死者が生まれ変わるためとか、そんな目的があったわけではあるまい。人類がそんな作為的な発想をするようになったのはずっと後のことだ。
死者とは生きることができなくなった存在であり、思うことができなくなった存在だと認識するのが原始人の自然な心の動きだろう。死者とはもう語り合うことも微笑み合うこともできない、その事実をどう受け入れようかと思いまどいながら埋葬することを覚えていったのだ。
埋葬の起源は、霊魂がどうのという問題ではない。



縄文・弥生人は、死後の世界など知らなかった。だから奈良時代になっても、神道においては「死んだら何もない黄泉の国に行く」と語られていた。それは、死後の世界などない、といっているのと同じではないか。
つまり日本列島においては、古代になってもまだ原始的なイノセントを引きずっていた。そのようにして縄文・弥生時代は、呪術や迷信とは無縁のままでこの島国独自の文化を洗練させてきた。「黄泉の国」という世界観は、そういうことを意味する。
呪術や迷信が生まれてきたのは大和朝廷が大陸文化を輸入してからのことだ。
「呪術」と「祀り上げる」という行為を同じレベルで考えるべきではない。
「祀り上げる」とか「祝福する」とかということは原始人でもしていたが、自然を操作しようとする呪術とはまた別のことだ。
「死んだら何もない黄泉の国に行く」だなんて、そうとう変則的な世界観に違いない。彼らの葬送儀礼は、死者を天国に送るためでも、生まれ変わらせるためのものでもなかった。死後の世界のことは、考えになかった。死後の世界が「黄泉の国」なら、死によってひとまずこの生が完結したと納得するしかない。そうしてそのことを祝福し祀り上げながら葬送儀礼をしていた。
死んでも体から離れてはたらき続ける霊魂などというものを信じていたら、「黄泉の国」などというイメージは生まれてこない。
たぶん飛鳥時代奈良時代は、土着の「黄泉の国」というイメージと外来の「霊魂」や「極楽浄土」という概念のあいだでどのようにつじつまを合わせてゆくかと試行錯誤していたのだろう。



原始時代のイノセントは、ひたすら死者の「不在」を哀しむことにあった。この「不在」に対する視線こそ、原始的な心性である。彼らは、あの山の向こうは「何もない」と思っていた。
「不在」すなわち「何もない」ということ。すなわち原始人の「他界」に対する意識は、「何もない」と認識することにあった。「天国」や「生まれ変わり」をイメージすることではなかった。
まあ、そのようにして「ゼロ」という概念が見い出されていったのだろう。
日本列島の住民の海の向こうは「何もない」という認識が、そのまま「黄泉の国」のイメージになった。
「未来」などない、「いまここ」があるだけだ、というのが原始的な世界観だった。その世界観の上に原始人の埋葬が成り立っていた。
人間が「死」を知ってしまった生き物であるということは、「他界」を見てしまったということだ。「他界」という認識は、人類が普遍的に共有している。
ただ、その「他界」をどのようにイメージしてゆくかという違いが、イノセントな原始人と迷信深い現代人とのあいだに横たわっている。
「他界」を「何もない」ところとしてイメージしてゆくのは、原始人の心性であると同時に日本列島の伝統でもあった。
日本列島の伝統的な美意識は、「他界=不在」の気配に対する視線として洗練してきた。それが「あはれ」であり「はかなし」であり「幽玄」の美意識である。
原始人の埋葬だって、死者の「不在の気配」を嘆きつつ祀り上げてゆく美意識とともに生まれてきたのだ。



この世のものとは思えないくらい美しい、などいう。
美しいものとは、「不在=他界の気配」をまとった存在である。
人は、「不在の気配」を祀り上げる。美意識が祀り上げる。美意識が希薄であれば、祀り上げるということもしない。人間は、そういう祀り上げる美意識を持っている。
歴史は、人間の「祀り上げる」美意識とともに流れてきた。
現代人は来るべき未来の社会は「どんな社会にすればいいのか」と議論する。
あるいは「どんな社会になるのか」と予測を立てる。
人間は生き延びようとする存在であるという前提の上に立って、生き延びるのに都合がよい社会をつくろうと提案する。
果たして未来はそんな社会になるのだろうか?
われわれの美意識はいま何を祀り上げようとしているのか、ということを見落とすと間違う。
人間は、根源的には、生き延びるために都合がいいものよりも、美意識が祀り上げるものの方を優先して生きている存在なのだ。人類の歴史はそのようにして流れてきたし、誰の人生にだって一つや二つは身に覚えがあることだろう。
人は、生き延びるのにもっともふさわしい相手を選択して結婚するのではない、目の前にあらわれた相手を祀り上げてしまうだけだ。そうやって、「未来」に向かって生き延びるよりも「いまここ」を受け入れ祀り上げてゆくのが人間の本性だ。
この社会のリーダーがどんなに生き延びるのに都合のいい社会を構想して声高に主張しても、すべての人がそれについてくるとはかぎらない。
社会の大きな流れは、「何を祀り上げるか」という主題がつくる。原初の人類は、そういう主題で地球の隅々まで拡散していった。生き延びるのに都合がいい社会をめざすことが主題になるなら、そういうことは起きていない。いまだにチンパンジーと同じように住み心地のいい地域にひしめき合っているだけである。
人間は、何かを祀り上げながら生きている。
われわれの美意識はいま、何を祀り上げようとしているのだろうか。それはたぶん、若者たちがリードしている。
生き延びることに執着して迷信深くなってしまっている大人たちにはそれが見えていない。
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