反「日本辺境論」・核問題の日本人論

聖徳太子が遣隋使を派遣するに際して「日いずるところの天子」と宣言したことにはじまって、現在のアメリカからの核持込みまで、日本列島の住民は、「辺境」であることを逆手にとって「知らないふりをする」という戦略で生き延びてきた、と「日本辺境論」の内田樹先生はおっしゃっておられる。
そうじゃないよ、先生。相手が「核なんか持ち込んでいない」というのならそれをまるごと信じるのが友人としての礼儀だ、という思いが誰の中にもどこかしらにあるから、ここまでうやむやになってきただけだ。
われわれ庶民の中には、そういう愚かさがある。それが、絶海の孤島でひしめきあって生きてきた住民の、人と人の関係の流儀だったのだ。
そしてそういう愚かさをなじるのも、内田先生のように「知らないふりをする」という狡猾な知恵を持っているというのも、けっきょくは、戦後に雨後の筍のように続々と登場してきた自意識過剰な連中の言い草にすぎない。
相手が「持ち込んでなんかいない」というのなら、持ち込んでいるに決まっていると思っても、「ああそうか」と答えるしかないではないか。それは、「知らないふりをする」ということではない。「そういうことにしておこう」という意識を共有してゆこうとする、この国流のひとつの礼儀なのだ。
この絶海の孤島の住民は、自分が辺境人だという自覚などないし、辺境人であることに居直って何かを画策しようとしてきたのでもない。いつだって、相手と同じ人間として、何かを「共有」してゆこうとしてきただけだ。人間とは、そうやって何かを「共有」してゆく生きものであると思って生きてきただけだ。
原初の人類が、二本の足で立っていることの居心地の悪さを共有しながら直立二足歩行をはじめたように、われわれもまた、そうした「嘆き」を共有しながら生きてきたのだ。
アメリカが核保有という「けがれ」を負っているのなら、われわれもまた友人としてその「けがれ」を引き受けようとしただけだ。この国には、そういう態度を否定しきれない歴史の水脈が流れている。
そういう愚かさを、われわれは持ってしまっている。
われわれは、どこかしらで、この国に核が置かれてしまう歴史の「運命」を受け入れてしまっている。
僕は、日本列島の住民として、それを「許せない」という正義にも、「それが辺境人の狡知である」という内田先生の小ざかしいへりくつにも、納得はしない。
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「日本辺境論」だなんて、どうしてこんなこぎたない日本人論が大手を振ってのさばっているのだろう。
この国のどこかに核が置かれているということは、われわれにとっては、他国に対する「抑止力」ではなく、われわれ自身の「けがれ」の問題なのだ。
そういう気持ち、あなたにはないですか。
「核」に対するどうしようもないうっとうしさ。
そういう「けがれ」を世界中が負っているのなら、われわれもまた引き受けるしかない。
べつに、中国や朝鮮に対する「抑止力」だけで引き受けているのではない。
内田先生は、中国や朝鮮との「抑止力」の駆け引きでわれわれはそういう状況を選択している、とおっしゃるが、われわれ無知な庶民の心の中心にあるのはそういうことではない。
この国のどこかに核があるということの、どうしようもないうっとうしさってあるじゃないですか。
われわれにとっての「選択」とは、このうっとうしさを引き受けるかどうかという問題なのだ。
「抑止力」がどうのといったって、この国には、すでに核爆弾を5000発つくれるだけでのプルトニウム保有されているのですよ。核爆弾なんか、つくろうと思ったら、いつでもいくらでもつくれる。ミサイルをつくることだって、べつに難しいことじゃない。人工衛星の発射基地があるのだから。
それくらいのこと、中国や朝鮮だって知っているでしょう。
日本人を怒らせたらやばい、ということくらい、アメリカも中国も朝鮮も、骨身にしみて知っているはずです。
いざとなったら、僕だって核爆弾をつくることに同意するさ。日本列島の住民は、いざとなったら、かんたんに「お上」のすることに同意してしまう民族なのだ。そうなったときの日本列島の住民がどういう態度に出るかということくらい、アメリカも中国も朝鮮も知らないはずがない。
われわれは「共有」することがとても上手な民族なのだ。今すぐ世界中が滅びてしまってもかまわない、という意識だって共有してゆくことができる民族なのだ。「日の丸」や「君が代」がいまいち定着しきれないということは、そういうことを意味するんだぜ。
そんなに中国や朝鮮が怖いのなら、中国や朝鮮もろともわれわれも滅びてしまえばいいだけじゃないか。そういう覚悟くらい、われわれ無知な庶民はちゃんとしている。日本人は、そういうことをしかねない民族なのだぞ。
神風特攻隊のように、いざとなったら「生き延びる」方策なんかどうでもよくなってしまうのだ。
この国には、「人間なんか全部滅びてしまえ」と思うやさしい心の持ち主の人がたくさんいる。僕は、そういう人たちが、嫌いではない。
われわれは、「抑止力」がどうのという損得勘定だけで核が置かれていることを引き受けているのではない。この国は、アメリカなんか当てにしなくても、すでに「核」が置かれてある状態にあるのだ。
それは、人は「けがれ」を負って生きてゆくしかない生きものである、という人間としての「運命」を引き受けるかどうかという問題なのだ。
やつらが勝手に「日本」を意識しているだけで、われわれはべつにアメリカや中国や朝鮮に対してどうこうしようとする意識もない。みずからの「けがれ」の問題として「核」を意識しているだけなのだ。少なくともわれわれ無知な庶民にとっては。
おまえらそうやって、賢いふりばかりしていろ。