内田樹という迷惑・ルサンチマン

階層化社会は、「対立」から生まれてくる。
上の階層が下の階層を圧迫するからではない。下が上を突き放すのだ。
階層化社会は、下からつくられてゆく。
現在のこの国では、勉強のできないものが、勉強を拒否する。そんなことは、できるやつが勝手にやってくれ、と。
金儲けのできないものが、金儲けを拒否する。そんなことは、できるやつが勝手にやってくれ、とニートやフリーターが言う。
ナンバーワンよりオンリーワン」などというが、ずいぶん傲慢なスローガンではないか。じつは、それこそがイギリス貴族のアイデンティティなのである。彼らは、生き方も趣味も、きっちりと自分だけのこだわりを持っている。
そうやって個性がどうのと問題にすることじたいが、人と人を対立させて階層化にむかう契機になっている。
誰もが「競争」へと煽り立てられる世の中だもの、だったら、「無能」であることこそもっともきわだった個性(オンリーワン)になる。
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人は、どこかしらで、有能であることを軽蔑している。有能であれば、イギリス貴族のように有能であることにしがみついて生きてゆかねばならなくなる。無能であることの方が、ずっと自由で豊かなのだ。これが、階級社会を成立させている論理である。
自分が自分であることの根拠は、有能であることか。そんなことじゃない。これは、形而上的な問題である。そういう問題に目覚めたものは、無能であることを選択する。
有能であることなど、形而下の問題にすぎない。
世のため人のための仕事など貴族階級に任せて、労働者たちが毎晩パブで飲んだくれたり喧嘩に明け暮れたりしていることの方が、ずっとこの生の根源と向き合った生き方になっている。
若者が、無能であることを選択する時代になった。おそらく、そのことが階層化社会の契機になっている。有能なものたちから置き去りにされたのではない。彼ら自身が、この生の形而上的な問題に目覚めてしまったからだ。
「オンリーワン」として他者から「差異化」してゆくことを迫る世の中であるのなら、もう無能であることを選択するしかないではないか。無能であることこそ、もっとも純粋で形而上的な「オンリーワン」のかたちなのだ。
内田氏は、そのことに、まったく気づいていない。無能であることを軽蔑するような言い方ばかりしているが、軽蔑されているのは、有能なあなたの方なのだ。
あなたは、「能力」という形而下の問題ばかりにこだわって、現代の若者たちがかかえている問題の切実さに気づくことがまるでできていない。彼らは、内田氏よりもずっと哲学的形而上的に思考している。
レヴィナスの本を読んでレヴィナスを語ることなんか、形而下のたんなるテクニカルな問題にすぎない。
ニートやフリーターの彼らは、この生のかたちとして「無能」であることを選択したのだ。そのことが何を意味するのか、少しは考えてみたほうがいい。
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現在の日本のようにあらゆる地域で都市化が進み、都市が成熟してくれば、若者の大人に対する反抗は「目障りなんだよ、消えてしまえ」というかたちをとる。つまり、突き放す。
そうして内田氏のような「能力」という形而下の問題で生きている大人たちもまた、彼らを突き放すようにどんどん自分たちを正当化してゆく。
こうして、社会の階層化がすすんでゆく。
内田氏がなぜいつも若者や子供や女をさげすむような言い方をするのかといえば、おそらく彼自身がそうしたものたちから突き放される体験をしているからだろう。彼らは、内田氏が形而下でしかものを考えていないことをちゃんと見抜いている。
現在のニートやフリーターという階層のものたちが上の階層のものたちをただねたんでいるだけかといえば、そうともいえない。軽蔑して突き放してもいるのだ。むしろそちらの気分の方が強いから、階層化が進むのだろう。
内田氏は、下の階層のものたちに対して、われわれをうらやんでわれわれを見習え、という。しかし、見習うべきは、内田さん、あなたの方かもしれないのですよ。
階級社会では、大人たちが若者を見習おうとしない。
しかしこの国がひとまず欧米諸国よりも階級差の少ない社会をつくってきたのは、「老いては子にしたがえ」というコンセプトを伝統として持っていたからだ。
欧米では、取締役経営者の給料が新入社員の100倍以上である会社もめずらしくないそうだが、この国では、せいぜい10倍程度である。それくらい大人が若者に遠慮している社会だったのに、このごろでは、派遣社員という制度をつくってその差を平気で広げようとしてきている。
階級社会の大人たちは、若者を見くびっている。イギリス社会の若者はそういうプレッシャーを感じているから、パンクロックが生まれてくる。
しかしこの国にはそういうプレッシャーが少なく、若者は大人たちをどこかで軽蔑している。そうやって若者が大人と対等になれる余地(遊びの部分)を持っているから、子供が親の老後の面倒を見るという習俗も残ってきたのだろう。
しかし、西洋の近代合理主義かぶれした内田氏のような大人は、それにいらだち、若者をさげすめ、と煽り立ててくる。そうして時代は少しずつそういう方向に傾きつつあるのかもしれないが、しかし若者が大人たちを軽蔑するというこの国の伝統も、そうかんたんには滅びないだろうと思える。
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内田氏は、ただ無邪気に女や若者や子供をさげすんでいるのではない。あれは、彼らから軽蔑され突き放された屈辱の記憶からくるルサンチマンなのだ。
彼のそうした言いざまこそ、この社会の親子の断絶という傷をさらに押し広げる元凶になっている。それは、一部の階層の既得権益を守る役には立っているのだろうが、他の階層との断絶をさらに押し広げている。
階層化の流れを押しとどめたいのなら、下のものを否定するのではなく、上のものがみずからを否定して、たとえば派遣社員制度をやめるというようなかたちで格差をなくしてゆくしかないのだろう。これは、「老いては子にしたがえ」という日本社会の伝統である。昔の人は、若者の勝手なわがままやおろかさを否定しなかった。「女三界に家なし」といって、女の中の「家」に対する疎外感を否定しなかった。女はそういう疎外感をもっているから、熟年離婚などというかたちで亭主を捨てるのだ。内田さん、あなただって、身に覚えがあるだろう。女の中のそういう疎外感に気付かないから、捨てられるのだ。
ともあれ昔は、そうやって、世代の階層であれ、身分の階層であれ、上のものは自己否定して下のものを肯定してゆくということをしていた。そこから「若衆宿」や「子が親の老後の面倒を見る」という習俗が生まれてきたのだ。
若者に対してであれ、女に対してであれ、他者が抱くこの社会に対する疎外感を肯定してゆく。これが、日本列島の生活の流儀だった。この流儀によって、経営者の収入が新入社員の10倍でしかないという非階級社会が成り立っていたのだ。
日本列島のように、人口密度が高くしかも逃げてゆくことのできる「外国」も持たない地域では、一人ひとりがいくばくかの「疎外感」を持っていなければうまく関係を維持してゆけなかった。そしてこれは、人口が無際限に増えてしまった現在の地球全体の問題でもあるだろう。
内田さん、あなたは、なぜ若者や子供や女たちが抱いている「疎外感」を肯定できないのか。あなたが肯定しているのは、あなたのまわりであなたをちやほやしている者たちだけではないか。
そんなことくらい、誰にでもできる。あなたは今、逃げていった奥さんや娘の「家」に対する「疎外感」に気付き、それを肯定できているか。
あなたがほんとうに肯定するべきは、あなたを軽蔑し突き放した者たちだ。
レヴィナス先生はきっとこう言うだろう。そこにおいてわれわれは神から試されているのだ、と。