内田樹という迷惑・イギリスの高慢と偏見2

50万年前の氷河期、最初にイングランド島に住み着いていった人々は、誰もが群れからはじき出された「あぶれもの」だった。
しかし極寒の地では、群れをつくらないと生き延びることはできない。
「あぶれもの」どうしが、たぶんそのころでは人類でもっとも大きな群れを形成していった。
これが、約50万年続いたイングランド島のネアンデルタールの歴史である。
あぶれものは、勝手な行動をする。それでも、そんなものたちが集まってできるだけ大きな集団を形成しないと、極寒の地では生き延びられない。
そのために、言葉がどんどん「伝達」の機能を濃くしていった。そのことにまぎれがあっては、集団が壊れてしまう。
それに、極寒の地では、あまり口を大きく開けてしゃべれない。だから、やまとことばのように口をあけて最後に母音を開いてゆくような発声はしない。子音で切ってしまう。
彼らは、話すことにあまり快楽を見出さなかった。話すことは、あくまで「伝達」という「労働」だった。というか、そうした「労働」それじたいが、彼らの快楽だった。
英語ほど「伝達」の機能の濃い言葉もない。
「おはよう」というあまり意味のない挨拶の言葉だって、この島にくれば「グッド・モーニング」という、意味を説明し伝達するというくどい表現になってしまう。
対岸のフランスでは、「ボンジュール」という、ただの掛け声のような言葉である。この断絶は、いったいなんなのか。ドーバー海峡の断絶?
イングランド島の住民は、他人なんか信じていない。人間なんか勝手なことを思い勝手なことをするものだ、と思っている。
それが、人類でもっとも群れに適合できないメンタリティを持ちながら、もっとも大きくタイトな群れをつくらねばならなかったものたちの人間観だった。他人なんか信じていない人たちが、懸命にチームワークを育てていこうとしたのが、イングランド島の歴史なのだ。
であれば言葉はもう、伝達の機能一辺倒にしてゆくしかなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伝達の機能が濃い英語は、人間関係が鬱陶しくなる言葉である。そういう言葉にしなければ、群れをつくってゆくことができなかった。
イギリス人は、氷河期において人類でもっとも大きな群れをつくっていた民族だからこそ、他人がそばにいることの鬱陶しさをほかのどの民族よりもよく知っている。だから彼らの心の中には、つねに他人を突き放してしまおうとする衝動がくすぶっている。
刑罰の制度と技術がいちはやく発達したのは、イギリスである。そうして「リチャード三世」の話に代表される貴族どうしの凄絶な暗闘も、イギリスならではのことであろう。もしかしたら19世紀の植民地政策で中国人を阿片づけにしてしまった残虐さも、この伝統の上に成り立っているのかもしれない。
と同時に、大きな群れをつくって維持してゆくことの長い歴史があるから、世界に先がけて議会制民主主義の制度を持つこともできた。それは、ネアンデルタール時代以来の伝統の成果だったのだ。
そしてこの、他者を突き放そうとしつつ一緒に暮らしてゆこうとするメンタリティによって、階級制度がつくられていった。
彼らは、誰もが同じ階級であることに耐えられない。階級間の対立があることによって、はじめて共同体が成り立つ。彼らは、他者との「差異」を確認しようとする。それは、他者を理解することではなく、自分だけの世界を持つことだ。
自分だけの世界を持っているという自覚は、他者を突き放すという「高慢と偏見」の上に成り立っている。他者を理解する必要など何もない。
突き放すということをしなければ、鬱陶しさが増すばかりだ。
ひといちばい他人を鬱陶しがるものたちが、どこよりも大きくタイトな群れを形成して生きてきた。それが、イギリスの伝統である。
対立そのものを群れの結束のばねにしてゆく。そうやって階級社会が定着していった。
イギリスでは、労働者階級のものが大金持ちになっても、けっして上流階級には入れない。労働者階級は、どこまでいっても労働者階級なのだ。
彼らは、他者との差異を確認し他者を突き放すという習性が、骨の髄まで染み込んでいる。
50万年前からおよそ5、6千年前まで、人間がヨーロッパ大陸からイングランド島にやってくることができるのは、ドーバー海峡が陸続きになる氷河期だけだった。
氷河期にやってくるのは、「あぶれ者」だけである。好きこのんでやってくるような土地ではない。つい最近まで、ヨーロッパ大陸の人間は、誰もこの不毛の地であるイングランド島に行きたいとは思わなかった。
イングランド島の者たちだけが、大陸に対して、俺たちはおまえらとは違う、と思っていた。
イングランド島は、「あぶれ者」の行き止まりの地だった。ここで追い出されたものは、もうどこにも行くところがなかった。他者を突き放してもほかに行くところがないから、突き放すことじたいが結束の力になっていった。突き放さなければ、結束することができなかった。結束しているから、突き放すのだ。
そういうかたちで彼らは、孤立した歴史を歩んできた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イギリスは、女王陛下の国である。それは、その権力が、下からまつりあげられたものであることを意味する。貴族階級にしても、やっぱり下からまつりあげられたものに違いない。つまり、そうやって下から「突き放される」のだろう。
世界中でいちばん「高慢と偏見」に満ちた国民が、どうして貴族階級などという優雅な階層を許すのか。それは、貴族階級が共同体の維持のためにみずからの自由を売り渡してくれているからだろう。彼らは、みずからの自由を犠牲にして共同体のために働く義務を負っている。戦争のときは真っ先に死ぬかもしれない最前線に立たねばならないし、イギリスの栄光と名誉のために、つねに強いジェントルマンとして生きてゆかねばならない。子供だって、そういう人格に育てねばならない。趣味も教養も、限定された範囲で、しかも一流であらねばならない。自由なんか何もない。
貴族階級は、イギリスがヨーロッパ大陸と対抗するための盾にさせられている。そしてその陰で労働者階級は、喧嘩に明け暮れたり飲んだくれたりする日々に耽ってゆく。すくなくとも大英帝国全盛のころは、そういう階級間の合意と調和があった。
イギリスに貴族階級が存在することは、イギリス人のヨーロッパ大陸に対する見栄なのだ。貧しい国だと思われたくないのだ。そういう伝統は、もうずっと昔からあったに違いない。ほんとに貧しかった昔ほど強かったのかもしれない。何しろイングランド島からは、ドーバー海峡の向こうのヨーロッパ大陸がいつも見えているのだから。