内田樹という迷惑・若衆宿の伝統

「あそぶ」とは解き放たれることであり、「労働」は閉じ込められることである、という言い方もできるかもしれない。
閉じ込められるから苦痛だとはかぎらない。
母親の胎内にあることのまどろみ。
お母さんに抱かれておっぱいを吸っていることの充実。
家の中にいること、会社の中にいること、国民であること、そうやって自分を閉じ込める枠を持っていることがその人のアイデンティティになっていたりする。
この生にぴったりはまり込んで、死とは無縁でいられるなら、ひとまず幸せで安心だろう。
けっきょく、人が閉じ込められてある状態に身を置こうとすることの根源は、ひとまず死とは無縁の存在でありたいという欲望にあるのでしょうか。
そういう欲望こそ人間の本性である、と内田氏は言っているわけです。
しかし人間がそれだけの存在であるのなら、なんだかさびしいし、かなしい話だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
胎内にいたって、いつかは外にはき出されてしまう。
いつまでもお母さんの腕の中や家の中にいられるものではないし、それらの外に出てはじめて体験されるよろこびやときめきもある。
やっかいな仕事が終ったときの解放感は、またとくべつのものがある。
海外旅行は、国の中に閉じ込められてあることから解放される体験でしょう。
通過儀礼」という。そうやって胎内や家や学校の中に置かれることは、人間として成熟してゆくための「トレーニング=通過儀礼」である、というわけです。
家族の中に身を置いたり結婚したり親族を持ったりすることは、人間として成熟してゆくための「トレーニング=通過儀礼」である、と内田氏は言っています。つまり、そういう体験もその外に出る体験も同じだということ、その外に出る体験は中にいる体験をもっと充実させることだということ、ようするにどちらも同じ体験なのだと言っているわけです。
だから、「人間の本性は労働することにある」という論理になる。
けっきょく労働することがすべてなのだよ、と言う。
そうでしょうか。
家族の中で成長することと、家族の外に出てゆくことは、同じ体験でしょうか。
家族の中では飯を食うのにお金なんか払わなくていいけど、そとでは払わなければならない。家族の父や母や兄弟姉妹と仲良くすることなんかはじめから約束されていることだが、外に出たらそうはいかない。それなりに手続きが必要で、約束されてなんかいない。しかし家族の中で恋愛やセックスなんかおぼえられないが、外に出たら体験できる。
「若者」とか「青春」とかという時代を生きることは、大人になるための予行演習ではない。大人であることとは別の内容や次元の体験をする時代なのだ。
仕事をすることと、仕事から解放されて遊ぶことと、おなじ内容と次元の体験でしょうか。そうじゃないでしょう。そんなようなことです。
「人間の本性は労働することにある」などということはいえないはずです。それだけではすまないのが人間なのだ。
内田さん、あなたはなんにもわかっていない。口だけは達者だが、考えることが短絡的過ぎる。
「若者」という時代を生きることは、大人になるための予行演習ではない。予行演習だと思いたがるのは、大人の嫉妬だ。そして、予行演習のつもりでいる若者は、大人に飼い馴らされて「若者」という体験ができなくなってしまっているのだ。
「若者」という時代は、家の中でも大人の仲間でもない「結び目」の時代なのだ。彼らは、成熟することを拒否する本能を持っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本列島の伝統として、「若衆宿」という習俗が古くからあった。昭和以前までは、若者が集まるためのそういう施設がどの村にもあった。
およそ思春期になったころから社会人として働き始める二十歳前後のころまでの若者たちが自治組織を作って共同生活をする、という習俗です。夕食を食べた後はみんなが若衆宿に集まってきて、話をしたり、いっしょに「夜這い」をしたり、まあそんなような大人社会とは別次元の暮らしをともにしてゆく。
司馬遼太郎の話によると、若衆宿は、庄屋・村長以下の大人社会と同格だったのだとか。彼らは、ふだんは勝手なことをして許されている代わりに、村の祭りや山火事や海難事故のときは率先して事態の処理に当たる。このときはもう、大人たちの誰も口を出せない。
この国には、若者たちが「大人なんか関係ない」と思ってしまう伝統がある。全共闘運動などまあそんなようなものだったし、現代の若者たちが大人たちの着ることができない擦り切れジーンズやへそだしルックやミニスカートをまとうのも、それはそれで「大人なんか関係ない」という「遊び」の意識のあらわれに違いない。
若者は、大人たちと違って、自分を捨てて事件の渦中に飛びこんでゆくことができる。イラクの戦場に単身で乗り込んでいってゲリラにつかまり人質になるとか、いいことか悪いことかよくわからないが、それもまあ「遊び」に生きている若者ならでは行為だろう。
「遊び」の中で生きている若者はそういう能力を持っているからこそ、祭りや事件のときは先頭に立って活躍するという「若衆宿」という伝統が続いてきたのだろう。
成熟することを拒否して「今ここ」に生きているものでなければ、事件の渦中に飛び込んでゆくことはできない。
恋愛だって、一種の事件の渦中に飛び込んでゆく行為です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
若衆宿の若者は、そこで大人になるためのトレーニングをしているのではない。「大人なんか関係ない」と言って、大人になる(=成熟する)ことを拒否している。
そういう「遊び」を体験しておかないと、大人になってからその「つけ」がまわってくる。仕事帰りに飲み屋に立ち寄っても、ちっとももてない。部下から慕われない。自分を捨てるというタッチを持っていないから、挫折するとたちまち「鬱」に浸されてしまう。
自分を捨てて大人の社会から逸脱してゆく、という「遊び」のタッチを持っているからこそ、飲み屋でもてもするし、部下からも慕われるし、挫折という体験と和解することもできる。
「老いる」とは、生きものとしての挫折体験なのだ。だから、誰もがそれを体験させられ、それでもなお自分にしがみついて「鬱」だの「痴呆症」だのということが起きてくる。
現代に暮らすわれわれは、近代合理主義とやらに、よけいな自己意識を植え付けられてしまっている。たぶん、それが、元凶なのだろうと思う。
金や社会的地位や見てくれの顔かたちでしか女にもてることができない。だから、老いて
それらのものをすべて失えば、もう残るものは何もない。
女にとってのセックスアピールは、たぶんそのどれでもない。
自分を捨てる、という「遊び」のタッチを持っていれば、そうかんたんに「鬱」になんかならない。なぜなら「鬱になる自分」を持っていないのだから。
内田氏は「街場の現代思想」という著書の中で、若者に向かって、おもしろおかしくさかんに生き方のアドバイスをしている。しかしその声がどうにも空々しく強圧的に聞こえるのは、彼があくまで大人としての立場を崩さず、同じ人間として、あるいは友人としての視線をいっさい欠いているからだ。面白おかしくしゃべっているけど、「遊び心」がまったくない。内田さん、「遊び心」とは、面白おかしくしゃべることじゃないのですよ。大人である自分を捨てて、同じ人間あるいは友人としての立場に立てるかどうかというところにあるのだ。
まったく、口だけは達者なんだから。人をたらしこむ能力が遊び心だと思っていやがる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
内田氏は、若者という時代を、大人になるための予行演習の時代だと思っているらしい。
内田氏の意識の中では、人生は、生まれてから死ぬまで一筋縄としてちゃんとつながっていっている。人間存在には、家とか社会とか学校とか会社とか国とか、つねに自分を取り巻く「枠組み」があり、そういう枠組みの中をすんなり生きてゆくことが人生だと思っておられる。すんなり生きてゆくのが正しい生き方だと思っておられるらしい。
若者という時代が、社会の中の大人という時代にも、家の中の子供という時代にも属していない、いわば「結び目」の時代であるという認識はない。
若者は、自分を取り囲む「枠組み」がない。裸で世界と向き合っている。そうやって孤立した存在として、裸の視線で世界や他者と向き合ってゆくことが「遊び」なのだ。
内田氏は、つねにみずからの身体を意識している。そうして家や学校や社会を身体の延長のようにとらえている。家の中の自分として社会の中の自分として、この世界と向き合っている。
家と自分とのあいだに、社会と自分とのあいだに、断絶した「結び目」を持っていない。
もちろん他者とのあいだにも、「結び目」はない。だから、「あなたなしでは生きられない」というようなねばついたせりふも平気で吐ける。
彼は、みずからの身体の延長としてこの世界をとらえている。
孤立した存在としての視線がない。
「人間の本性は労働することにある」という内田氏は、閉じこめられてあることのまどろみをじゅうぶんに心得ている。だから、その外に出て「遊ぶ」ことができない。
それにたいして家からも社会からも逸脱してしまった若者は、そこで、世界はこの身体の外に存在している、ということを深く思い知らされる。若者は、裸のひりひりした心でこの世界と向き合っている。そういう「なげき」から「遊び」が生まれてくる。
遊びが楽しいものであるということ自体、「なげき」とは無縁でいられないことを意味している。
この社会の中にうまくおさまって気持よく生きているやつに、「遊び」の醍醐味の何がわかるものか。
意識が身体から逸脱してゆき、世界に憑依する。それが、「世界は輝いている」という体験であり、「遊び」のタッチだ。